2016年9月5日月曜日

補論: 消尽するもの

1972年の ‘On The Corner’ は、デイビスがアルバムというフォーマットにおいて試みた編集作業を軸とする最後のものである。以降、1975年の活動停止に至るまで一枚のアルバムとして完成させることを目論んだものはなく、1974年の ‘Big Fun’ 1975年の来日記念盤ともいうべき ‘Get Up With It’ は、なかなかスタジオで集中的に制作を開始しないデイビスにCBSが業を煮やし、過去に制作した未発表のテープや、その当時にリハーサルのかたちでレコーディングしていたものをコンパイルしたアンソロジー的作品集である。もちろん、デイビス自身アルバムの構想が無かったわけではなく、1973年の7月と9月にレコーディングされた素材を元に下準備は行っていた。



今度のカリプソが新しい方向を決定づけるだろう。アルバム一枚で一曲となる。

この1974年のダウンビート誌によるインタビューの発言は、実際、9月にレコーディングされたものを片面30分強の編集を施した ‘Calypso Frelimo’ として ’Get Up With It’ に収録される。また、7月にレコーディングされたものは7インチ・シングルとしてA/B面の2分弱に編集し、7311月に ‘Big Fun / Holly-wuud’ としてリリースされた。 結局、デイビスが精力的に完成させたものはこれだけであり、後は、イレギュラー的にデューク・エリントンに捧ぐというトリビュート的意味合いを持たせた ‘He Loved Him Madly’ を制作したほかはひとつもなかった。その背景にはデイビス自身の健康面の悪化による集中力の低下と、1972年から出発したコンサートバンドをライヴという現場で鍛え上げるという方向へシフトしたからだと思われる。実際、1973年の7月と9月にレコーディングされたものはほぼライヴ用のリハーサル・テイクに等しく、アルバム制作を念頭に置いた ‘On The Corner’ のような特異性はみられない。‘Get Up With It’ には ’Maiysha’ ‘Mtume’ といった、1975年のコンサートバンドで展開するレパートリーも含まれているが、この点でも従来の編集主義からライヴバンドとしてのダイナミズムをそのまま聴いてもらいたい、というデイビスの意図を強く感じる。ただし ‘Maiysha’ に至っては、それまでのリズム主導型なリフをモチーフにした展開から、よりメロディアスな方向へシフトしようとするデイビスの新たな予兆を感じさせる。これを、デイビス言うところのインスタント・コンポジションによるオリジナルなスタイルの確立とみるか、1975年の活動停止に至る音楽表現の限界と捉えるかは意見の分かれるところだろう。

ちなみにこの時期、イレギュラー的に記録され、デイビス活動停止期間中の1977年に日本でのみリリースされた作品 'Dark Magus' がある。クラシックの殿堂フィルハーモニー・ホールという不釣り合いな場所で奏でられる病的なまでのこの '音響' は、ある意味、デイビス言うところの 'インスタント・コンポジション' の極北とビ・バップ伝統のソリストを吟味する場への転換、そしてテオ・マセロの '再構築' により表出される過剰な暴力の発露となった。グループ脱退直前のデイヴ・リーブマンとコルトレーン・スクールのひとり、エイゾー・ローレンス、若干18歳の若きフレンチ・ブラジリアン、ドミニク・ガモーのヘンドリクス・マナーなギターがピート・コージー、レジー・ルーカスらとぶつかり合って '公開オーディション' と化すそれは、マセロの混沌としたミックス、編集操作によりその不条理な空間を増幅させる。ここ近年、長らくお蔵とされてきたデイビスの編集されたライヴ音源 'Miles Davis At Fillmore' や 'Live-Evel' がそれぞれ無編集版のボックスセットとして公開されているが、この 'Dark Magus' だけは、誰もがその全貌を知りたいと思いながら開けてはいけない 'パンドラの箱' のような気持ちでいるのではないだろうか。

さて、この ‘Get Up With It’ にはもうひとつ、’On The Corner’ の奇形的変奏と捉えられる一曲 ‘Rated X’ がある。’On The Corner’ 以降における編集作業を施したものとしては最もプログレッシヴで、また、デイビスがシュトゥックハウゼンの影響下において完成させた極北といえる。そもそもは1972年の9月にレコーディングされたベーシックトラックを元にプロデューサーのテオ・マセロが、その他のレコーディング・セッションから取られたデイビスの弾くオルガンをオーヴァーダブして、完全にスタジオの編集室の中でテープを切り貼りし、ミキシングコンソールによる音響的操作によって完成させたミュージック・コンクレートとなっている。以下、テオ・マセロによる制作のレシピを開いてみよう。

マイルスのオルガントラックは、実は別の曲のものだった。もともとレイテッドX” とはまったく無関係だったんだ。バンドの音が一斉になくなる箇所があるよね?それでもオルガンは鳴り続ける。あれはループだ。その12小節後、再びバンドが戻ってくる。あのトラックは編集室で作ったものだったのさ

この ‘Rated X’ という曲は、1972年のコンサートバンドにおけるオープニングのレパートリーとして用意された曲で、これは1972年の8月にスタジオでリハーサルしたものが ’Chieftain’ と誤記されて ‘The Complete On The Corner Sessions’ に収録されている。このようなデイビスのやり方は、1969年以降のコンサートバンドにおけるオープニングのレパートリー ‘Directions’ が、1968年に一度スタジオでリハーサルされているのと同じである。一方で、この編集の施された ‘Rated X’ が、そもそものベーシックトラック含めどのような意図によるセッションだったのか、未だ明かされていないものへの興味は尽きない。また、この二曲ともに変則的なクロスリズムを持つバックビートは、1990年代に現れたUKのダンス・ミュージック、ドラムンベースを先取りしたものとして捉えられてもいる。1999年のビル・ラズウェル・プロデュースによるマイルス・デイビスのリミックス集 ‘Panthalassa: The Remixes’ では、ドラムンベースのクリエイター、ドク・スコットの手により ‘Rated X’ をそのまんまアップデートするかのような類似性を発揮した。それはともかく、ほとんどテープ編集とミキングコンソールによる音響的操作のダブ的手法及び、ブレイクビーツの先駆的な 'ループ' を軸に制作された ‘Rated X’ のラディカルさは、’On The Corner’ においてリズムの断片にまで解体されたデイビスのトランペットは完全に消え去っている。それはクラスター的なオルガンの響きがミュートスイッチによる ‘On / Off’ として、ダイナミズムとグルーヴの波が遠心的な距離で拮抗する緊張感の持続においてのみ、ひたすら不穏な状態から逃れることを拒否しているようでもある。端的にこの徹底した編集作業の産物は、そのまま山のように積み上げられるアウトテイクのオープンリールこそ、ほんの瞬間を捉えることを前提とした ‘アーカイブスの構築物であることを示す。つまり、創造の過程は客観的な聴取の作業を要請するための宝の山’ に挑むことであり、それは、徹底した編集主義を貫く当時のデイビスの意図を強調するテオ・マセロの以下の発言からも読み取れるだろう。

録音の機械というのは、セッションの最中止まることはない。止まるのは、録音したプレイバックを聴き返す時だけだ。彼がスタジオに入った瞬間、機械を回し始める。スタジオの中で起こることはすべて録音され、残されるのはスタジオ内のすべての音を閉じこめた素晴らしい音のコレクションだ。一音足りとも失われていない。私が彼を手がけるようになって、彼はおそらく世界でただひとり、すべて(の音)がそっくりそのまま損なわれていないアーティストだろう。普通はマスターリールを作るものだが、それは3トラック、4トラックの開発とともにやめた。もうそういうやり方ではなく、自分が欲しいものだけを取り出し、コピーする。そのあとオリジナルは手つかずのまま、保管室に戻されるんだ。

そして 私のやったことが気に入らない者は、20年後、やり直せばいいとテオ・マセロは言葉を結んでいるが、それは、この時代のデイビスの創造性において最もラディカルな試みであった ’On The Corner’ の核心を突くものでもある。

1972年の11月にリリースされる ‘On The Corner’ を前に、デイビスはそのプロモーションの一環としてコンサートバンドによるツアーを敢行する。メンバーは、基本的に ‘On The Corner’ のレコーディング時からのピックアップで構成されていたが、新たにレジー・ルーカス、カリル・バラクリシュナ、セドリック・ロウソンという畑違いのメンツが加わり、いよいよデイビスのサウンドから脱ジャズ色が濃厚となる。公式には、1972929日にニュー・ヨークのフィルハーモニー・ホールで実況録音された ‘Miles Davis in Concert’ がリリースされたが、CBSは他に同年101日のパロ・アルト、スタンフォード大学野外ホールでの実況録音を、また、アトランティック・レコードがミシガン州アン・アーバーで開かれた野外ジャズ・フェスティヴァルに出演した910日の実況録音を、そして、914日にボストンのジャズ・クラブポールズ・モールへ出演したものを地元のラジオ局で放送用に記録したものがそれぞれ残されているが、公式リリースとしては現在まで陽の目を見ずにお蔵のままとなっている。結局、このときのツアーは10月半ばにデイビスがハイウェイでの自動車事故を起こしたことで中断され、その後の ‘On The Corner’ の売り上げに響いたとされている。しかし、冷静になってこのときの音源を聴いてみれば、あまりきちんとしたリハーサルの時間も取られず、ほぼ見切り発車的にスタートし、また従来のジャズ畑で構成された手練の奏者たちに比べ、明らかにファンクと即興演奏に不慣れな者たちの戸惑いに終始していることが分かる。実際、この物足りなさは翌年の1月にカルロス・ガーネットからデイヴ・リーブマンへ、3月にセドリック・ロウソンからロニー・リストン・スミスへ、そして4月には、リード・ギターとしてピート・コージーを加えるという荒療治で乗り切ろうとするデイビスの姿からも読み取れる。ただし、すでにこの時期において、このまま1975年の活動停止に至るまでの方向性を示す種は蒔かれていた。19734月の時点で10人にまで膨れ上がったコンサートバンドは、これまた満足に聴取できる音源が残されていないのは残念なのだが、錯綜するサウンドの渋滞を前にルーカスとコージーのツインギターを軸にして、思い切ったリズムの断捨離の見通しをデイビスに与えることとなる。それは、19726月の ‘On The Corner’ レコーディング以降、デイビスの音楽的探求に対するひとつの解答が未分化のまま提出されたことを示す。この10人からなる大所帯の編成は、197345日シアトル、412日グリーンズボロ、413日ワシントン、51日サンタモニカ、そして最終日の52日ロス・アンジェルスでの計5回の公演が確認されている。ちなみに51日のサンタモニカはシヴィック・オーディトリアムでの公演の模様は、当時「ミッドナイト・スペシャル」という番組で放送されているという。また、最終日の52日ロス・アンジェルスでの模様は、日本の「スイングジャーナル」誌によりデイビス本人のインタビューと共に取材され、(前年10月の自動車事故による後遺症のためか)スツールに腰掛けて演奏するデイビスの様子を見ることができる。

ここからデイビスは、エレクトリック・シタール、タブラ、キーボードを排したセプテット編成による新たな改革へと突き進む英断を下す。1973616日の札幌からスタートした日本ツアーは翌月3日まで続き、まだまだ未整理ながらもツインギターを基軸としたソリッドなアンサンブルを初めてお披露目した。デイビス自らYamahaのコンボ・オルガンYC-45Dを弾いて指揮者として君臨する姿は、完成されたアンサンブルをなぞるものより、未だ未分化な状態で錯綜するリズムをコントロールして、デイビス言うところのインスタント・コンポジションのプロセスを体験するところにある。興味深いのは ‘On The Corner’ でビートの基軸を示すツインドラムスの関係性がギターに移行した代わりに、アル・フォスターのドラムスはほぼデイビスのコントロール下に置かれ、いわばシーケンサー的な反復に終始するところだ。ファンクのシンコペーションにおけるビートの自律性より、デイビスが気に入ったというシンバル・ビートをアンサンブルの背景として、各々のリズムが隙間を埋めていくという志向はファンクの細分化のみならず、どこか1969年の 'In A Silent Way' で試みた手法を別の角度から '変奏' したようにも映るのだがどうだろうか。



20枚組からなるボックスセットでの ‘The Complete Miles Davis At Montreux 1973 - 1991’ から、197378日、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演した第二部の模様を聴いてみる。キース・ジャレットを擁した1971年のコンサートバンド以来、1年以上の間を置いて久しぶりにヨーロッパの聴衆の前へ立ったマイルス・デイビスは、明らかに別人の如く変貌していた。それは、音楽面で ’Bitches Brew’ のとき以上の変化と困惑をもたらしたと言える。すでに前月、日本からスタートしたこのツアーは、それまでのデイビスのグループにはいなかった人選を徹底し、さらにジャズの痕跡を消し去ったものだと捉えられた。当時の模様をジャズ評論家のレナード・フェザーは記しているが、デイビス一行は猛烈なブーイングと共に迎え入れられたという。

ジャズ史上有数のイノヴェイターとして25年ものあいだ高く評価されてきたマイルス・デイビスは、なぜ音楽の混沌とした淵に身を投じてしまったのだろう。私にはまったく理解しがたい。いまや彼は、緊密にかつ知的に構成されたアドリブ・ラインを全部捨て去ってしまった。普通のモード形式でもないし、コード展開に音楽基盤を置くわけでもなく、三つの音がはじき飛ばされたかと思うと休止、二つの音符があって休止、今度はワウ・ペダルを忙しく踏み込みながら数音しぼり出す。そうするうちにロックのヘヴィーなカオスが20分近く聴衆を包み込み、また、やおらマイルスはオルガンに向かい、無意味な音を聴衆に叩きつけた。このときついに、(フェスティヴァル期間中の)その週最初の野次が飛び出した。それでもマイルスとその共謀者たちが3部に分かれた退屈な練習曲を40分間演奏しつづけたとき、聴衆は口々に不満の声を上げ、まばらな拍手を消去した。(中略)後半のステージはテンポも少し遅くなり、リズムも前半ほどアグレッシヴではなくなっていた。そのせいか、あるいはアイドルを冷ややかに迎えたことを恥じたためか、もはや聴衆の拒絶反応は姿を消し、ステージの終わりにはかなりの拍手が沸き起こった。

このときの模様は現在、第二部を収めた放送用映像がYoutubeにアップされているので簡単に視聴することができる。フェザーの言う通り、スローダウンした ‘Ife’ から始まるバンドは少ない音数の中でファンクの構造を剥き出しにしながら、未だ定まらないツインギターのコンビネーションを前に、個々の反復から全体のアンサンブルへと到達する ‘On The Corner’ の方法論を開陳することに余念がない。そう、まだまだフォスターに無理なファンクをやらせようとするデイビスの試行錯誤が垣間見えるのだ。しかしこの年の後半から始まるヨーロッパ・ツアーでは強力な統率力の元、まったく違う地平へとバンドは疾走することとなる。







デイビスによるエレクトロニクスとジャズ・ロック、ファンクを軸とした即興演奏のアプローチはすでにこの時期、より洗練された手法として大衆化され、後のクロスオーバーやフュージョン、一部のプログレッシヴ・ロックの連中に影響を与えていた。同じジャズ・トランペット奏者としてフレディ・ハバードやエディ・ヘンダーソン、フュージョン・ブームを牽引していくランディ・ブレッカーを始め、ヨーロッパではイアン・カーのニュークリアス、後にデイビスと 'Aura' を制作するパレ・ミッケルボルグらも混沌としたデイビスの手法の中から表層的な '意匠' を身にまとっていく。そこにはデイビスが意図する '分散化' したリズムのアンサンブルがもたらす原初的な 'プロセス' は整理、単純化され、より個々のソロを軸としたテクニックへと埋没していくことを示した。一方のデイビスは、錯綜するリズムの渦へとそのトランペットもろとも擦り切れるように消尽していく。



果たしてデイビスはすべてをやり切ったのだろうか、それともあらゆるアイデアのひとつを使い切ったに過ぎないのだろうか・・。わたしには修羅の如き完全燃焼したかに見える ‘Agharta’ ‘Pangaea’ を到達点とするより、何度でも立ち上がってくる ‘On The Corner’ がもたらした変奏のように響く。そこにはデイビスが選び取らなかった音楽の余白がぽっかりと口を開けて待ち構えており、永遠に到達することのない曼荼羅のごとく無限が広がっているように聴こえるのだ。



参考文献
完本 マイルス・デイビス自叙伝
マイルス・デイビス / クインシー・トゥループ著 中山康樹訳 (JICC出版局)
マイルス・デイビス物語
イアン・カー著 小山さち子訳 (スイングジャーナル社)
マイルス・デイビスの生涯
ジョン・スウェッド著 丸山京子訳 (シンコーミュージック・エンタテイメント)
エレクトリック・マイルス 1972 – 1975 〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相  中山康樹著 (ワニブックス【PLUS】新書)



2016年9月4日日曜日

'帝王' の嗜好品

'シグネチュアモデル' というのは、音楽にハマり楽器をやってみようとアプローチするユーザーにとってどこか甘美な響きを纏っております(ミーハーとも言えますが)。

Fender StratocasterとMarshallのスタックアンプ、VoxのワウペダルにArbiter Fuzz Face、Shin-ei Uni-Vibeを揃えることで、今や世界中にどれほどの 'ジミ・ヘンドリクス' が存在することか。ジャズにおいては '帝王' マイルス・デイビスがまさにそのような存在で、カラフルに彩色されたMartin Committeeにグイッと '首' の曲がったGiardinelliのマウスピースを差すだけで、世界中の 'マイルス・デイビス' への憧れは増幅されていきます。米国の伝統的な管楽器メーカーであったMartinは、1961年にRoundtable of Music Craftsmen (RMC)に買収されることで最初の変化を経験します。その後、大手Wurlitzerの傘下にあった管楽器メーカーLebrancに権利を買われ、同じく傘下に収めていたHoltonの生産ラインを用いて1970年代からCommitteeの製造を2007年まで継続してきました。デイビスがちょうど 'エレクトリック' 期に用いていたのはWulitzerにより大幅に仕様変更されたLボア、1番管にオート・トリガーを備えたCommitteeの上位機種である 'Martin Magna' のパーツを一部流用したものでした。色は黒にオレンジのグラデーション(ワイト島コンサートでお馴染みのもの)、1971年から73年頃のステージで登場する銀メッキのベルに赤い本体のもの、1973年や75年の来日公演では青に彩色されたものを持ち込んでおります。デイビスが亡くなった1991年前後から市場に現れたCommitteeは、MLボアのT3460とLボアのT3465としてデイビスがステージで用いていたのと同様な彩色(黒、赤、青)と豪華な彫刻が施され、約40万もの高額ながら多くのラッパ吹きの羨望の的となりました。また、最終型ともいえるショート・ストロークのピストンを備えたST-3460は、実際に晩年のデイビスが吹いていたCommitteeを再現したモデルとも言えますね。





このカラフルに彩色されたCommitteeといえば、マイルス・デイビス・フォロワーとして真っ先にその名の挙がるウォレス・ルーニーが有名ですね。しかもこちらは、デイビス直々に頂いたという 'お宝物' を3本所有されているというから羨ましい。'Sax & Brass Magazine' 誌Vol.28号のインタビューによれば、1989年にルーニーがトニー・ウィリアムズのグループへ参加する際、すでに交流のあったデイビスから "持ってけ" とくれたのが動画にある青いCommittee。1990年代以降、Martinのカスタム・アトリエで何本ものオーダーをするルーニーですが、デイビス直々の3本のうち、一番最初に貰った黒(すでにラッカーが剥げ落ちロウブラス状態)やモントルーでギル・エヴァンスのスコア再演時の共演で貰った赤と比べ、この青いのが一番気に入ってるそうです。'Martin Magna' のパーツを流用しWurlitzerでデザインされたLボアで1960年代後半の製造品とのことですが、それが本当ならデイビスは物持ちが良いですね〜。ちなみにデイビス本人は彩色されたCommitteeについてこう述べております。

"金色のトランペットは吹く気がしない。ブラス(真鍮)のトランペットを見ると、トランペットしか見えないんだ。緑色のトランペットだとトランペットが消えてしまう感じで、見えるのは音楽だけだ。"



ちなみに、こちらはデイビスの先輩にして師のひとりであるクラーク・テリー。ここでテリーがミュートで吹いているのはLebrancによるショート・ストロークのピストンを備えたST-3460。以前、下のコメント欄に登場する(笑) 'マイルス・フリーク' な方に教えてもらったのですが、これは両方の小指が引っ掛けられる特注品でして、その製作者のコメントが米国のとあるサイトに載っていたそうです。テリー本人がウォレス・ルーニー所有のST-3460を吹いて気に入り、それをルーニーのオファーで2本製作して手渡されたというからイイ話じゃないですか。

さて、ここでいうCommitteeとは、1970年代以降のWurlitzerでデザインされたものから晩年のデイビスやルーニーらが用いていたLebranc製 '復刻版' についてのもので、1940年代から60年代にかけて用いていたMボアの 'ヴィンテージ' は、これとはまったく違うニュアンスを備えております。以下、ヴィンテージの 'Handcraft' Committee、ド派手な彫刻&彩色のLebranc製 '復刻版'、そして近年のAdams製 '復刻版' を聴き比べて下さいませ。







Adams A9 Large Bore

'ヴィンテージ' といえば、現在だと1930年代から40年代にかけて作られた 'Martin Handcraft' を吹くクリス・ボッティのイメージでしょうか。特にボッティが吹いているのはLボアのモデルで、なかなか2本目が見つからないくらいレアなものだそうです。某工房で似たものを作ってもらっている、みたいな話も聞いたことがあるのですが、未だにラッカーの剥げまくった 'Handcraft' を酷使しているところをみると気に入らなかったのでしょう。この 'ヴィンテージ' は基本的にMボアのCommitteeがバッパーたちに愛されていたようで、デイビスやチェット・ベイカーを始め、当時のバップで吹くラッパの 'あの感じ' が欲しければ必須ではないかと思います。ちなみに現在では、オランダの工房であるAdamsが '見た目そのまんま' に復刻したA9のMボアとLボアがあります。'ヴィンテージ' のCommitteeは均一な品質を保てず個体差が大きい為、わざわざ状態の悪いものを購入するくらいならこのAdamsを手に取ってみてはいかがでしょうか?それはともかく、デイビスの音色に象徴される 'Committee = ダークトーン' という認識がCommitteeユーザーに共通する嗜好なのは確かなようです。あ、そうそう、トランペットしか吹いていないイメージのデイビスですが、ギル・エヴァンスとの 'Miles Ahead' 制作時、Martinの一風変わったフリューゲル・ホーンを用いておりました。ま、普段のラッパでのトーン自体が 'フリューゲルっぽい' ので印象は薄いのですが・・。

Giardinelli Miles Davis Model

そして、ラッパ吹きにとって楽器以上に重要なアイテムのマウスピース。1970年代以降から終生デイビスが愛用していたのがGiardinelliというメーカーのものでした。長らくデイビスは、Holton-HeimのNo.2というマウスピースをベースにオリジナルで製作したGustatというマウスピースを用いておりました。製作者はセントルイス交響楽団のラッパ吹き、ジョセフ・ガスタットで、当時、同郷の先輩であるクラーク・テリーが愛用していたことからそれに倣って使い出したのでしょう。面白いのは、ホルンのマウスピースのようにリム周りをアンカーグリップという形状に加工していたことです。GiardinelliのマウスピースはそのGustatが何者かに盗まれたことから切り替えたという話がまことしやかに伝わっておりますが、実際はバンドがエレクトリックとなったことで、自らのラッパを 'アンプリファイ' にする際、その愛用品にピックアップのための穴開けを嫌がったことから、このGustatのマウスピースをベースに製作してもらったというのが正しい気がします。ちなみに、ルーニーがデイビスからCommitteeを貰った際、2本のGustatマウスピースも一緒にくれたそうです(これまた物持ちが良い!)。さて、Giardinelliの方の製作者は上記リンク先に登場するウラディミール・フリードマン。このGiardinelliという工房は数多くのマウスピース職人を輩出したことでも有名なところで、1990年代初めの工房閉鎖後、ジョン・ストーク、テリー・ワーバートン、グレッグ・ブラック、ジェフリー・ヒルといった職人がそれぞれ独立して素晴らしいマウスピースを世に送り出しております。当時、マイルス・デイビスの 'シグネチュアモデル' がGiardinelliでラインナップされていたのかどうか定かではありませんが、数多くのオーダーにも対応していたことから現在、インターネットで検索すればかなりの 'マイルス・デイビス・モデル' を見つけることができますね。サイズはデイビスが鋭さとくぐもったダークトーンを好んでいたことでVカップの7番ではないか、と言われておりますが正確なところは分かりません。



Gustat Mouthpiece

'アコースティック' 時代に永らく愛用していたGustatのマウスピースも米国最大の管楽器メーカーKanstulから、3Dスキャンされた '復刻版' として発売しております。また、晩年のデイビスのマウスピースに特徴的であった '首' の曲がりはいろいろな説があり、マウスピースに対して唇を一定して当て続けていると血流が悪くなることから、微妙に回転させることで押し付ける力を分散させるとかなんとか・・。マウスピースの差し方により、楽器が少し下を向いたと思ったら今度は上を向いたり・・う〜ん、何かアンブシュアと楽器の構え方、呼吸のタイミングなどにも効果があるのかもしれません。ちなみに、デイビスにとっては呼吸と膝の屈伸の関係こそ奏法に大きな影響を与えているということを、'ダウンビート' 誌1969年12月11日号のドン・デマイケルとの会話で明かしております。ちょっと長いですが引用してみましょう。

"オレは膝を使って演奏しているからな。知ってたかい?"

- ああ、ずいぶんと膝を曲げていることには気づいていた。

"アンブシュアを乱さないためだ。"

- 膝と何の関係があるのかな?

"オレが吹いているときと・・他の連中が吹くときで気づくのは - これが随分ありきたりなんだな。- 彼らはお決まりの場所でブレスしている。だから普通の音になる。"

- 2小節、4小節フレイズのことなんだろうか。

"ああ、ところがアンブシュアをしたまま鼻から息をするなり、自分が好きなようにやれば違った風にプレイできるんだよ。ただし手を離したらダメだ(手を離さないとどういう風になるのか教えようと、グチャグチャなリズムを口ずさむ)。な?違う着地になるだろ(短い、ギクシャクしたフレイズを歌う)。

- 流れが断ち切られる。

"そういうこと、一緒だよ。パターンで演奏しているとしよう。特に拍子がだんだん乱れてきているときにパターンで演奏なんかしていると、ますます乱れてくるんだ。ホーンを下ろしたときにリズムももたついてしまうことになるからな。後ろで演奏している連中からは「あいつは休んでいる」と思われる。休むときは絶対に悟られちゃいけない。ボクシングだってそうだ。ジャブを打つときはリラックスなんかしない。だってジャブを打つのがポイントなんだぜ。ジャブを打つから次のパンチも出せる。つまり手を休めちゃダメだってことさ。"

- 動くとアンブシュアが乱れるというのなら、どうして動く?

"バランスを取り続けているんだ。ちゃんとしたバランスにいつも戻るようにしている。もちろん困ったこともある。昨日の夜なんか、速い4/4拍子の曲で3連を吹いていたら、ジャックがこんな風に(マイルスは速いテンポで車のダッシュボードを指で叩いた)して、それにオレがこんな風(身体を上下にゆっくり動かしながら、4分3連のフレイズを歌う)なんだから、そりゃ乱れる・・。

- つまり音を出すときの筋肉の違い、吹き方の違いということ?

"そうだ、バランスを取り続けなくちゃならない。それに・・スイングするように(身体で)タイムをキープしないと。ある意味一体になるというか、どう考えるかなんだ。ボクシングなら相手を観察しないといけない。わかるか?観察して予測するんだ・・。相手がジャブを出してきたら、こっちは左手で止めようとか。全部がそういう風にならないと(指を鳴らす)。

デイビスの 'アイコン化' に拍車をかけているのがステージで現す、他のラッパ吹きにはあまり見られない独特の姿勢というか、ジェスチャーというか '動き' がありますね。ベルを真下に落とす、かと思うと背伸びをするように天に向けてベルを垂直に突き上げる、身を捩らせながら苦悶の表情で片耳を抑える、マウスピースをペロッと舐める(これは唇の耐久性を落とさない為にラッパ吹きはよくやりますケド)、そして膝を屈伸させて独特のテンポを刻むなどなど・・すべてがラッパ吹きの格好良さと直結します。上の動画は1969年から70年にかけて、デイビスの 'エレクトリック胎動' 期を象徴する黒に赤いクラデーションのCommitteeに差し込んだGustatマウスピース。デイビスのアコースティックな '鳴り' のピークはまさにこの時期が最後ではないでしょうか。





Shure CA20B
SD Systems LCM77
Hermon Wow Wow Mute

そしてピックアップ・マイクといえば、Giardinelliのマウスピースに穴を開けて接合されたShureのピエゾ・ピックアップですね。当時、Hammond OrganがInnovexのブランドで製作したギター・シンセサイザーCondor GSMの管楽器版、Condor RSMをエディ・ハリスやランディ・ブレッカーなどと共にデイビスへ売り込みに行った際、そのエフェクターの付属として用意されていたのがこのCA20Bでした。エフェクター本体はデイビスのお眼鏡に叶うことはありませんでしたが、このピックアップはそのままGiardinelliのマウスピースに接合され、活動停止する1975年までデイビスの 'アンプリファイ' に大きく貢献することとなります。以下は1970年の 'ダウンビート' 誌によるダン・モーゲンスターンの記事から抜粋。



Hammond / Innovex Condor RSM

"そこにあったのはイノヴェックス社の機器だった。「連中が送ってきたんだ」。マイルスはそう言いながら電源を入れ、トランペットを手にした。「ちょっと聴いてくれ」。機器にはフットペダルがつながっていて、マイルスは吹きながら足で操作する。出てきた音は、カップの前で手を動かしているのと(この場合、ハーモンミュートと)たいして変わらない。マイルスはこのサウンドが気に入っている様子だ。これまでワウワウを使ったことはなかった。これを使うとベンドもわずかにかけられるらしい。音量を上げてスピーカー・システムのパワーを見せつけると、それから彼はホーンを置いた。機器の前面についているいろんなつまみを眺めながら、他のエフェクトは使わないのか彼に訊いてみた。「まさか」と軽蔑したように肩をいからせる。自分だけのオリジナル・サウンドを確立しているミュージシャンなら誰でも、それを変にしたいとは思っていない。マイルスはエフェクト・ペダルとアンプは好きだが、そこまでなのだ。"

一方、晩年のデイビスのステージでベルからの生音を収音する '傘の柄' のような形状のコンデンサー・マイクは、デイビス没後に現れたカラフルなMartin '復刻版' と並び、かなりのユーザーに訴えたものと記憶しております。このSD Systemsは当時の 'デイビス仕様' のマイクに関わった技術陣が製作したもので、クリップで挟むグーズネック式のようにグイッとマイクの位置をズラすことなくミュートを着脱可能なところがデイビスにウケたのでしょう。そして、そのミュートといえばデイビスはHermon社のワウワウ・ミュートを長らく愛用しておりました。真ん中のステムを取り去り、マイクに擦り付けるようにして 'チ〜チ〜' と金属質なトーンがむせび泣けば、ああ、帝王だなあという '擦り込み' はジャズ界の果たした貢献のひとつです。しかし、これって別にデイビスのオリジナルではなく、それこそビ・バップ初期からやっていた手法らしいのですが、やっぱり扱い方の適材適所を見つけたところにデイビスの非凡さがあるのでしょうね。ちなみに、現在発売中のものよりその昔に製造されていたHermon社のものは使われる金属の質が違うとかで、オークションでも古いHermonミュートには価値が付いております。また、ミュートはベルに嵌めることによりピッチが上ずってしまうためチューニング・スライドをかなり抜かなければならないのですが、デイビスに強い影響を受けてCommitteeを吹かれている五十嵐一生さんなどは、低音域の太い量感とピッチの安定性の為、ミュート部分が大きく作られているTom Clownのものを愛用しているようです。





Vox The Clyde McCoy
Vox / King Ampliphonic
DeArmond 610 Volume Pedal

デイビスの 'アンプリファイ' を象徴する一品としてワウペダルは重要です。ジミ・ヘンドリクスの存在が大きな影響力となっているようですけど(わたし的にはアイルト・モレイラのクイーカ説を取りたい)、トランペットの奏法からリズミックなアプローチを引き出すアイテムとしてワウに注目した、というところはかなり面白いのではないでしょうか。もちろん、これはデイビスの専売特許ではなく、すでに管楽器の 'アンプリファイ' が始まった1960年代後半、ワウペダルを製造していたVoxの管楽器用エフェクターKing Ampliphonicにおいても推奨されておりました。1970年から71年にかけてThe Clyde McCoyを使用、そして1972年からは、Voxの生産体制がイタリアからカリフォルニアのThomas Organに移り '新発売' されたVox King Wahへ換装、そのまま1975年まで突っ走ります。また新たにヴォリューム・ペダルも足元へ追加し、パッシヴの610をDeArmondにオーダーしました。たぶんトランペットの音量カーブに最適なペダル可変を設定してもらったのでしょう。では、そんなペダル類についてデイビスの発言をどうぞ。

"ああやって前かがみになってプレイすると耳に入ってくる音が全く別の状態で聴きとれるんだ。スタンディング・ポジションで吹くのとは、別の音場なんだ。それにかがんで低い位置になると、すべての音がベスト・サウンドで聴こえるんだ。うんと低い位置になると床からはねかえってくる音だって聴こえる。耳の位置を変えながら吹くっていうのは、いろんな風に聴こえるバンドの音と対決しているみたいなものだ。特にリズムがゆるやかに流れているような状態の時に、かがみ込んで囁くようにプレイするっていうのは素晴らしいよ。プレイしている自分にとっても驚きだよ。高い位置と低いところとでは、音が違うんだから。立っている時にはやれないことがかがんでいる時にはやれたり、逆にかがんでいる時にやれないことが立っている時にはやれる。こんな風にして吹けるようになったのは、ヴォリューム・ペダルとワウワウ・ペダルの両方が出来てからだよ。ヴォリューム・ペダルを注文して作らせたんだ。これだと、ソフトに吹いていて、途中で音量を倍増させることもできる。試してみたらとても良かったんで使い始めたわけだ。ま、あの格好はあまり良くないけど、格好が問題じゃなく要はサウンドだからね。"





Acoustic Control Corporation
Acoustic 260+261
Yamaha YC-45D

そして、デイビスのバンドの後ろに控える壁のようなPAシステムには、特に当時の管楽器奏者たちに好まれていたアメリカの音響機器メーカーAcoustic Control Corporation社のギター/ベース用アンプでした。これはMarshallのようなアンプに対して、比較的クリーンで再生できることから選ばれたもので、上記のAcoustic 260+261にはファズも搭載したエレクトリック・ギター向けながらヴォーカルPA用途にも合わせた設計がなされております。マイルス・デイビスを始め、エディ・ハリスやランディ・ブレッカー、イアン・アンダーウッド、バンク・ガードナーらが在籍したフランク・ザッパのマザーズによるステージでこのAcousticのアンプを確認することができます。上記Acoustic社の当時のカタログを見れば、デイビスが用いていたのはギター用スタックアンプの260+261、361のキャビネットの組み合わせで鳴らしていたことが分かります。そして1973年の来日公演からYamahaとエンドース契約を結び、当時のギター用アンプYTA-110(PE-200+TS-110)やベース用アンプYBA-100(BE-200+BS100)をバンドのPA用として、アンプ前面に三色縦縞で赤、黒、緑と配色した上から 'MILES、DAVIS、YAMAHA' とレタリングを施したものがステージを飾りました。1973年の公演時4トン、1975年の公演時は12トンの規模にまでPAが膨れ上がったとのことで、そりゃ 'Agharta' や 'Pangaea' の猛烈な演奏を聴いたジャズ・ファンが終演後、ロビーのソファでへたり込むワケだ。あ、そうそうデイビスの 'アンプリファイ' な時代を象徴するものとしては、コンボ・オルガン(Yamaha的にはエレクトーンと呼ぶべきだろうか)のYamaha YC-45Dも重要なアイテムですけど・・まあ、コレはいいか。

しかし、'マイルス・デイビスの呪縛' ってのは凄いですね・・。良いのか悪いのかは分かりませんが、ジャズ・トランペットという分野をここまで 'アイコン化' したことで、音楽におけるひとつのイメージを定着させたという点では大きな存在だと言えますヨ。