2021年7月15日木曜日

オン・ザ・コーナー: 考察

 1972年の ‘On The Corner’ から出発しよう。この錯綜するポリリズムの喧噪をどう表現すればよいのだろうか?まるで、カーステを唐突に触って耳に飛び込んできたような衝撃、助走のないグルーヴの混沌は、しばし身体を預けるためのチューニングに時間を要するだろう。その長いイントロダクションの間、主役’ は勿体つけたように引きつったリズムの影に隠れながら、むしろ積極的に打楽器としての役割で混じり合おうとしている。

早速、自叙伝から本人による ‘取り扱い説明書’ を開いてみる。

オレが「オン・ザ・コーナー」でやった音楽は、どこにも分類して押し込むことができないものだ。なんて呼んでいいのかわからなくて、ファンクと思っていた連中がほとんどだったけどな。あれは、ポール・バックマスター、スライ・ストーン、ジェイムズ・ブラウン、それにシュトゥックハウゼンのコンセプトと、オーネットの音楽から吸収したある種のコンセプト、そいつをまとめ上げたものなんだ。あの音楽の基本は、空間の扱い方にあって、ベース・ラインのバンプと核になっているリズムに対する、音楽的なアイデアの自由な関連づけがポイントだった。オレは、バックマスターのリズムと空間の扱い方が気に入っていた。シュトゥックハウゼンが好きになったのも、同じ理由だった。これが、「オン・ザ・コーナー」に持ち込もうとしたコンセプトだった。それは、新しいベース・ラインに合わせて、足でリズムが取れるような音楽だ。"


この音楽は、当初から多くの ‘記号’ を纏いながら、あらゆる ‘ジャンル’ という括弧からこぼれ落ちるような存在として自立している。インドの民俗楽器、ファンクの黒いストリート感覚とジェイムズ・ブラウン、スライ・ストーン、オーネット・コールマン、ヒップ・ホップのルーツ的グループと呼ばれるザ・ラスト・ポエッツ、そして、ポール・バックマスターを通じてもたらされたカールハインツ・シュトゥックハウゼンとヨハン・シュトゥラウス・バッハら錚々たる ‘振れ幅’ は、この ‘謎解き’ に用意された地図であると同時に、深い迷宮へと誘う ‘だまし絵’ の役割を果たす。マイルス・デイビスなど知らない黒人のガキどもへ届けとばかりに送り出されながら、しかし、ほとんど聴衆不在となった ‘黄色いジャケット’ の意匠。このアルバムの ‘共犯者’ として選ばれたバックマスターでさえ、まるで躊躇うように近づくことができない。ただ、焚きつけるような ‘アフォリズム’ を宙に放っただけだ。

それでもこの、一切自立しているような ‘黄色いジャケット の周りにあらゆる点と線を結び付ける ‘地図’ を描き出すことは可能だ。なぜなら、このアルバムは50年以上経った現在においても強烈にその匂いを放ち、多くの ‘越境者’ を虜にする魅力を纏っている。

すでに、このアルバムに付随するダブ、ヒップ・ホップ、ドラムンベースといった ‘ジャンル’ の先駆者としての位置づけで語ることも陳腐化し、’On The Corner’ を巡る語彙とバックグラウンドは拡大したが、それは ‘言説化’ されなかったタームがテクノロジーの進化と共に鮮明となったにすぎない。もちろん、デイビス本人も現在のストリートの潮流を見越して ‘先取り’ したわけではないだろう。しかし面白いのは、現在のストリートを占拠しているダブやヒップ・ホップの手法が、この1972年の ‘On The Corner’ と並行して勃興していることである。’On The Corner’ 秘術的なミックスを手がけたテオ・マセロの頭の中にあったのは、むしろ、ピエール・シェフェール以降のミュージック・コンクレートなどのカットアップやテープ編集の手法であった。それらは現代音楽における緻密なコンテクストと編集作業によって進められるものだが、キングストンの貧しい環境においてリディムのリサイクルからミックスの ‘換骨奪胎’ に挑むダブや、ニューヨークのストリートに二台のターンテーブルを引っ張り出し、剽窃と誤用’ によりレコードの意味を変えたブレイクビーツの手法と比べても、そのバックグラウンドは異なれ、驚くほど近似的なアプローチを取っている。また、ミュージック・コンクレートやシュトゥックハウゼンのライヴ・エレクトロニクスによる密室的な作業に比べ、ダブやヒップ・ホップの手法は、限定された環境と編集による再生産の解釈がそのまま、音楽市場の商業主義に対する ‘批評的行為’ として機能したことに意味があった。それは孤立無援であった ‘On The Corner’ の惨敗に対し、ダブはレゲエのマーケットを超えて生み出される副産物の ‘リミックス’ として発展し、ヒップ・ホップのブレイクビーツにおける ‘再生産’ は、1980年代以降のサンプラーやシーケンサーなどのテクノロジーと共に ‘ループ’ という概念へと変化したことからも明らかだ。このような黒人の身体感覚と限定的なテクノロジーによるダブ、ヒップ・ホップの萌芽、一方のスタジオにおける密室的な実験精神から生み出される ‘On The Corner’ の手法は、現在の袋小路なポップ・ミュージックの突端にそびえ立つ ‘前衛’ そのものとして未だ有効である。






 

また、’On The Corner’ のグルーヴとの ‘相似性’ として、これらと並行するように展開していたアフリカのフェラ・クティを始めとする ‘アフロ産ファンク’ との共通項がある。’On The Corner’ 惨敗の要因のひとつが、当時の米国の潮流であるファンクとの ‘連帯感’ の無さだ。アフリカン・アメリカンでありながら、ジェイムズ・ブラウンやスライ・ストーンを聴いて出来上がったのが ‘On The Corner’ というアルバムであるところに、マイルス・デイビスの深い闇がある。晩年のデイビスのバンドを牽引したドラマー、リッキー・ウェルマンを輩出したザ・ソウル・サーチャーズと1970年代のワシントンDCは、表向き人種差別撤廃の動きと相まって安く住居施設を提供したことから瞬く間に独自のゲットーを構成、アフリカの旧植民地やカリブ海からの移民も流入することで 'チョコレート・シティ' の異名と共にいわゆる 'ゴーゴー・ミュージック' の基盤を築いたもののあくまでファンクの流儀に従っている。このデイビスの異端性は、同じように孤立しながら独自の手法を深化させ、後に ‘ハーモロディクス’ という概念へと統合させたオーネット・コールマンと被さる。彼らはまさに ‘異邦人としての米国’ を体現した存在であり、ブルーズやファンキーというレッテルと共にこの問題の根は深い。我々が現在認識している黒人音楽のグルーヴと呼んでいるものの大半は米国産だが、当然、米国の黒人に対してジャマイカの黒人とナイジェリアの黒人ではリズムの取り方が違う。アフロビートと呼ばれるグルーヴの元にジェイムズ・ブラウンのファンクとの関係があるが、ある意味でそれは ‘誤用’ による多様性の現れである。レゲエのルーツであるスカやロック・ステディが、そもそもはカリブ海を隔ててラジオから流れてくるR&B ‘ジャマイカ流’ 解釈として始まったのも同様だ。

 





’On The Corner’  ‘誤用’ は未だフォロワーを持たない自立した存在だけに、アフロ’ という感覚的なニュアンスに対する ‘反語’ として、これら特異なグルーヴを並べてみることには意味があるだろう。すでに1975年、ドイツの評論家兼音楽家であるマンフレット・ミラーは ’Stereo’ 誌のレビューで 「サウンドストリーム(音の潮流)及び、断片的なソロに代わって、リード・シンガー役を努める合唱隊の礎として、幾重にも織られたリズム・ライン(ドラム合奏)がある、西アフリカの儀式舞の原理に基づいた音楽」 であると、’On The Corner’ について卓見した内容を述べている。おおよそファンキーな連帯感や、'ブラックパワー' 的アフロという観念的な印象からも遠いように聴こえるいびつな ‘On The Corner’ を前に、そのリズム構造とアフロの感覚に着目しているのはさすがだ。

‘On The Corner’ 最大のアフォリズムとして、現在までほとんど触れられていないのがドイツの現代音楽作曲家、カールハインツ・シュトゥックハウゼンの影響である。このアルバム以降、ことあるごとにデイビスは自らの音楽の源泉としてその名前を口にするが、このふたりの関係を結び付ける言説は未だ登場していない。むしろ、スライ・ミーツ・シュトゥックハウゼン’ というスローガンだけが一人歩きして、それがクールだという素振りに終始している。

 




1966年、東京の内幸町にあったNHK電子音楽スタジオを訪れたシュトゥックハウゼンが、そこの電子機器を用いて '作曲・初演' した作品 'Telemusik'。シュトゥックハウゼンによれば、本作は '多チャンネルの特殊な再生方法による音響空間の造型' と '演奏という、不確定な要素を電子音楽に持ち込むことによるある種の人間性復活' にあるとしている。タイトルの 'Telemusik' の 'Tele' は、telephone、televisionの 'tele' であり、時間的、空間的、精神的、内容的にも '隔たり' または '違い' を意味する。本作の再生にあたり、5台のスピーカーを結ぶ直線の中心に向ける(それぞれの方向は中心の1点には結ばれない)。そして、再生時にはシュトゥックハウゼン自身が5台のスピーカーの中心で、5チャンネル・ミキシング回路を操作し、聴衆はスピーカーの内側で中心に向かって位置する。この大掛かりな3群オーケストラによるアコースティックでの音響合成と空間音楽を目指す 'Gruppen' のエレクトロニクス版ともいうべき本作だが、その制作手法のひとつに、日本を始めとした世界各地で録音された音の断片をコラージュ的に用いている。それは、奈良のお水取りや雅楽、薬師寺、高野山、アマゾン、南サハラ、スペインの片田舎、ハンガリー、バリ島、ベトナムの山奥、あるいは中国からの音素材を基にしているという。このような手法についてシュトゥックハウゼンはこう述べている。

"電子音楽を作るとき、これらの音をすべて一緒にして、それぞれを同じ次元で考えようとする。つまりそこで時間、歴史(伝統)、空間という3つの異なった要素を一緒にすることができる。わたしの作った作品はユートピアへの志向であり、予想であって、そこには時間も空間も存在しない。"

ちなみにこの 'Telemusik' は、バックマスターが差し出したシュトゥックハウゼンのレコードのうち、'Gruppen' と共にあった一枚 'Mixtur' (Grammophon 137 012)とのカップリングによるA面に収録されていたものだ。まさに '混合' と題されたこの 'Mixtur' こそライヴ・エレクトロニクスの端緒とされる作品で、オーケストラ編成から 'モメント' と呼ばれる20のブロックとして取り出したものをフィルター処理やリング・モジュレーターで変調、音響合成するものである。果たして、'On The Corner' におけるA面を占める1曲 'On The Corner (2:58)〜New York Girl (1:32)〜Thinkin' One Thing and Doin' Another (1:42)〜Vote for Miles (8:45)' の連続する主題の転換と、同一曲のベーシック・トラックを用いながら '断片' として切り分けていく 'Black Satin' と 'One and One'、そしてこれらの主題が混ぜ合わされていく 'Helen Butte / Mr. Freedom X' という 'ふたつ' の対照的な様式にこの 'モメント' は影響を与えているのか、その興味は尽きない。そして、アルバムのコンセプトなどにも多くのサジェッションを与えたと言われているバックマスターは、アイデアの源泉としてデイビスにこんな '哲学' をぶちまけている。

要するに、抽象性をおおいに取り入れ、一種の ‘宇宙的パルス’ を生み出すことだった。マイルスには「物事というのは、オンかオフか、そのどちらか一方だ。現実とはオンとオフの連続によって成り立っているんだ。」というようなことを話した。なんともクレイジーなアイデアだがね。私が言いたかったのは、音というのはその前後、もしくは隣に静寂さを伴っていなければ、何の意味も持たないということさ。静寂が音楽を作り、音楽の一部だということを言いたかったんだ。シュトゥックハウゼンもかつてこう言っていた。「おまえに聞こえる音の隣にある音を出せ」と。そこで私もマイルスに「オンかオフの宇宙的パルスを持つストリート・ミュージック」というようなことを言ったわけさ。マイルスはそのアイデアを気に入り、アルバムのタイトルだけでなく、表ジャケットには「オン」、裏ジャケットには「オフ」という言葉を使ったよ。

1960年代、ビートニクらカウンター・カルチャーの世代からフラワー・ムーヴメントに至る影響まで、インド哲学や東洋思想などが過度に持て囃され、それまでのキリスト教的価値観に対する大きな疑問符が突きつけられた。知識人の中からも、哲学とフロイト精神分析における権威であったジャック・ラカンや、現代音楽におけるジョン・ケージが鈴木大拙を通じて理解する禅の思想、そしてシュトゥックハウゼンもまた、理論を超えた誇大妄想的な宗教的言説に塗れていく頃でもあり、バックマスターの発言にはそんな時代の雰囲気が大きく作用している。また、デイビスのシュトゥックハウゼンへの理解が、あくまでバックマスターというフィルターを通して見ていたことにも留意したい。






そんな ‘On The Corner’ に強い影響を及ぼしたシュトゥックハウゼンだが、その逆に、シュトゥックハウゼンへはどのように波及したのだろうか。この1975年の小品は 直観音楽’ と称して、従来のセリーや図形楽譜からのコンテクストを脱し、即興演奏をさらに ‘直観’ なる哲学に基づいたコレクティヴ・インプロヴィゼーションにより イメージの具象’ へ挑んだものである。1970年の大阪万国博の帰りに立ち寄ったスリランカでの体験を元に書いた ‘Ceylon’ と、1975年の ‘Bird of Passage’ B面に配されているが、その ‘Bird of Passage’ の方に、息子のマルクスが ‘On The Corner’ に触発されたような ‘アンプリファイ’ によるトランペットで参加している。クラシックと現代音楽を専攻し、父親の難しいスコアも吹きこなすマルクスだが、一方でジャズにも強い関心を持ち、当時、自らのジャズ・ロックのグループで活動していた。また、本盤ではカールハインツ自らも民俗楽器のKandy Drumやフルートを持って演奏に参加しており、ワウペダルの効いたトランペットと無調によるエレクトロニクスが錯綜する中、まるでデイビスとシュトゥックハウゼンの ‘擬似共演’ を聴いているようでもある。ちなみに同じくシュトゥックハウゼンの教育を受けて、その後は架空の秘境ともいうべき 'アンビエント' を提唱したブライアン・イーノとコラボレーションを開始するジョン・ハッセルも1977年のデビュー作 'Varnal Equinox' で間接的に 'On The Corner' からの遺伝子を体現。翌年の2作目 'Earthquake Island' ではタブラのバダル・ロイも参加してさらにその色彩が濃くなった。








'On The Corner' において、影に隠れながらほぼパーカッシヴな変貌を遂げたデイビスのトランペットで '踏む' ワウペダル。1969年の 'Bitches Brew' のレコーディングは8トラックの4チャンネル方式で録音しており、その大所帯なアンサンブルに負けじと自身の吹くトランペットに装着したピックアップからアンプで再生したものをマイクで拾った音、DIからラインでミキシング・コンソールに出力した音、そしてベルからの音をそれぞれ三通りでミックスすることでエコーに象徴される新たな音作りに威力を発揮した。さらにそれをステージへと持ち込んだ最初のアプローチとして、1971年発表の2枚組 'Live-Evil' では要所要所でオープンホーンとワウペダルを使い分け、それまでのミュートに加えて新たな 'ダイナミズム' の道具として新味を加えようとする意図は感じられた。しかし 'On The Corner' 以降はほぼワウペダル一辺倒となり、トランペットはまさに咆哮と呼ぶに相応しいくらいの 'ノイズ生成器' へと変貌・・。このアプローチへのきっかけのひとつとして、当時Hammondから発売された世界初の 'ギター・シンセサイザー' の管楽器版RSMを第一人者エディ・ハリスや駆け出しの頃のランディ・ブレッカー、そして御大マイルス・デイビスへ本機 '売り込み' の為の大々的なプロモーションがあったことが、1970年の 'Downbeat' 誌によるダン・モーゲンスターンのインタビュー記事に詳述されている。

"そこにあったのはイノヴェックス社の機器だった。「連中が送ってきたんだ」。マイルスはそう言いながら電源を入れ、トランペットを手にした。「ちょっと聴いてくれ」。機器にはフットペダルがつながっていて、マイルスは吹きながら足で操作する。出てきた音は、カップの前で手を動かしているのと(この場合、ハーモンミュートと)たいして変わらない。マイルスはこのサウンドが気に入っている様子だ。これまでワウワウを使ったことはなかった。これを使うとベンドもわずかにかけられるらしい。音量を上げてスピーカー・システムのパワーを見せつけると、それから彼はホーンを置いた。機器の前面についているいろんなつまみを眺めながら、他のエフェクトは使わないのか彼に訊いてみた。「まさか」と軽蔑したように肩をいからせる。自分だけのオリジナル・サウンドを確立しているミュージシャンなら誰でも、それを変にしたいとは思っていない。マイルスはエフェクト・ペダルとアンプは好きだが、そこまでなのだ。"



それはいわゆるギター的アプローチというほどこなれてはおらず、また、完全に従来のトランペットの奏法から離れたものだっただけに多くのリスナーが困惑したのも無理はなかったであろう。これは同時期、ランディ・ブレッカーやエディ・ヘンダーソン、イアン・カーらのワウワウを用いたアプローチなどと比べるとデイビスの '奇形ぶり' がより際立っている。そんなリズム楽器としてのトランペットの '変形' について1973年の来日公演を見たジャズ批評家、油井正一はこう酷評した。

"マイルスの心情は理解できる。トランペットという楽器を徹底的に使い切った彼は、もはやこの楽器に新しい可能性を発見できなくなったのだろう。だがしかし、たとえ電化トランペットに換えたとしても、トランペットをリズム楽器に曲げて用いることは誤りである。(中略)「オン・ザ・コーナー」が私に駄作に聴こえたのは、そのためだ。(中略)電気トランペットによるワウ・ワウ効果は、ありゃ何だ。いくらマイルスが逆立ちしようが、ワウ・ワウ・トランペットの史上最大の名手で40年前に故人となったバッバー・マイレイに及びもつかぬのである。"

そんなデイビスのワウによるフレージングに大きな影響を与えたのでは?と思わせるのがブラジルの打楽器、クイーカとの関係である。印象的な 'Isle of Wight' のライヴ動画で、デイビスのステージ後方を陣取りゴシゴシと擦りながらトランペットに合わせて裏で 'フィルイン' してくるパーカッショニスト、アイルト・モレイラの姿はそのままデイビスのワウを踏む姿と完全に被る。その録音の端緒としては、1970年5月4日にエルメート・パスコアール作の 'Little High People' でモレイラのクイーカやカズーと 'お喋り' するようなフレイズを披露しており、すでにこの時点で1975年の活動停止まで探求する 'アンプリファイ' の指針は示されていることに驚く。もちろん、大局的な視点で言えば1970年代はまさに 'ワウの時代' であり、ファンクではアイザック・ヘイズの 'Theme from Shaft' に象徴的な16分ハイハットと対を成すワウ・カッティングこそ 'ブラック' の声を代弁した。弟分的存在のザ・バーケイズによる 'Son of Shaft' にもそれは受け継がれているが、デイビスが6年の沈黙から1981年に復活して再びワウを踏んだ時点ですでに '時代の遺物' と化す '栄枯盛衰' な存在・・それがワウという '熱病' であった。さて、この電子機器の活用と共にそれまで培ってきた伝統的なトランペットの '語法' を見直してきたことを、ジョン・スウェッドは自著の「So What - マイルス・デイビスの生涯」でこのように記している。

"最初、エレクトリックで演奏するようになったとき、特に感じるものはなく、そのことはマイルスをがっかりさせた。コカインでハイになるのとは違っていた - むしろエレクトリックというのは徐々に体の中で大きくなっていくものだ、とマイルスは表現した。快感はある。しかしそれはゆっくりとした快感だった。やがて、必死になって音を聞こえさせようとしない方が長くプレイすることも可能だとマイルスは知った。そのためにはいくつかの調整が必要だ。あまり速く演奏してしまうと、パレットの上で絵の具が流れて混ざるように、音が混ざってしまう。そこでフレージングの考え方を一から見直すことにした。長くて二小節。メロディの合間からもっとリズムを聞こえさせたいと思っていたマイルスにとっては、実に理にかなった発想だった。"







‘On The Corner’ は、その不可解な構成を伴ったアルバムであることに反し、制作の元となっている素材やアイデアなどについては広く流布する希有な一枚でもある。前述したように錚々たる名前が彼の自叙伝を飾り、それでも出来上がった内容に関して誰も批評することができないことに、デイビスはある種の快感と苦痛を伴っていたはずだ。快感とは、批評家を混乱させることであり、苦痛とは、これがどこのマーケットにも届かなかったという無理解である。しかし、シュトゥックハウゼンを単なる戦略的なタームで煙に巻いたものとして見るべきなのか。デイビスはご丁寧にも、まるで ‘On The Corner’ 解読の ‘処方箋’ の如く ‘Gruppen’  ‘Telemusik’ ’Mixtur’ のレコードを繰り返し聴いて ‘On The Corner’ を制作したことを述べているのである。そこにはデイビスの ‘On The Corner’ 創作の前後として、最も近しい関係であったスライ・ストーンの ‘暴動’ から ‘Fresh’ の創作期間が対を成す。頻繁にスライのスタジオに顔を出し、彼の制作過程も目の当たりにした上で、そこに差し出されたシュトゥックハウゼンのレコードを繋げたところに ’On The Corner’ 接近の鍵が隠されている。薬物とスターの軋轢により自我が崩れ始め、延々として制作の進行しないスライを訪ねる1970年の精力的なデイビスと、自動車事故の後遺症から再び薬物に溺れ始め、片や健康を取り戻しつつあるスライのスタジオに度々顔を出す1973年の病み始めたデイビス。この交差する関係性が ‘On The Corner’ に落とす影響は甚大だ。作品というひとつの枠組みの中にあらゆるパースペクティヴを内包するデイビスの音楽の特徴にあって、’On The Corner’ はその枠組み自体をファンクから現代音楽、インドの民俗楽器などがエレクトロニクスを通じてまき散らしたまま、あちこちで放棄されている。むしろ、その散りばめられたピースを積極的に聴き手自身で組み立てることを奨励しているようにさえ聴こえるのだ。1969年の大ヒット 'Stand !' からシングル盤 'Thank You' を経て1971年の '暴動' に至るスライは最も創造的な音作りに勤しんでいた時期であり、自身が興したレーベル 'Stone Flower' はまさに最大の実験場でもあった。ここで無機質にテンポを刻むリズム・ボックスは、スライが失った 'ザ・ファミリー・ストーン' に代わりスライ流 '冷たいファンク' の出発点となり、これは、そのままデイビス自身も1973年の来日公演を機にバンドへ導入、ムトゥーメの担当する新たな打楽器のひとつとなった。そんなファッション含めた 'ロールモデル' としてのスライとデイビスの '邂逅' は、実は最も狂気に満ちた緊張感ある一瞬であったことを目撃したスライの友人はこう述べる。

"スライが怒鳴りながら、寝室から出てきたんだ。「俺のオルガンを今弾いているのはどこのどいつだ?」。部屋に入り、マイルスの姿をみつけた彼は「マイルス、そのケツをどかしやがれ」と言ったんだ。「ここでは、そういう訳のわからないヴゥードゥーみたいなやつを、二度と弾かないでくれ。とっとと帰ってくれ」。マイルスが帰ったあと、俺は言った。「スライ、今のはマイルス・デイビスだぜ」。するとスライは言った。「だからどうしたって言うんだ?俺様のオルガンであんなのを弾くなんて許せねえ」。"





シュトゥックハウゼンを持ち込んだ ‘張本人’ であるポール・バックマスターは、デイビスにとって ‘On The Corner’ のコンセプトを手順よく進めて行く上での ‘設計者’ であり、多くの偶発的な要素を呼び込む ‘触発的存在’ であった。シュトゥックハウゼンのレコードを聴き、いくつかのアイデアの交換を元に設計図をバックマスターが書き上げ、そこから実際の現場で取捨選択していく ‘指揮者’ としてのデイビス。さらに、そのラフなスケッチ的セッションを元にデイビスの指示した ‘完成図’ に従い、テオ・マセロがテープを編集する。これが ‘On The Corner’ 制作プロセスのすべてである。’In A Sirent Way’  ‘Bitches Brew’ のカバーに小さく書かれた ‘マイルス・デイビス監督による音楽’ という ‘注意書き’ は、むしろこの ‘On The Corner’ においてこそ徹底していると言っていいだろう。もちろん、テクスト先行の現代音楽を教条的に受け取り ‘On The Corner’ へ結び付けてしまう愚行を犯す恐れはあるが、しかし、単なる ‘マイルス・デイビス流ファンク’ とするだけでは片手落ちなほど、アイデアの源泉としてのシュトゥックハウゼンの影響は濃いと見るべきだ。ちなみにバックマスターは、レコーディング・セッションのアイデアをデイビスに求められて、デイビス近年の作品に提示されて、またシュトゥックハウゼンの作品にも顕著な不規則テンポ(アウト・オブ・タイムのパッセージ)を活用したらどうなるか見てみたい、と答えている。厳密なシュトゥックハウゼンのテクストに従っていなくとも、混乱するアイデアの状況を前に、デイビスにとってシュトゥックハウゼンの ‘ガイド’ は制作を進めていく上での大きな指針となった。

以下は、バックマスターが詳述する ‘セッション’ の中身。

あらかじめ記譜しておいたのは、ベース・フィギュアとドラムのリズムと、あとはそれに合わせてタブラとコンガと、キーボードのフレーズが1、2個。実際、まるまる一曲譜面にしておいても、いざスタジオに入ってみると、キーボードはそれらのフレーズに一応触れはしても、しまいにはすっかり変えてしまう。最初は大体正確に弾いているんだけれども、そのうちだんだんシュトゥックハウゼン流に変形してしまうんだ。少しずつ元のフレーズがわからなくなって最後にはまったく別のものになっていくわけだ。転調する場所も書いておいたのに、リハーサルしないから、転調もされない。僕は譜面のコピーをとって、ミュージシャン達に配ったし、マイルスがそう言うから、ベースのパートやドラムのパートを彼らに歌って聴かせたり、キーボードのフレーズをチェックしたりしていたんだ。ところが、それもろくろく済まないうちに、マイルスが「オーケー、それで充分だ!」と言って、指を鳴らしてテンポをとり出した。そうして始まって、「オーケー、それまで。聴き返してみよう」とマイルスが言うまで30分も延々と続いたかな。もしも、もっとリズムがはねて欲しい、もしくはだらっとして欲しいと思った時は、肩をすくめるあの独特の仕草で表現するのさ。曲をおしまいに持っていくのもやっぱり動作、手のジェスチャーでね。




ポール・バックマスターがデイビスと知り合い、そこで自らのデモテープを聴かせてお墨付きをもらったのは1969年であった。この年、バックマスターはキーボードのティム・マイクロフトと共にSounds Niceの名義で、いわゆるレコード会社の ‘企画もの’ 的イージー・リスニングなロック・アルバム ‘Love At First Sight’ において早くも野心的な試みを探求する。また、ブライアン・ジョーンズ追悼の意でトリを務めたザ・ローリング・ストーンズや、鮮烈なデビューを果たすキング・クリムゾンらと共に 'チェンバー・ロック' でプログレの新機軸を打ち出したサード・イヤー・バンドの一員として、ハイドパークのフリー・コンサートに出演するバックマスター。これ以後、デイビスの ’In A Silent Way’  ‘Bitches Brew’ の革命的な ‘転向’ はバックマスターの血肉となり、1972年の ‘On The Corner’ に至る長い準備期間となった。1970年に制作され翌年リリースされたアルバム ‘Chitinous’ は、バックマスターが指揮を取り、ブリティッシュ・ジャズ・ロックの錚々たるメンツを集めた壮大なオーケストラ作品である。弦楽とジャズ・ロックのエレクトリックな響き、インドのタブラなどが融合し、そこかしこに当時のデイビスからの影響がある。そして1972年の5月にニュー・ヨークの自宅に呼ばれ、その後一ヶ月近くをデイビスと共同生活を送るバックマスターは、毎朝、チェロを取り出してバッハの無伴奏チェロ組曲第一番のプレリュードを弾いていたという。そして、バックマスターが旅行鞄の中に割れないようにして持ってきたシュトゥックハウゼンのレコードは、すぐさまデイビス邸のBGMとなり、それを貪るように聴き続ける中から ‘継続的プロセスとして音楽を捉えるという考え方’ のテーゼを獲得する。デイビスが ‘Chitinous’ を耳にしていたかどうか定かではないが、本アルバムがまるで ‘On The Corner’ への長いイントロダクションとして響くのは偶然であろうか。デイビス邸では、デイビスがピアノ、バックマスターはチェロで応答しながら ’On The Corner’ のスケッチとなるべき最初のアイデアを交換していく。

僕が、マイルスが使ったコードやらスケールやらを基にフレーズを弾くと、マイルスはよく「待った!それだ!それ書いといてくれ!」と言った。僕は急いで書き留めた。

実際のセッションでは、バックマスター自らもチェロにBarcus-berryピックアップを取り付けてワウペダルを踏むかたちの ‘アンプリファイド・チェロ’ で、積極的に ‘On The Corner’ における打楽器の一部として溶け込んでいる。バックマスターが用意していったスケッチの大半は、現場でほとんど変形させられ跡形も無くなってしまったというが、’Chitinous’ はそんな ‘On The Corner’ のスケッチの ‘青写真’ として重要な考察を与えてくれる。







また、このような傾向からデイビスがプレリュード(Prelude)に関心を示していたことは明らかで、基本的にリズムとテクスチャー、色彩、そしてストラクチャーから成り立ち、メロディのない音楽に惹かれていたこと。そしてデイビス自身がバッハを通じて、オーネット・コールマンの言う 'ハーモロディクス' の根幹である "グループ内の全楽器は同時にソロを取る自由がある" という趣旨の理解へと至ったことを認めている。コールマン本人はその自らの '内なるルール' について抽象的にこう述べている。

"ハーモロディック理論では、結局、どの音も主音のように聴こえるという境地に達する。(中略)技術面で言えば、即興で演奏しながら、常に(音の高さや音程を)変えていく。譜面や、ミュージシャンの内面から湧き上がってくるものに従い、お互いの音を聴き合っていく・・。(中略)調和した2つ以上の音の結合、または組み合わせ。一致した同じ内容を唱和すること。・・同時に、または一緒に聞こえ・・多くの人間が揃って音を発すること。完全に調和すること。一致した、調和した、協和した、ハーモニーのバランスが取れた" などなど・・。"

コールマン本人は "秘伝でもなんでもなく、誰にでもできるはず" としながら、'ユニゾン' という言葉を西洋の器楽表現の枠からかなり拡大解釈して使っていることに留意したい。'不協和'  であることがそのまま個々の '内なるピッチ' を要請し、ハーモロディック流のトーナリティを構成する実に奇妙なファンク。
そのコールマンも当時のマイルス・デイビスが展開したリズムへのアプローチに関心を示していたようで、デイビスが音楽活動を一時停止した1975年には同バンドにいたピート・コージーとレジー・ルーカスの二人に接触。結局はチャールズ・エラービーとバーン・ニックスの '2ギター' として残念ながら 'Prime Time' への参加は叶わなかったものの、ルーカスから紹介されたのが同郷のベーシスト、ルディ・マクダニエルこと 'ジャマラディーン・タクーマ' であることは有名なエピソードでもある。そして 'ハーモロディクスの高弟' ことジェイムズ "ブラッド"ウルマーが自主制作レーベル、アーティスツ・ハウスから1978年にリリースしたデビュー作 'Tales of Captain Black' は、ウルマー、タクーマ、オーネットの息子デナード、オーネット本人を加えてのソリッドに伸び縮みするような 'ハーモロディック・ファンク' 最良のスタイルを聴かせてくれる傑作。そのウルマーはコールマンから直々に 'ハーモロディクス' を体得したことで、改めてギターとオーケストレーションについての考えを '刷新' 出来たと語っている。

"ギターは広い範囲のオーバートーン(倍音)を出せることに気づいた。音の強さの範囲に関して言えば、1本のギターがヴァイオリン10丁に相当するのではないだろうか。例えば交響楽団の場合、トランペット2本がヴァイオリン24丁に匹敵する。この点に気づいてから、私はその時やっている音楽をオーケストレーションできるかどうか、もっと大きな音を出せるかどうか、試してみることにした。やってみると、果たしてその通りにできた。1975年頃から、そのころ演奏していた曲や書き溜めていた曲を私が使っている楽器の編成でアレンジし始めた。(中略)この理論は、わたしの音楽の方向を完全に変えたというより、わたしの中に潜んでいるものを引き出してくれた。(中略)オーネットが音楽を通してわたしに示したのは、ある特殊な自由だった。つまり、経験したことや自分が感じたことをはっきりと伝える自由で・・その為にわたしは、即座に転調やオーケストレーションのアレンジをすることを習わなければならなかったが、これらは今や、わたしの音楽概念の中で重要な要素となっている。(中略)彼はわたしが加わる以前には、バンドにギターを使ったことは一度もなかった。オーネットがアドリブを吹き、わたしがオーケストレーションしていく。わたしの方から彼の為に音を出すのではなく、彼の目指すところへわたしがついて行く。コード変化のパターンに従うのではない。オーネットの場合、フレイズを出した後でコードが変わる。だからソリストが、自分が本当にやりたいフレイズを出していける。(中略)わたしにもソロのチャンスがあった。オーネットと一緒に演奏すると他の誰とやるよりもギターがよく合う。"



ファンクと現代音楽を、まるで秤にかけたかのようなバランスで釣り合いを取っている ‘On The Corner’ の隙間を埋めるように作用しているのが、インドの民俗楽器であるシタールとタブラの響きである。インドの ‘民俗音楽’ ではなく ‘民俗楽器、つまり、ジャズにおいてインドの古典音楽が持つ即興演奏の ‘構造’ にアプローチしたジョー・ハリオットやドン・エリスとは違い、あくまでエスニックなカラーとしての ‘インド’ という点では、1960年代後半のザ・ビートルズを始めとしたサイケデリック・ロックに追従している。実際、デイビスが196911月から19702月まで断続的に行ったセッションは、まさにデイビス流のサイケデリックなドローンの実験に費やされた最初の試みである。ビハリ・シャルマ、カリル・バラクリシュナらが奏でるシタール、タンプーラ、タブラを、デイビスなりの遅れてきた ‘サージェント・ペパーズの衝撃’ と捉えてもそう不思議ではない。'On The Corner' に参加するコリン・ウォルコットもその駆け出しの時期にアラン・ローバーのオーケストラで 'The Lotus Palace' を吹き込んでいた。ある意味では ‘時代のサウンド’ だったわけだが、1972年の ‘On The Corner’ ではそれらとまったく別のアプローチで、積極的にリズムのパーツとして ‘分解’ したように作用している。ウォルコットのシタールはほとんどスパイス程度の役割に後退しているのに対し、高音のタブラと低音のバーヤの2つのハンド・ドラムからなるタブラは錯綜するポリリズムの ‘基礎ビート’ として、この見失いそうなリズムの頭を示すメトロノームの役割を果たす。ムトゥーメのコンガやスリット・ドラムス、ドン・アライアスの雑多なパーカッションもミックスのバランス上、タブラより ‘低い位置’ に抑えられているだけに、タブラのよく通る乾いた直線的ラインが耳を捉える。実際、デイビスのセッション開始のキューは常にタブラから始められ、そこにひとつずつ楽器が折り重なっていくものであった。





インドとデイビスを繋ぐ興味深いもののひとつとして、19702月にリリースされた一枚の7インチ・シングルがある。それはちょうど ‘In A Silent Way’  ‘Bitches Brew’ の間隙をすり抜けながら、ほんの少しだけ、デイビス言うところの ‘半歩先を行った’ 姿をみせる短い ‘断片’ を披露した。’Bitches Brew’ のレコーディング後、再開されたセッションにやってきたのはインドやブラジルの民俗楽器を持って現れた怪しい風体の姿。スタジオ内にカーペットを敷き、まるで露天商の如く楽器を並べて座っている姿を見て、デイビスいわくリビング・ルームのようだと言わしめたが、1969年の11月に始まったこのレコーディングは、断続的に翌年2月まで行われ、その中の一部を編集したものが上述のシングル盤 ‘The Little Blue Frog c/w Great Expectations’ となった。すでに ‘In A Silent Way’ の衝撃が落ち着き、早くも二枚組の大作である ‘Bitches Brew’ のアナウンスが行われようか、という時期に、これら二作品よりも後にレコーディングされたものが ‘ひっそりと’ ディスコグラフィーを飾ったのだから、それまでのデイビスにとっては前例がないことである。当時、このシングル盤がどれほど評判となり、またヒットチャートを賑わせたのかは分からない。そもそもシングル盤とは、ラジオ局やバーのジュークボックスなどで ‘宣伝’ するための商品であり、いわゆる ‘売れ線’ としてタイアップを呼び込むものでもある。ところがこのシングル盤、むしろ、当時のデイビスが展開していたエレクトリック・サウンドをさらに抽象化したような混沌に満ち溢れているのだ。この二曲は、’Great Expectations’ 1974年のアンソロジー的作品 ‘Big Fun’ で、’The Little Blue Frog’ 1998年の ‘The Complete Bitches Brew Sessions’ というボックスセットで、それぞれ ‘完全版’ の姿を公開している。しかし、ここでその演奏を検証することは無意味だろう。むしろ強調したいのは、その無駄に長い演奏からテオ・マセロが2分弱の編集をして ’断片 とする混沌の姿と、’On The Corner’  ‘プリ・プロダクション’ で描かれる ‘青写真’ を結び付けることにある。実際、この二曲の ’完全版’ でみせる姿のほとんどが明確な着地点もなく、ひたすら繰り返すことの冗長に終始しているのは一聴して明らかだ。以下は、そのときのレコーディングに参加したハービー・ハンコックの証言である。

確か僕達は、あれはいったい何だったんだと、頭をかきかきスタジオから出て来たんだったよ。おもしろかったことはおもしろかった。しかし、僕達にも良いのか悪いのか、さっぱり見当がつかないんだ。とにかく変わってた。

実際、この奇妙なレコーディング・セッションの様子はそのまま19726月の ‘On The Corner’ 制作においても発揮されている。スコアを持って現れたバックマスターはもちろん、明確な全体図も示されず急遽参加したデイヴ・リーブマン、バダル・ロイらの ‘困惑ぶり’ は、デイビスが本作品で求めていた ‘プロセス’ の重要な要素となる。しかし、その不明瞭な地図が指し示している ‘行き先’ はテオ・マセロによる二重の ‘隠蔽工作’ により、さらに意味不明な ‘断片’ の完成図として受け取ることの困惑へと変わる。それは、このバダル・ロイとデイヴ・リーブマン、マイケル・ヘンダーソンらの発言に集約されるだろう。

バダル・ロイ
正直にいえば、わたしはレコードができたときに一回聴いただけだった。そしてレコードが終わった瞬間、忘れることにした。どうしても好きになれなかったんだ。CDの時代になって、ある日、息子が学校から帰ってくるなり、興奮して叫んだ。「父さん、すごいじゃないか!『オン・ザ・コーナー』で演奏しているじゃないか!」。息子は『オン・ザ・コーナー』を再発見したんだ。それがきっかけになって、わたしは『オン・ザ・コーナー』を何度か聴いてみた。そしてわたしも好きになった。

デイヴ・リーブマン
当時、わたしはこの作品をまったく理解できなかったし、ただ  であるとしか思えなかったよ。コンセプトや音楽的な方向性がわからなくて、しかも彼のバンドに入って最初の6ヶ月くらいは、雑然としてたんだけど、徐々に彼がやろうとしていることを理解し始めたんだよ。でもはっきり言うと、20年、30年経って、やっと当時のマイルスのコンセプトがわかった気がするんだ。きっちりとまとまっていなかったことが逆に魅力的で、当時としては、とても斬新な音楽スタイルだったと思う。そして ‘On The Corner’ の影響で、1970年代以降のジャズは、様々なジャンルの音楽が最も融合した時代となったのさ。そして、それはマイルスが成し遂げた音楽への大きな貢献の一つだったんだよ。

マイケル・ヘンダーソン
"私たちは、マイルスが「ストップ」のサインを出すまで、ひたすらグルーヴしつづけた。テープはずっと回っていた。一発勝負だった。オーバーダビングはほとんどなかった。いくつかベル(パーカッション)と手拍子をあとで加えた程度だった。セッションが終わったとき、マイルスはまるで子供のように喜び、満足していた。私も偉大な音楽だと思った。「オン・ザ・コーナー」のレコードを初めて聴いたのは、マイルスの家にいるときだった。古い大きなスピーカーから音楽が流れてきた瞬間、ぶっ飛んだ。まるで世界中の料理をひとつの大皿に持ったような音楽だった。「オン・ザ・コーナー」が退屈だって?そう思っているなら、もっと注意深く聴けばいい。私たちが同じことを繰り返しているわけではないことが理解できるだろう。たとえば私は、同じ音を出しつづけてはいない。確かに私が弾いているのは「たった3つの音」かもしれない。しかし、その3つの音には何百、何千ものヴァリエーションがある。私たちが演奏していたのは、そういう次元の音楽だったんだ。"

話を戻せば、このシングル盤では当然 完全版’ とはミックスのバランスが変わり、ドラムスよりもベース・ラインがビートの中心に据えられている。各楽器の錯綜する細かなパーカッシヴ的アプローチは、早くも ‘On The Corner’ の予兆を感じさせるが、むしろ、長いジャムセッションの一部を切り出した ‘断片’ の唐突さに、演奏の中心点をずらしながら、聴き手に積極的なチューニングを求めてくる ‘On The Corner’ のコンセプトの萌芽をみる。ちなみに197211月リリースの ’On The Corner’ からは、アルバム一曲目のメドレーから ‘Vote for Miles’ と ’Black Satin’ をタイトル変更した ‘Molester’ の二曲がシングルカットされている。







このようなテオ・マセロの編集におけるテクノロジーの積極的な活用は、他のプリ・プロダクションにおけるエレクトロニクスの 'ギミック' でも存分に発揮されている。CBSの技術部門が製作したElectric SwitcherInstant Playbackと呼ばれる機器は、アルバム全体を左右に激しく ‘錯綜’ するパンニングの定位として、この ‘On The Corner’ の不条理な世界を強調する。すでにCBSの技術部門は、’Bitches Brew’ における印象的なエコーを放つトランペットの響きを生み出すため ‘Teo 1’ と呼ばれる機器を製作している。1998年、CBSが大々的にマイルス・デイビスのカタログを手直した際にデジタル・リマスタリングとリミックスを担当したマーク・ワイルダーの言によればそれは、テープ・ループ1本に録音ヘッド1つと再生ヘッドが最低4つは備えられたテープ・エコーであるという。この後、196911月の ‘Great Expectations’ ではさらにトランペットへの加工は大胆となり、翌年3月にレコーディングされ、1974年の ‘Big Fun’ で公開された ‘Go Ahead John’ に至って、そのまま ’On The Corner’ に先駆けたようなテクノロジーとミックスの最初の成果を発揮する。それは ’Jack Johnson’ 譲りのロック・ビートをバックに、いわゆるパンニングというよりかはスイッチャーを交互に切り替えながらデイビスの持つ ‘二面性’ のイメージを強調した。このような 'ギミック' はさらに錯綜する ’On The Corner’ において、ステレオを最大限に活かしたアルバム全体に横溢するデイビスの分裂したイメージへと拡大する。また、あまりにも不条理で雑然としたミックスと捉えられがちな 'On The Corner' ではあるが、ほとんどデイビスのトランペットが聴こえないことに抗議したリスナーに対し、マセロは 'Bitches Brew' が24分43秒、'Live-Evil' が26分40秒、'Black Beauty' が33分39秒、そして 'On The Corner' が26分38秒ものソロを取っていると具体的に割り出して反論しており、これだけでもいかにテープを周到かつ緻密に編集していたかが伺える。そんなテオ・マセロの編集の妙技を味わう上で、'Isle of Wight' のライヴ音源をエディットしたり同時期の45回転シングル盤を集めてFrance CBSが1987年にコンパイルしたものを聴くと興味深い。ちなみに上の画像は、現在 'Miles Beyond' というサイトで公開されている 'On The Corner' レコーディング時の1972年6月1日と7月7日のオーバーダビング時のトラックシート。そして、このマセロのユニークな 'ポスト・プロダクション' とレコーディングの効果的なギミックについて、後に 'アンビエント' の作曲家、プロデューサーとして大きな影響力を振るうブライアン・イーノは 'Bitches Brew' での聴取体験を元にこう示唆している。

"彼のやったことが極めて新しい、レコードでしかできないことだった、という点だ。すなわち、パフォーマンスを空間的に分解したんだ。レコーディングの段階では、ミュージシャン達はひとつの部屋の中、お互いが近い距離に座っていた・・でもオンマイクだったこともあり、各自の音はそれぞれに独立して録音されていた。それをテオ・マセロがミックスの段階で、何マイルも引き離して見せた。だから音楽を聴いているとすごく楽しいんだ。コンガ奏者は道をまっすぐ行った先あたりで叩いているし、トランペット奏者はかなたの山のてっぺんで吹いているし、ギタリストの姿は・・双眼鏡でのぞきこまなきゃ見えないんだからね!そんな風に皆の音が遠くに置かれているので、小さな部屋で大勢の人間が演奏しているという印象はまるでなくて、まるで広大な高原かどこか、地平線の彼方で演奏しているかのようなんだ。テオ・マセロはそれぞれの音をあえて結びつけようとはしていない。むしろ、意図的に引き離しているかのようだよ。"
 

ちなみに、テオ・マセロのプロデューサーとしての資質の根底にはモダン・ジャズと並び現代音楽への素養があり、1967年にはチャールズ・アイヴズら複数の作曲家と無調、微分音をテーマとした作品 'New Music in Quarter-Tones'  'One-Three Quarters' 自ら作曲、指揮している。


そして、シュトゥックハウゼンの影響から出発してラ・モンテ・ヤングと '邂逅' した後、インドの古典音楽の構造からいわゆる 'ミニマル・ミュージック' の開祖となったテリー・ライリー。まるで 'エッシャーのだまし絵' の如く1968年にフィラデルフィアのディスコから依頼を受けて制作したライヴ・エレクトロニクスによるこの作品は、元のThe Harvey Averne Dozenというラテン・ソウルの音源を軸にして、ダブ、ヒップ・ホップのブレイクビーツを先取りしたような 'テープ・コラージュ' の手法で '変調' していくもの。いわゆる 'アフロポリ' が身体の土着的感覚から繰り返されていくのに対し、こちらは緻密に 'ヘッド' へ訴えかけていくことを奇しくもテオ・マセロは 'On The Corner' で証明する。この分析において卓越した見解を述べているのがジャズサックス奏者にして評論も手がける菊地成孔と大谷能生の共著 'M/D - マイルス・デューイ・デイヴィス三世研究' であり、ここでは 'On The Corner' 一曲目の冒頭から数秒カットしたことで生じる唐突なグルーヴの謎とその '違和感' についてDJ用CDプレイヤーの 'Loop機能' を用いて迫っている。ちなみにボックスセット 'The Complete On The Corner Sessions' で 'Unedited Master' と題されて公開された本曲では、きちんとベースのカウントを合図に始まっていることが明かされている。

"('Loop機能' 状態で)はい。ここでループの頭が明確になります。具体的に言うならば、突如現れるタブラのフィルインによって「本来の拍の頭」が明確に示され、それ以降の「拍の頭」が全リスナーに共有されるようになる。そして、この曲は、この部分にくるまでは「本来の頭」だと錯覚させる仕掛けが施されているのです。まさに魔術師の指先ひとつで、酩酊から覚醒、そして現実回帰という「ファンク感覚」の両端を一瞬にして一巡する瞬間と言えるでしょう。(中略)「本来の拍の頭」を1として逆算してゆくと、レコードに針を落とした瞬間に鳴りはじめる「レコードの始まり/演奏の頭」が、実は2.5拍分カットされている、ということがおわかりになるでしょうか?。(中略)このレコードは、「後からやってくる」定常状態、録音時の正規の冒頭から、そのフレーズをちょうど2.5拍カットした場所からスタートしている。これは我々(著者)の編集ではなく、レコードをプレイした瞬間にそうなるように編集されているわけです。"



そんなテオ・マセロの偏執的な 'ポスト・プロダクション' は、そのまま’On The Corner’ の奇形的 ‘変奏’ と捉えられる一曲 ‘Rated X’ に到達する。’On The Corner’ 以降における編集作業を施したものとしては最もプログレッシヴで、また、デイビスがシュトゥックハウゼンの影響下において完成させた極北といえる。そもそもは1972年の9月にレコーディングされたベーシックトラックを元にエンジニアとしてのマセロが、その他のレコーディング・セッションから取られたデイビスの弾くオルガンをオーヴァーダブして、完全にスタジオの編集室の中でテープを切り貼りし、ミキシングコンソールによる音響的操作によって完成させたミュージック・コンクレートとなっている。以下、マセロによる制作の ‘レシピ’ を開いてみよう。

マイルスのオルガントラックは、実は別の曲のものだった。もともと “レイテッドX” とはまったく無関係だったんだ。バンドの音が一斉になくなる箇所があるよね?それでもオルガンは鳴り続ける。あれはループだ。その12小節後、再びバンドが戻ってくる。あのトラックは編集室で作ったものだったのさ。

‘Rated X’ は、1972年のコンサートバンドにおけるオープニングのレパートリーとして用意された曲であり、これは19728月にスタジオでリハーサルしたものが ’Chieftain’ と誤記されて ‘The Complete On The Corner Sessions’ に収録されている。一方、徹底的に編集の施されたこちらの ‘Rated X’ は、そもそものベーシックトラック含めどのような意図によるセッションだったのか、未だ明かされていないものへの興味は尽きない。また、この二曲ともに変則的なクロスリズムを持つバックビートは、1990年代に現れたUKのダンス・ミュージック、ドラムンベースを先取りしたものとして捉えられてもいる。ほとんどテープ編集とミキングコンソールによる音響的操作の ‘ダブ的’ 手法及び、ブレイクビーツの先駆的な 'ループ' を軸に制作された ‘Rated X’ のラディカルさは、'On The Corner' においてリズムの断片にまで解体されたデイビスのトランペットは完全に消え去っている。それはクラスター的オルガンの響きがミュートスイッチによる ‘On / Off’ として、ダイナミズムとグルーヴの波が遠心的な距離で拮抗する緊張感の持続においてのみ、ひたすら不穏な状態から逃れることを拒否しているようでもある。端的にこの徹底した編集作業の産物は、そのまま山のように積み上げられる ‘アウトテイク’ のオープンリールこそ、ほんの瞬間を捉えることを前提とした ‘アーカイブス’ の構築物であることを示す。つまり、創造の過程は客観的な聴取の作業を要請するための ‘宝の山’ に挑むことであり、それは、徹底した編集主義を貫く当時のデイビスの意図を強調するマセロの以下の発言からも読み取れるだろう。

録音の機械というのは、セッションの最中止まることはない。止まるのは、録音したプレイバックを聴き返す時だけだ。彼がスタジオに入った瞬間、機械を回し始める。スタジオの中で起こることはすべて録音され、残されるのはスタジオ内のすべての音を閉じこめた素晴らしい音のコレクションだ。一音足りとも失われていない。私が彼を手がけるようになって、彼はおそらく世界でただひとり、すべて(の音)がそっくりそのまま損なわれていないアーティストだろう。普通はマスターリールを作るものだが、それは3トラック、4トラックの開発とともにやめた。もうそういうやり方ではなく、自分が欲しいものだけを取り出し、コピーする。そのあとオリジナルは手つかずのまま、保管室に戻されるんだ。






そして 私のやったことが気に入らない者は、20年後、やり直せばいい” とテオ・マセロは言葉を結んでいるが、それは、この時代のデイビスの創造性において最もラディカルな試みであった ’On The Corner’ の核心を突くものでもある。ちなみにこのような '変奏' ともいうべきリミックスの先駆としては、すでにカリブ海の孤島ジャマイカはキングストンのダンスホール文化においてキング・タビーやリー・ペリーによるダブの 'ヴァージョン' が探求されていた。週末に大量のマスターテープと共に彼らのスタジオTubby's Hometown Hi-FiやBlack Arkにやってくるプロデューサーのオーダーに従い、4トラック程度のリミックスとして過剰なエコーやスプリング・リヴァーブ、フィルターなどで '換骨奪胎' されたものをリアルタイムにダブプレートと呼ばれる鉄板をアセテートで包んだ盤面に刻む。ダブはカットアップほど緻密な作業を要するものではなかったが、奇しくもテオ・マセロは 'On The Corner' で同じことをやったのだ。











一方で ‘ブラック’ の視点からみると、R&Bとシタールは特別不思議な関係というわけではなかった。大ヒットしたザ・デルフォニクスの ‘Didn't I (Blow Your Mind This Time)’ やザ・スタイリスティクスの'Your Are Everything' を始め、すでにMFSBによるフィラデルフィア・ソウルのプロダクションにおいて、シタールを隠し味的に用いるのは当然となっており、また、デイビスも ‘On The Corner’ のアイデアをムゥトーメに話した際、MFSBの中心人物トム・ベルのアイデアをヒントにして練っていると話しながら、19701月にレコーディングした ‘Guinnevia’ のテープを参考として寄越したという。もちろん、ここには ‘On The Corner’ 制作の直前まで進行していたシングル ‘Red China Blues’ セッションの仕事が絡んでくる。当時、アイザック・ヘイズの ‘Shaft’ やカーティス・メイフィールドの ‘Superfly’ のヒットをきっかけに、いわゆる ‘ブラックスプロイテーション’ 映画の興隆があった。黒人を主人公にしたアクション映画は、それまでの黒人たちが置かれていた状況を一変させ、以後、雨後の筍のように同様の映画が乱発された。デイビスも、そういった作品を得意とするウェイド・マーカスをアレンジャーに呼び ’Red China Blues’ というシングル盤を制作したが、結局リリースされたのは1974年である。’On The Corner’ の結果を鑑みたとき、この曲 ‘Red China Blues’ はストレートに同胞たちに受ける要素を持っていた。むしろ、それはデイビスらしくないとさえいえる ‘仕事ぶり’ なのだが、ここから ‘On The Corner’ への ‘転回’ について考察してみる価値はあるだろう。同時期、デイビス同様にファンクへと接近し、スカイハイ・プロダクションを迎え制作された '真っ黒い' ドナルド・バードの ‘Blackbyrd’ やハービー・ハンコックによる ‘Headhunters’ が、従来のジャズの枠を超えてR&Bの層に受け入れられていたことと ’On The Corner’ への ‘転回 から ‘惨敗’ の流れは、そのままジャズの制作システムと聴衆が大きく変化したことを如実に物語っている。







「マイルス・デイビスと共にストリートを歩き、舗道の人たちの言葉に耳を傾けよう、それは ‘その地区’ に暮らす人たちの喜び、苦しみ、美しさが凝縮された音楽。耳を澄ましてみよう、世界で最も美しい場所のひとつに」

これはCBS制作の ‘On The Corner’ PR用広告に添えられていたキャッチコピーだが、俗に '黒いディラン' と呼ばれたストリートの詩人にしてポエトリーディング、ヒップ・ホップのルーツ的存在でもあるギル・スコット・ヘロンなどにも象徴的なイメージであった。しかし、
このようなメッセージとは裏腹に1970年代以降の同胞が求める ‘連帯感’ は、混沌とした制作のプロセスをパッケジする ‘On The Corner’ よりフォミュラ化する音の持つパッケジの洗練さであった。そこには、一枚岩のように誇っていた ‘ブラック’ による共同体への希求は過去のものとされ、あらゆる '階層' へと振り分け、直されていく ‘フュジョン’ に象された人たちの容としてむことができるだろう。すでにストリトから遠く離れた ‘スタ’ としてのデイビスが創造する ‘混沌’ の世界は、コー・マッコイが描くグラフィティトの ‘でもって近づこうとすればするほど、巨大なアフロヘアと共に洗練された身のこなしで、白人に兼ねなく街を闊することを求める ‘ブラック’ とは相容れなかったのである。それは、すでに人が米国社にとって理解され難い ‘ノイズ の存在ではなくなったことの証明でもあった。もちろん、このような 'ブラック' の洗練さに対するアンチテーゼとしては同時期、ファンク全盛期を象徴するジョージ・クリントンを中心とした 'Pファンク' 帝国がゲットーと宇宙を直結するように猛威を奮い、またジャマイカ移民のクール・ハークが二台のターンテーブルとSonyのディスコ・ミキサーMX-12を引っ張り出して、続くスクラッチでパーカッシヴに叩くグランドマスター・フラッシュ、アフリカ・バンバータら新世代によるヒップ・ホップの種がニューヨークのアンダーグラウンドに蒔かれ始めていたことは留意したい。






このような 'ファンク革命' の熱気に火を付けた 'Godfather of Funk' ことジェイムズ・ブラウンの反復するリズムは、その当初からR&Bの伝統と共にロックンロールの衝撃、同時代のラテンやカリブ海の文化が色濃く反映された 'メルティングポット' の申し子でもあった。そのきっかけのひとつである1967年の 'Cold Sweat' からニューオーリンズR&Bのリー・ドーシーのヒット 'Ride Your Pony' へとなだれ込んでいくクライド・スタブルフィールドのグルーヴ、そしてセカンドライン・ファンクの源流に当たるプロフェッサー・ロングヘア1964年の 'Big Chief' のシンコペイトするリズムを聞いて頂きたい。この縦に揺れるマーチング・リズムを叩き出すスモーキー・ジョンソンの '直系' としてザ・ミーターズのジョゼフ 'ジガブー' モデリステがおり、それはまた同時代のラテンで起こったソン・クラーベからブーガルーの8ビートに混ぜ合わせられていく過程と対を成す。また、R&Bでカリブ海からアフリカの血脈を巻き込み '汎アフロ志向' をミクスチャーに目指すマンドリルなどは、当時のステージでデイビスのバンドとよく '対バン' として顔を合わせる間柄でもあった。このシンプルなリフとベースライン、複合的なリズムに魅了され始めていたデイビスは、1969年の 'Bitches Brew' レコーディング中の一曲 'Miles Runs The Voodoo Down' においてレニー・ホワイトにセカンドラインのリズムを叩かせるも挫折、パーカッションとして参加していたドン・アライアスを代役に凌いだことで具体化した。翌年の 'Honky Tonk' では、ビリー・コブハムと初参加のキース・ジャレットを中心に重層的な 'レイヤー' としてファンクの '解体' と '分析' に入るデイビス。この小品が4年後のアンソロジー 'Get Up With It' に紛れ込むようにしてひっそりと佇んでいるのは偲びない。まさにマイルス・デイビス流 'リズムの宝庫' であり、よく聴いて頂ければここでのデイビスのトランペットにはInnovexのCondor RSMによるオクターヴ下が重ねられている。


‘On The Corner’ のレコディングセッションを考える上で、いわゆる ‘マイルスデイビススク’ の有能な卒業生たちやジャズ畑からの加と、まったく偶的に呼ばれて加したミュジシャンたちとの混合した関係がある。その スクル卒業生 であるジョンマクラフリン、ハー・ハンコックとチックコリア、ベニー・モウピン、ジャックディジョネット、そしてジャズ畑の ‘新人’ であるデイヴブマンやカルロスネット、ロニー・リストンスミス、アルフォスタ、ビリー・トらに、引きき前年のコンサトバンドからマイケルヘンダソン、ドンアライアス、ムトゥーメが参加して、デイビスの意図するグルーヴを支える役割を果たしている。ここに新たなメンバーである、インドの民俗楽器を操るバダル・ロイ、コリン・ウォルコットと、それまでとは畑違いのジャンルからデイヴィッド・クリーマーやハロルド・ウィリアムズを加えて、さらに、デイビスと共に制作側に立つ人間ながら演奏者としても参加するポール・バックマスター、テオ・マセロらが ’On The Corner’ のクレジットを飾っている。その他、ハロルド・ウィリアムズの紹介により、以降のコンサートバンドから加入するレジー・ルーカスも参加していたのではないか、とも言われているが、残念ながら確認のほどは取れていない。このような事態となったのは、スケジュルの都合がつくメンツを連れてくるようにと ‘口コミ’ り、参加する演奏者が各々連れてきた結果であった。もしくはレコーディング・セッションですべて完成させようとせず、テオ・マセロの緻密な編集作業を念頭に置きデイビス自ら狙っていたものとも考えられる。実際、これらのクレジットはさながら ‘覆面バンド’ の如くアルバムでは伏せられていたのだから。この 'On The Corner' におけるクレジットの '隠蔽' については 'スイングジャーナル' 誌1973年7月号のインタビューでこう答えている。

"レコードをじっくり聴いてもらいたかったからだよ。白人の批評家ときたら、名前を見ただけで、黒人ミュージシャンの悪口を言うからね。彼らには、我々がどう感じているかなんてことは、これっぽっちもわかっちゃいないんだ。そんな連中には、オレのレコードについて何かを書くなんて許せないよ。だから名前を外したんだ。誰がやってるのか分からなければ、何も言えなくなるんじゃないか。コメントなんてしてもらいたくない。"

この中から真っ先にデイビスのお眼鏡に叶ったのが、デイヴ・リーブマンとロニー・リストン・スミスのふたりだ。すでに、アルバム制作後の長期ツアーを見越して自らのコンサートバンドへの参加を打診したというが、スケジュールの都合でリーヴマンは翌年の1月、リストン・スミスは3月にそれぞれ遅い加入を果たすこととなった。そして、ディジョネットに加えて参加したビリー・ハートとアル・フォスターらふたりのドラマーから、フォスターもまたデイビスの熱烈なラヴコールを受けたひとりである。リーヴマン同様、出演するクラブに通い詰めて口説き落とされたのだ。ちなみにフォスターは、3日間に渡って設けられた 'On The Corner' レコーディングのうち、6月12日のセッションでディジョネットに代わって参加し、ビリー・ハートとのツイン・ドラムスで'Ife' と 'Jabali' の二曲を叩いている。では当時のアル・フォスターの証言を聞いてみよう。

"(デイビスに口説き落とされてから)2ヶ月ほどたった6月のある日、マイルスから電話があって「何日の8時にCBSコロンビアのスタジオに来るように」っていうんです。結局、このときのレコーディング('オン・ザ・コーナー' のセッション)が、ボクのマイルスとの最初の仕事になったんだけど、録音に入るまでは、ボクにはどんな音楽をやるのか見当がつかなかったんです。もちろん、マイルスがきいたボクのプレイはジャズでしたから、ジャズをやるんだろう – ぐらいに考えていたんですが、なにしろどんなメンバーとやるのかなんてこともわからなかったんです。そしたら、演奏は、意外にもロック的なものだったんです。もちろん、ロック的っていったって、じっさいはロックじゃないんですよ。なんていうのかあ、ただ「音楽」としかいえないんだけど、つまり、マイルスだけにしかできない音楽なんだな。なにしろ、リズムがファンタスティックなんだ。録音するときにマイルスがボクの耳元でリズムを口笛で簡単に吹くんです。このリズミックなアイデアってのは、いまバンドでやってるのも全部そうだけど、このリズムはマイルスが頭の中で考えだしたものなんです。「オン・ザ・コーナー」の録音があってから、ボクはドラマーのビリー・ハートなんかと一緒に一度、マイルスの家でリハーサルもやったんだけど、マイルスからロックのドラマー、バディ・マイルスをきけっていわれた。それにジャック・ディジョネットもきくようにってね。そのほか、ビリー・コブハム、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのグレッグ・エリコとかいうドラマーもいいからきけっていわれたな。"








しかし、このツインドラムスの編成によるファンクのアプロチは示唆的である。すでにターニング・ポイントとなった ’Bitches Brew’ においてディジョネットとレニー・ホワイトの編成を試みていたが、ここでの編成に大きな影響をえているのは、同時代のジェイムズブラウンのバンドであるザJBズを支えたふたりのドラマ、クライドスタブルフィルドと ’ジャボ’ ことジョンスタクスであろう。つまりディジョネット以降、デイビスにとってファンクをキープするドラマーの選択は重要な問題であった。度々、穴埋め的に参加していたビリー・コブハムはもちろん、1971年のツアーメンバーであった ウンドゥク’ ことレオンチャンクラ、そして従来のジャズ畑からの選考にこだわらず、ジミヘンドリクスのバンドオブジプシズからバディマイルス、ファンカデリックの ‘ティキ’ ことレイモンフルウッドらにもをかけていた。おに入りはスライ&ザファミリー・ストンのグレッグエリコだが、一足早くウェザー・リポトのツアメンバに加入した後であった。またエリコの後釜として、アルバム ‘Fresh’ 加するアンディニュクの叩き出す ‘In Time’ をデイビスが貪るようにいていたことも特筆したい。そして、‘On The Corner’ 直前まで進行していた ’Red China Blues’ セッションに加する ‘プリティ’ ことバディは、まさに ‘ファンクマスタ’ ともいうべきグルヴを叩き出すドラマとして有名であったが、果たしてデイビスはをかけたのであろうか。結局は、ファンクと最も遠いアルフォスタを長きに渡り起用することを考えれば、典型的なパディのいグルヴと、これ以降のコンサトバンドで展開するフォスタ ‘扱い方’ の違いにデイビス流の特異なファンクのアプロチが見えてくる。それは、この ‘On The Corner’ 全体を貫いている ‘分散化’ されたリズムのパーツとして、個々の律動から全体を統合するアンサンブルへと到達するプロセスに関心を示すものとして現われている。ファンク’ もまた、デイビスにとっては目指すべきものではなく ’解体’ されるべきものであった。

ジャズのクリティクが持つマルクス主義的進歩史観は、マイルス・デイビスに大きなモダン・ジャズの椅子を用意してきた。転向’ したとされる ‘In A Silent Way’  ‘Bitches Brew’ のときでさえ、務めてジャズの著述家たちは、彼の行動にモダン・ジャズの明日を占う ‘マイルストーン’ の一投があると納得させてきた。しかし ‘On The Corner’ は、その ‘原理主義’ に対するアンチテーゼとして強烈に響く。批評に必要なパーソネルも編集の痕跡も隠蔽して、ふざけた漫画の ‘黄色いジャケット’ で舌を出してみせる。それは、マイルス・デイビスがどこからやってきて、どこへ向かうのかという ‘進歩史観’ の歩みを止めた瞬間でもある。また、不必要に黒人としての連帯感を求めたアルバムでもない。彼は、同胞の大半がいつも同じレコードを聴いて頭を固定させ、おなじみのものと戯れている姿に失望する。ブルーズ’ にしがみつき、ファンキー’ であることや ‘ブラザー’ であることを ‘演じている’ 黒人たちに向かって、より高度なアートフォームを提示して啓蒙することが自分の役目だとまで述べるのは、急速に変化する時代と格闘しなければならなくなったデイビス自身を象徴している。これは1970年代以降、大手を振って街を歩けるようになった黒人たちと アウトサイダー’ としてのブルーズやR&B、ジャズなどの黒人アートにかかわる根幹的な問題提起として読めるだろう。’On The Corner’ が用意する難解なパズルは、前近代的なエンターテインメントとしてのジャズの終焉と、巨大なロック・ビジネスを通じて ‘ジャンル’ という鋳型に流し込まれる狭間で、改めて自らの ‘居場所’ を確保し、強力な ‘磁場’ のように影響力を放つマイルス・デイビスの姿を提示する。そこには常に ‘’ が孕んでいるのだ。





1973年1月のニューヨークは 'ヴィレッジ・イースト' で前年6月の 'On The Corner' レコーディング以来、初めてデイヴ・リーブマンの参加したライヴ。まだ、タブラのバダル・ロイとエレクトリック・シタールのカリル・バラクリシュナ在籍中の混沌とした時期である。撮影と編集は当時、ニューヨーク在住であったカメラマンの井口鉄平氏。この、個人で回したと思しき安物のビデオカメラの映像に横溢する荒い 'ローファイ' な質感は、そのまま強力なコンプレッションと共に迫る 'On The Corner' を体現しており、それはこの時代を疾走したマイルス・デイビスの放つ '匂い' となった。さて、
最後に上でも少し触れたが、スイングジャーナル’ 19737月号のインタビューで、デイビスが ‘On The Corner’ のセールス惨敗を見越したと思しきコメントがあるので抜粋したい。このインタビューは同年6月の来日公演を前に、51日のサンタモニカはシビック・オーディトリアムの楽屋で行ったインタビュー。バンドはインドの楽器群含め総勢10名に膨らんでいたターニング・ポイントの時期である。ちなみにデイビス自身は‘On The Corner’ への困惑を理解できなかったようで、ある晩、ありきたりなジャズ・ロック・グループのライヴを聴きながら、なぜ、大衆はこんなクソみたいなバンドを好きなのにオレの音楽が分からないんだ?と悪態を付きながら独り言の如く、たぶん、オレの音楽が一度にたくさんの方角から出てくるからなんだろうな、と '自己分析' している。また、デイビス自身が行ってきた '変貌' に対してその時代ごとの変化、特に自動車の衝突音などが、昔は金属の鋭い響きだったものが今はプラスティックの鈍い響きへと変わったことなど、常に鋭敏な感覚で嗅ぎ取っていることにも留意したい。 

-       さっきあなたは、聴衆のことを気にしないといったが、それでは、あなたは音楽を何のために演奏しているのか。聴衆のことをどう思っているのか。

聴衆について、オレがいつも考えているのは、人々をより高い水準に導きたいということだ。彼らは、いつも同じレコードを聴いて頭を固定させてしまう。しかし、いまは1973年なんだ。テレビでやっている音楽だって、60年代から少しも進歩していない。彼らを導かないといけないと思う。

そして、この先トランペットで何かやれそうな可能性はあるのか、という質問を受けてデイビスは・・こう答えている。

いつも自分のやっていることが、いま世界で起こっていることに遅れているかピッタリしているかどうかという風に考えるんだ。自動車の衝突音、街の音、それに合わせたりぶつけたり、ただ同じことの繰り返しは出来ないな。だいたい、洪水みたいに出てくるレコードを聴いたって、どのレコードもリズムは皆同じじゃないか。皆メロディばかりに気を取られていて、リズムはさっぱりダメなんだ。我々はメロディのためのリズム(Rhythms for Melody)を演奏しているんだ。

参考文献
完本 マイルス・デイビス自叙伝
マイルス・デイビス / クインシー・トゥループ著 中山康樹訳 (JICC出版局)
マイルス・デイビス物語
イアン・カー著 小山さち子訳 (スイングジャーナル社)
●So What - マイルス・デイビスの生涯
ジョン・スウェッド著 丸山京子訳 (シンコーミュージック・エンタテイメント)
●マイルス・デイヴィス・リーダー - ダウンビート誌に残された全記録
フランク・アルカイヤー編 上西園誠訳 (シンコーミュージック・エンタテイメント)
●スイングジャーナル1973年7月号 (スイングジャーナル社)
●スイングジャーナル1973年8月号 (スイングジャーナル社)
●音の始原を求めて - 塩谷宏の仕事 - ライナーノーツ: 佐藤茂 (元NHKチーフ・エンジニア)
●SAX & BRASS magazine 2013年秋号 Vol.28 (リットーミュージック) 
●オーネット・コールマン - ジャズを変えた男
ジョン・リトワイラー著 仙名 紀訳 (ファラオ企画)
●M/D - マイルス・デューイ・デイヴィス三世研究
菊地成孔、大谷能生共著 (エスクァイア・マガジン・ジャパン)
●エレクトリック・マイルス 1972 - 1975 〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相
中山康樹著 (ワニブックス【PLUS】新書)