2016年1月5日火曜日

'UK Blak' と汎アフリカ主義

ピーター・バラカンさんがどこかで言われておりましたが、思春期に影響を受けたものはその後の自分を形成する上で残っていく(相当意訳にまとめていますが)そうで、聴いてきた音楽体験も大体そこに引っ張られていくらしいです。なるほど、確かにわたしにとってのR&Bやソウル・ミュージック、特にファンクの持つグルーヴの中毒性は、今に至ってもなお自分を惹きつけるんですよね。だからジャズ原理主義者が毛嫌いするアシッド・ジャズ系のものなどは、むしろ、わたしにとってはジャズを聴く上での良い入り口だったと思っています。一方で、それまで米国産の音楽ばかり嗜んできた自分が、ある音楽をきっかけにUK産やヨーロッパのものにシフトするグループがいます。

ジャジーBなる、レゲエやレア・グルーヴを中心に回していたDJを中心に結成されたユニットSoul  Soulです。ブラック・ミュージックとして、米国からカリブ海のものをいろいろ物色していた当時のわたしにとり、イギリスというのはいまいちピンと来なかったのですが、そもそもイギリスに住む黒人の大半が旧植民地であったジャマイカなど、西インド諸島からの移民で構成されています。特に彼らが持ち込んだダブの血脈はザ・ビートルズ以降のUK産ポップ・ミュージックの下地に流れ込み、このSoul  Soulというグループ登場へと行き着きます。また、このイギリスという国は日本と似て、米国のポップ・ミュージックに対する偏愛的な影響や、収集癖’ でもって自らの文化と上手に溶け込ませる術を心得ていました。米国という国は比較的過去を振り返らず、新しもの好きな傾向が強いのですが、イギリス人はすでに過去の遺物となった米国のサイケデリック、R&B、ジャズやラテンなどのレコードを収集しては、そこからレア・グルーヴやアシッド・ジャズといったムーヴメントを仕掛け、まさに ‘温故知新’ のごとく古いものから新しい ‘聴き方’ を提示することを大事にしました。このSoul  Soulには米国のR&Bやジャズ、ジャマイカ産のダブから大きな影響を受けながら、しかしイギリスという場所でのみ可能となった独自の存在だと言って良いでしょうね。




‘Keep On Movin’’ のいきなりドスッとぶっとく鳴る(たぶん)Roland TR-808のキック一発。もう、この瞬間こそわたしにとっての大きな最初のパラダイム・シフト’ でした。時代もまさに1989年ということで、それまで世の中から聴こえてきた80’sプラスチックなサウンドから、急にリアルな音像が目の前に現れたような衝撃というか。そして、’Back To Life’ の土着的なコール&レスポンスとレア・グルーヴ感覚。すでに70’sファンクの熱狂的な信者であったわたしにとって、こういうかたちでファンクの黒い感覚が蘇るとは・・。同時代、すでに米国で流行していたニュージャック・スイングと呼ばれるダンス・ミュージックに比べれば、もっとずっと落ち着いていて、そこにはちょっとジャジーな大人っぽい雰囲気さえある。ともかく、ある時代の米国が持っていたR&Bの伝統を昇華させたやり方としては、個人的にイギリスものの方が好みであったことをこのSoul Ⅱ Soulは証明してくれました。そして、ここでフィーチュアされている女性ヴォーカルのキャロン・ウィーラー。このハスキーにしてどこかウェットな質感のする声に一発で参ってしまいましたね。それまでの米国産R&Bシンガーに共通するゴスペル・ライクなスタイルに対し、彼女はレゲエのラヴァーズ・ロック出身ということで、暑苦しくなる一歩手前で抑えるクールな印象が完全にこのオケとぴったりハマっていたのです。

Gota Yashiki Interview

彼らが打ち出したグラウンドビートというグルーヴは、'大地' という意味でのGroundではなく、'擦り付ける' という意味のGrindの他動詞Groundから来ているようで、これは、レゲエのダンスに男女が股間を擦り付けるようにして踊る 'ラバダブ' というのがあり、この辺りから派生した言葉ではないかと思います。それはともかく、ある意味 '大地' と言い換えても良いくらい、この地を這うようなベースラインとキックのぶっとい感じがダブの血統を強く感じ、また、このビート・プログラミングに当時イギリス在住で、元メロン、元ミュート・ビートというグループのドラマーであった屋敷豪太氏が深く携わっていたのは興味深い。何かビートの構成感に日本人的な緻密さがあると言ったらいいかな。屋敷氏の上記リンクのインタビューでは、当時Soul Ⅱ Soulの '心臓部' 的存在であったネリー・フーパーとの出会いが大きかったようですね。そして、このグルーヴにはダブの影響に加えてもうひとつ、そもそもレア・グルーヴのレコードを回すDJであったフーパーやジャジーBらが '見つけてきた' と思われる1曲も元ネタとして強く結び付いています。



ワシントンDC出身のグループ、チャック・ブラウン率いるザ・ソウル・サーチャーズが1974年にリリースした作品 'Salt of The Earth' からの1曲 'Ashley's Roachclip' です。当時彼らは完全なるB級ファンク・バンドでして、この後1978年に 'Bustin' Loose' で全米R&Bチャート1位を記録。その後、またしばし音沙汰もなく1984年に 'We Need Some Money' と共にワシントンDC産のファンク・ムーヴメント、ワシントン・ゴーゴーの創始者としてR&B界に大きくその名を轟かすこととなりました。それはともかく、本曲の実にアフロっぽい雰囲気とレア・グルーヴ的怪しい濃度を持った70'sな下地には、確かにグラウンドビートと共通するクールにビートをキープする感覚が漲っています。ちなみにこのグループからは、ゴーゴーのムーヴメントに注目したマイルス・デイビスによりリッキー・ウェルマンという凄腕ドラマーを発掘、晩年のデイビスのバンドを牽引する存在としてアピールしました。

そんなキャロン・ウィーラーも参加するSoul Ⅱ Soulなのですが、1989年の大ヒットでさあ世界ツアーだ、と意気込んだ矢先にジャジーBとウィーラーの間でグループを巡る諸々のトラブルが起こりウィーラーは脱退、いきなりSoul Ⅱ Soulはグループとしての '声' を失うこととなります。その理由のひとつに、そもそもこのユニットのコンセプトに深く携わっていたウィーラーへ正統なクレジットと対価が支払われず、ほぼジャジーB中心で事が進んでいくことに彼女が強く反発したことが発端となりました。そんなウィーラーが脱退後すぐさま自らのコンセプトを元に1990年、ソロとしてリリースしたのが 'UK Blak'。わざわざスペルから 'Black' のCを抜いたのは、ジャマイカ移民のアフリカン・ブリティッシュとして米国の黒人とは違うアイデンティティを表明してとのことで、単なるポップ・シンガーではない強いこだわりが伺えます。また、グラウンドビートのアイデアも元は私にあると主張したいのか、元ネタの 'Ashley's Roachclip' をサンプリングした 'Never Lonely' で、自分こそグラウンドビートのオリジネイターであると訴えているような完成度です。この原曲が持つアフロっぽい雰囲気が、そのままウィーラーの思想であるカリブ海から汎アフリカ主義的なスピリチュアリズムへの志向と結び付けるようにアレンジしたのはさすがですねえ。

このような 'アフリカ回帰' 的なユートピア思想は、特に想像上の 'アフリカ' というルーツを観念的に捉える一部のアーティストたちに共通するものです。例えばジョン・コルトレーンからアーチー・シェップ、ファラオ・サンダースらのフリー・ジャズとアフロ・スピリチュアリズムの関係や、ヒップ・ホップにおけるアフリカ・バンバータと 'ズールー・ネイション' といったかたちで、スローガン的に連呼して自らの立ち位置を再確認することは彼らにとって意味があるのだと思います。



また、そんな 'アフリカ回帰' なメッセージを軽やかに打ち出したヒップ・ホップ・ユニットとして、アフリカ・ベイビー・バム、マイクG、サミーBの3人からなるジャングル・ブラザーズがいます。1988年の 'Straight Out The Jungle' はまさにヒップ・ホップ黎明期を飾る1曲。ここでサンプリングされる1970年代のファンク・グループ、マンドリルの 'Mango Meat' もこれまたアフロ志向とレア・グルーヴ感覚の強いもの。彼らは当時のヒップ・ホップ界を覆い始めていた 'マッチョイズム' (銃やドラッグ、暴力など)を志向しない 'ネイティブ・タン' と呼ばれる一派の 'はしり' であり、これ以降のデ・ラ・ソウル、ア・トライブ・コールド・クエストといった連中が続くことでヒップ・ホップの音楽的追求を試みていました。そうそう、このアフリカ・ベイビー・バムは、キャロン・ウィーラー1990年の 'UK Blak' からのシングル・カット 'Livin' In The Right' のプロデュースをしているんですよね。おお、ここでようやく 'アフリカ' が繋がった!





このマンドリルも実に雑多な要素を持ったB級ファンク・グループとして、ジャズやロックにラテン、アフロ、その他怪しげな民族音楽的なものを飲み込みながら1970年代に全盛期を迎えました。上は久しぶりの再結成でモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演したもので、下はまさにデビュー直後の貴重なもの。椅子に座って見ているのは御大JB!?マンドリルのデビューした1970年代初期はファンク黎明期なだけに、とにかくあらゆる要素が 'ごった煮' 状態のファンク・グループで溢れており、この初期マンドリルのサウンドだけ聴いてもサイケ、ロック、ファンク、ジャズ、ラテン、アフロ・・といろんな要素の雑多で満ちています(サンタナっぽいかも)。後にディスコでそのイメージを決定させたアース・ウィンド&ファイアーなども、活動初期はこんな感じの 'アフロ・ジャズ・ファンク' なスタイルであり(そもそも彼らはジャズ出身者であります)、彼らと '姉妹的な' 関係であったザ・ファラオズというグループは、コルトレーンのスピリチュアリズムを継承したフリー・ジャズのユニットでした。ちなみに、日本でも彼らのサウンドはよく聴かれており、実はプロレスのアントニオ猪木が入場するテーマ曲もとい、元々はモハメッド・アリのテーマ曲であった 'Ali Bom-Ba-Ye 〜Zaire Chant〜' のオリジナル演奏者が彼らなのです。なるほど、どうりであの曲はアフロっぽかったわけだ。

ある意味で1970年代の音楽は、'第三世界' などと呼ばれた文化の要素を取り込みながらその後の 'ワールド・ミュージック' と呼ばれる芽をつみ始めた最初の時期でした。それはラテン界隈から登場したサンタナやウォーにしろ、'アフロ・ロック' などと呼ばれて一時的に脚光を浴びたオシビサやラファイエット・アフロ・ロック・バンドにしろ、すべてアメリカナイズされた上で '作られた' 想像上の異国情緒を増幅する存在に '成り切る' ことで幻想を具現化させていました。



一方で、本場アフリカ大陸はナイジェリアで軍事独裁に反対して、欧米の資本主義により蔓延する拝金的な社会や宗教を痛烈に批判、自ら 'カラクタ共和国' を宣言して '帝国' のシステムから逃れるようなメッセージを訴えるフェラ・クティ。彼が率いるアフリカ'70と共にアフロビートの存在こそ最も強力な武器であると豪語します。同じようなメッセージは、1970年代のジャマイカで広く普及したラスタファリアニズムにおいても、まさに警戒すべき敵として 'バビロン' という名で注意を促していましたね。





'アンプリファイ' なサックスのイノベイターであるエディ・ハリスもレス・マッキャンと共演する頃には相当に '真っ黒' で、ガーナでのライヴではかなりのアフロ志向となっておりますね。そして、御大JBも 'Soul Train' のステージで鋭角的に攻めながら叫びます。そう "Say It Loud, I'm Black and I'm Ploud !" と。


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