2016年1月1日金曜日

世界の中心で 'ダブ' を叫ぶ

あけましておめでとうございます。

'アンプリファイ' のラッパや管楽器について語るのもそろそろネタが尽きてきた感がありますが、新年一発目は、わたしの大好きな音楽的概念であるダブについて述べたいと思います。そう、ダブとは実に奇妙で不思議な音楽なのです。いま '音楽' と、あたかもジャンルであるかの如き言葉で括ってしまいましたが、そもそもは、ジャマイカで生まれたレゲエという音楽の中から見出されたレコーディングにおける '手法' のひとつです。しかし、その '手法' は小さなカリブ海の小島を飛び出し、今や多くの音楽シーンへ絶大な影響力をもたらす存在として蔓延しています。2台のターンテーブルと共に生まれたヒップ・ホップ、コンピュータ・プログラミングにより構成されるテクノやドラムンベースにエレクトロニカ、そして、ここ10年近くシーンを賑わせているダブステップやEDMなどなど、その制作システムのかなりの部分でこれらは皆ダブから恩恵を受けているんですね。





ダブのルーツをどこまで遡ればよいのか意見が分かれるところですが、テープを用いたダンス・ミュージックのリミックスということでは、ここら辺りが原点ではないでしょうか?いわゆる現代音楽における 'テープ音楽' ということで、スティーヴ・ライヒと並ぶミニマル・ミュージックの大家テリー・ライリーが、1968年にフィラデルフィアのディスコから依頼を受けて制作したライヴ・エレクトロニクスによるリミックス。元の音源はThe Harvey Averne Dozenというラテン・ソウルのグループで、繰り返されるループが次第に '輪唱' のごとく崩れてきて奇妙なポリリズムに '変調' します。2000年に初めて作品として陽の目を見ました。そして続く '太陽神' ことサン・ラが自主制作した1963年の作品 'Cosmic Tones for Mental Therapy' から '宇宙の声'。まさにダブ誕生の姿がジャマイカではなくニューヨークの裏寂れたスタジオだったことを証明し、チープなリヴァーブ・ボックスを手に入れ嬉々として過剰なエコーを施す '太陽神' の姿が微笑ましい。

しかし、ダブとはそもそも個的なアーティストの存在から遠い、実に裏方的な職人芸の成せる技としてひっそりとレゲエのレコード・ビジネスに関わる存在でありました。そもそも '主役' とはレコーディング・エンジニアであり、既存の音源をベースにミックスという名の '再解釈' を施していくことにあります。これには、ジャマイカという小島の環境がもたらすものが大きく作用し、限られたレコーディング事情とそれを支えるジャマイカの音楽ビジネスがこの特異な '手法' を見出す土壌を用意しました。この辺の事情は、マイケル・ヴィール著 'DUB論' (森本幸代訳 サンクチュアリ出版)で実に詳細に述べられているので是非ご一読下さい。この著書に書かれている当時のジャマイカの環境は、現代の過剰な情報化社会の中でクリエイトすることの難しさに対する強烈な '反面教師' として読むことが出来ます。つまり、現在の音楽制作システムがコンピュータの中で完結でき、あらゆる音源の制作から配信までをインターネット上でピックアップできる環境の利便さが、そのまま音楽シーンの停滞と皮肉にも結び付いている現実を生み出しているのです。ダブの誕生した1970年代、ジャマイカは決して裕福な環境におかれた場所ではありませんでした。ボブ・マーリィは、そんな小島の代弁者として世界的な存在へと押し上げられて行きましたが、一方で、スタジオの小さな '実験室' から副産物的に産み落とされたダブの背景には、貧しく限定的な環境の中で育まれるアイデアの探究心だけが漲っていたのです。キング・タビー、リー・ペリーの二人は、そんなダブを代表する 'アーティスト' たちですが、彼らの両手から生み出される先には、モニタースピーカーを前にミキサーとEQ、フィルター、テープ・エコー、スプリング・リヴァーブ、フェイザーなどの簡素な機材群のみ。しかもそのほとんどは4トラック程度でミックスされ、顧客の大半は、ダイレクトにレコード盤へと記録されるダブ・プレートをサウンド・システムで回すセレクター(ヒップ・ホップでいうDJのような存在)たちなのです。お世辞にも欧米のレコーディング・システムと比べられるクオリティではありません。もちろん、これをもって '野蛮に帰れ' だの '過去の遺物' をありがたがる 'アナログ回帰' を主張したいわけでもありません。むしろ、あらゆる情報や道具に囲まれ、音楽を創造することが身近となった現代こそ '何か' を見つけてかたちにしていくことの難しさに直面しているのです。インターネットの利便さが無知であるよりはあらゆる情報の取捨選択に長け、目的に対してより早いアクセスを可能とする一方、クリエイティヴィティの発揮が情報に対する '禁欲主義' において、よりクリアーで素早いアクセスと 'オリジナル' を可能にしていく場合もある。少なくともダブはそれを世界に証明した稀有な存在だと言って良いでしょう。

また、キング・タビーやリー・ペリーといったレコーディング・エンジニア兼プロデューサーが、いわゆる作家性を誇る 'アーティスト' として持て囃される 'ジャンル' というのも特殊です。例えば、エンジニアでありながら 'モダン・ジャズ' というサウンドを作ったルディ・ヴァン・ゲルダー、ジミ・ヘンドリクスのアルバム制作における右腕エディ・クレイマー、ザ・ビートルズを '作った' フィル・スペクターやジョージ・マーティン、マイルス・デイビスの諸作品で有名なテオ・マセロなどは皆、プロデューサーと同時にエンジニアとしてもそれぞれ優れた手腕を発揮しましたが、常に裏方としてレコードの前面に出ることはありませんでした。1950年代から60年代にかけて英国でプロデューサーとして活躍したジョー・ミークは、ダブを先取りした存在ともいうべき特異なエンジニアではあったものの、彼の '職人芸' 的手腕への評価は1960年にひっそりとリリースされたEPの4曲以降、1991年に全12曲からなる作品 'I Hear A New World' を '発掘' することでようやく再評価されました。つまり、レコーディングへの関心が作品の評価に入り込むのは、ダブ以前にはマニアックな領域に過ぎなかったのです。





残念ながらダブ全盛期において '動く' ものはほとんどないのですが、こちらは奇跡的に1970年代のスタジオBlack Arkにおけるリー・ペリーの作業の一端を記録したもの。ほとんど楽器を操るような勢いで、Soundcraft Series 2アナログ・ミキサーと2台分のフェイズシフト機能を有する大型フェイザーMusitronics Mu-Tron Bi-Phaseを操作しています。何でも、それまでクライブ・チン所有のランディーズ・スタジオ17でミックスの仕事を行なっていたペリーは、クライブが新しい24トラック導入を機にミキサーを入れ替えたことに憤慨、このプライベート・スタジオを作ることとなりました。

"あいつらはスタジオを無茶苦茶にしたんだ。スタジオをまるっきり変えてしまった。いい物を持っているのに、他の奴が自分より大きな物を持っているから自分もって、全部台無しにしちまった。あいつらはあのボードを変えたから、ジャマイカを出てアメリカに逃げなくちゃいけなくなったんだ。あそこで作る音は奇跡だったのに、あいつらは俺の奇跡を無茶苦茶にした。何もかも、あいつらがボードを変えたからだ。"

ペリー自身の意思が反映されたこのBlack Arkもこの後、ペリーの度重なる奇行癖と精神的重圧が重なり、自ら火を付けて '処分' してしまいます・・(実際は漏電による火災が原因)。

ダブは、あくまでジャマイカのサウンド・システムによるセレクターたちの 'ワンオフ' として制作され、後に7インチ・シングルのB面により普及していったものです。A/B面と2曲分もの制作費を捻出できないことから、プロデューサーはB面にカラオケを収録し、それがサウンド・システムにおいて、DJと聴衆を繋ぐ新たなコミュニケーションの 'ツール' となりました。その後、エンジニアたちは単なるカラオケからインストゥルメンタルの音源をあれこれ '加工' することでダブ誕生の瞬間を掴みます。ライバルのセレクターたちに負けないための 'ワンオフ' の依頼と、エンジニアたちのスペシャルな '隠し球' はダブの創造性に新たなマーケットを用意したのです。ダブ・プレートと呼ばれるレコード盤は、いわゆる販促用として応急的に制作される鉄板をアセテートでコーティングしたもので、これをジャマイカのスタジオでは、Ampexの2トラック及び4トラック・レコーダーとプレスト社のカッティング・マシンでダイレクトにレコード版へと刻んでいきます。毎週末に行われていたサウンド・システムで人々の関心を集めるべく、このような急場的な環境を要請していましたが、ジャマイカの音楽ビジネスはプロデューサーと呼ばれる人々が牛耳っており、彼らの庇護の下に多くのミュージシャンが集められレコーディングされたものをスタジオでミックスするところからダブは始まっています。ミュージシャンたちはあくまで雇われであり、それぞれ複数のプロデューサーの仕事を掛け持ちしているのが常でした。リー・ペリー率いるジ・アップセッターズはもちろん、ザ・レヴォリューショナリーズ、ジ・アグロヴェイターズ、ルーツ・ラディックス、ソウル・シンジケート、インパクト・オールスターズ、ザ・サウンド・ディメンションetc・・これらは、セッションを主宰するプロデューサーにちなんで名付けられた '即席バンド' であり、メンバーはスライ&ロビー始め、ほぼ同一のメンツで演奏されております。そしてプロデューサーは自らのレコード宣伝のためにサウンド・システムを主宰し、レコードを回すセレクターや観客を盛り上げるDJ(ヒップ・ホップでいうラッパーのような存在)と組んで '販促' を促していきます。ダブの王様であるキング・タビーもそもそもはセレクター出身で、後に自らのスタジオ、Tubbys Hometown Hi-Fiを立ち上げてミックスの仕事を始めるのですが、本職は電気修理やトランスの製作などが主な業務の街の電気屋さんでした。プロデューサーであるバニー・リーやオーガスタス・パブロとの仕事で彼の名前は島中に響き渡りましたが、何より、彼のミックスにける '再解釈' のスタイルがそのままダブという 'ジャンル' を定義してしまったくらい、それまでのエンジニアとミックスの関係を変えてしまった偉大な存在です。また、彼のスタジオからはプリンス・フィリップ、プリンス・ジャミー、サイエンティストといった優れたエンジニア兼 'ダブ・マスター' たちを輩出して、現在に至るまでダブの血脈を流れさせています。


プリンス・ジャミーと並び、ダブ全盛期のキング・タビーのスタジオで従事した三番弟子の 'サイエンティスト' ことオーヴァートン・ブラウンによるダブ・ミックスの様子。

ダブによるミックスは、エンジニアがエフェクターやミキサーをまるで '楽器' のように操り、リアルタイムで音源に '時間的変化' を与えていくことにあります。即興的な '演奏' のひらめきと、手早く2ミックスへとミックスダウンしていく作業の早さは、現在のDJがドラムマシンやシーケンサー、ミキサーをステージへと上げて、同様のパフォーマンスを披露してみせる姿と完全にダブりますね。ミキサーのEQは極端にローカット、ハイカットへと帯域を絞っては突然ブーストし、常にダイナミクスのバランスを取る。そしてフェーダーとミュートスイッチの操作は素早くテンポを刻み、'ループ' する音源に時間的な構成を描き出していく。その持続的ムードから、ここぞとばかりに '飛ばす' ディレイの空間的操作によっていくつかのクライマックスが用意されます。音源がターンテーブルを駆使するヒップ・ホップ、ミキサーに一括して音源を立ち上げるテクノやドラムンベース、ダブステップであろうが、また、ラップトップから生成される難解なノイズが次第にアブストラクトなリズムを刻むエレクトロニカであろうが、そのライヴや制作手法のほとんどで、このダブ的な演奏スタイルに終始しているのです。

そんなダブの中でもディレイほど、最もこの音楽スタイルを特徴付ける機器はないでしょうね。なぜ、ジャマイカのエンジニアと聴衆がこの '効果' の虜となったのかについては、南国のうだるような環境や、レゲエと付随するように結び付いているマリファナ文化との関連などがありますが、はっきりとしたことは分かっていません。1960年代後半のサイケデリックにおけるLSDの酩酊感とのつながりを強調する向きもありますが、これもカリブ海を隔てた米国との距離や環境において、あまりダイレクトな影響を及ぼすほどには至っていません。キング・タビーがサウンド・システムでUロイのDJに合わせて用いた '衝撃' が、以後の 'ダブ = ディレイ' の出発点とされており、ここでタビーは、自らカセットデッキを改造したテープ・ループによりこの '効果' を生み出していたそうです。タビーの一番弟子であるプリンス・フィリップは、そのタビーの手によりカスタマイズされたディレイと、彼がダブの '王位の座' に付くきっかけとなったその実験精神についてこう述べております。

"タビーはそのダンスでアンプを通したディレイを使ったんだ。他のサウンドマンは、あのとき初めてディレイを聴いた。Uロイがマイクを取って 'いまお聞きのサウンドは、島で一番のサウンドですっ、ですっ、ですっ・・' って言ったから、皆が不思議に思ったよ。セットの周りに集まって、何があの音を出しているのか見に来た。次の日は、皆タビーの所に殺到だ。サウンドマン全員がアンプを注文してきたんだ。タビーは誰にもあのディレイを売らなかった。皆がどうやってあの音を出しているか分かるまで、タビーは種明かししなかった。実際あれは、ヘッドが3つあるカセットデッキだったんだけど、アンプの中に組み込んであるから外からは正体が分からなかったんだ。"

"テストトーン、ディレイ、テープの巻き戻し、スプリング・リヴァーブのクラッシュ。全部、まずダブ(プレート)で試した。こういうエフェクトはクラッシュ(DJ合戦にようなもの)でかけたとき際立ったね。タビーはダンスでエンジニアリングのテストをしていたんだ。タビーの使ったエフェクトは、他のプロデューサーも自分たちの作品で使うようになったよ。"

これ以降、コクソン・ドッドのStudio Oneが愛用したArbiter SoundimensionやSoundette、リー・ペリー愛用のMaestro EchoplexやRoland RE-201 Space Echoなどが1970年代のジャマイカのスタジオを飾ります。ここで聞きなれない名前の機器SoundimensionとSoundette(この2機種は姉妹機です)について、Studio Oneでエンジニアを務めたシルヴァン・モリスはこう説明します。


"当時わたしは、ほとんどのレコーディングにヘッドを2つ使っていた。テープが再生ヘッドを通ったところで、また録音ヘッドまで戻すと、最初の再生音から遅れた第二の再生音ができる。これでディレイを使ったような音が作れるんだ。よく聴けば、ほとんどのヴォーカルに使っているのがわかる。これが、あのスタジオ・ワン独特の音になった。それからコクソンがサウンドディメンションっていう機械を入れたのも大きかったね。あれはヘッドが4つあるから、3つの再生ヘッドを動かすことで、それぞれ遅延時間を操作できる。テープ・ループは45センチぐらい。わたしがテープ・レコーダーでやっていたのと同じ効果が作れるディレイの機械だ。テープ・レコーダーはヘッドが固定されているけど、サウンディメンションはヘッドが動かせるから、それぞれ違う音の距離感や、1、2、3と遅延時間の違うディレイを作れた。"







テープ・エコーと混同しそうな内容の機械と思われるかもしれませんが、これは、有名なイタリア製のBinson Echorecと同じ磁気ディスク式のエコーですね。また、このArbiter社はジミ・ヘンドリクスが愛用したファズ・ボックス、Fuzz Faceを製作していた英国のメーカーとしても有名です。ドッドはよほどこの機器が気に入ったのか、自らが集めるセッション・バンドに対してわざわざ 'Sound Dimension' と名付けるほどでした。もちろん、これらのディレイはスプリング・リヴァーブと組み合わせることで、あのダブ特有の空気感を生み出していることは言うまでもありません。スプリング・リヴァーブは欧米のスタジオでは、AKG BX-20やBX-15といった高級な機器が有名ですが、デジタル・リヴァーブ主流の現在においては、ギターアンプ内蔵のものを除いてほぼ過去の遺物とされている代物です。ダブ全盛期であった1970年代のジャマイカにおいては、リー・ペリーがGrampianのスプリング・リヴァーブのほか、Roland RE-201 Spae Echo内蔵のものを、キング・タビーはThe Fisher K-10 Space Expanderという真空管のスプリング・リヴァーブを用いて '洞窟のような' 効果を生み出しておりました。また、ダブのエンジニアらによるユニークな使い方としては、リヴァーブ・ユニットを持ち上げるか叩くことで内蔵のスプリングに衝撃を与える破壊音が、そのままディレイと並びダブという音楽を象徴します('Thunder' とか 'Fist Attack' などと呼ばれていた)。ともかく、あのダブ特有の 'ピチャピチャ' した質感は本物のスプリングでしか出すことができない唯一無二のものですね。






これは良い比較というか、ジョニー・クラークの歌う 'Declaration of Rights' を、この動画で3:15からそのダブ・ミックス 'Dub of Rights' へと変わるので、どうぞ原曲とダブ・ミックスの違いを聴き比べて下さいませ。ダブ・ミックスを手がけたのは当時のキング・タビーのスタジオにいた二番弟子プリンス・ジャミーで、スプリング・リヴァーブをバシャ〜ン、ドシャ〜ンと雷鳴の如く鳴らしまくります。そして、昔はアンプを叩いたり、本体を上へ持ち上げてから下へ振り下ろすなどの動作でスプリングに衝撃を与えていたやり方が、今はこんな便利に小さくなっております。スペインでダブに特化した機器を製作しているBenidubから発売されたSpring Ampは、外部スプリングを触っては本体のハイパス・フィルターで加工するという至れり尽くせりなヤツです。また、ドイツでシンセやドラムマシンを製作するVermonaからはスプリング・リヴァーブと強力なVCF、LFOを搭載したRetroverb Lancetが登場。

フェイザーはギタリストの定番エフェクターですが、ダブでは上述の動画にもある通り、リー・ペリーが愛用したMusitronicsの大型フェイザーMu-Tron Bi-Phaseが有名でしょう。2台分のフェイズシフト機能を直列にも並列にも組み合わせて用いることが出来ます。これをペリーはBlack Arkの守護神ともいうべきミキシングボード、Soundcraft Series 2に繋いでリアルタイムに操作します。一方のフィルターは、キング・タビーがダイナミック・スタジオから払い下げてきたMCI特注による4チャンネル・ミキサー内蔵のハイパス・フィルターが殊に有名です。EQの延長としてダイナミック・スタジオがオーダーしたこの機器は、後にプロデューサーのバニー・リーが "ダイナミックはこのミキサーの使い方を知らなかったんじゃないか?" と言わしめたくらい、タビーにとっての 'トレードマーク' 的効果としてそのままダブの 'キング' の座を確かなものとしました。そう、この効果が欲しければタビーのスタジオに行くほかなく、また、ここからワン・ドロップのリズムに2拍4拍のオープン・ハイハットを強調する 'フライング・シンバル' という新たな表現を生み出しました。そのハイパス・フィルターは、左右に大きなツマミでコンソールの右側に備え付けられており、70Hzから7.5kHzの10段階の構成で、一般的な1kHz周辺でシャット・オフする機器よりも幅広い周波数音域を持っていました。タビーの下でエンジニアとしてダブ創造に寄与した二番弟子、プリンス・ジャミー(キング・ジャミー)はこう述懐します。

"ダイナミック・サウンズ用に作られた特注のコンソールだから、すごく独特だったよ。最近のコンソールには付いていないものが付いていた。周波数を変えるときしむような音がするハイパス・フィルターとか、わたしたちは、ドラムでもベースでもリディムでもヴォーカルでも、何でもハイパス・フィルターに通していた。ハイパス・フィルターがタビーズ独特の音を作ったんだ。"





最初の動画は、やたらとダブ・ミックスの音源をYoutubeにUPするBakery Studioが再現する、DJビッグ・ユースの音源を用いてのフライング・シンバル・ミックス。そしてダブはまさにこの男から始まった!偉大なジャマイカの 'ダブ・マスター'、キング・タビーことオズボーン・ラドックの仕事ぶりをどうぞ。タビーの '専売特許' と言っても過言ではないシャカシャカとリズム全体にかけられるハイパス・フィルターは、途中からディレイで追っかけるようなドラムのダブルタイムによる '変調ワザ' にも顕著ですが、バニー・リーはこれを 'くすぐったいリズム' と表現しました。

このシャカシャカとしたリゾナンスのきついフィルターの効果は、1990年代以降のダンス・ミュージックの音作りに多大なる影響を及ぼします。Akai ProfessionalからS1000やMPCといったサンプラーがコンシューマ機として普及し、いわゆる 'ベッドルーム・テクノ' として多くのクリエイターを輩出した当時、既成のレコードからのサンプリングと 'ループ' による音楽の構造と質感に動きを与えるフィルターは最も重宝する機器として、プロとアマチュアにおける音楽産業のヒエラルキーを根底から覆しました。このようなダブとエフェクター、聴衆とのコミュニケーションの関係を考えるとき、基本的なベーシック・トラックに対する質感とダイナミクスを演出することへのこだわりはとても重要だと思います。DJやエンジニアによるディレイやリヴァーブ、フェイザーやフィルターなどで元の音源を '削ったり磨いたり' する作業はまるで彫刻家を思わせますが、この荒削りな質感とミックスの '抜き差し' による未完成の美学、その単調な 'ループ' から新たな音楽的過程が浮かび上がる。そんなリアルタイムでの音響的操作がそのまま、楽曲としての構成としてひとつのストーリーを描き出す '手法' は、それまでの特権的な '器楽主義' の価値観から音楽という領域を解放しました。まさにこれは、サンプラーなどのテクノロジーをジャンクとして用いて、再生機としてのターンテーブルから '誤用と剽窃' を通じて楽器へと変形させるストリートの革命が成就した瞬間でもあります。

そして最後に、ダブがレゲエという枠を超えて支持されていることのひとつに、限定的な制作環境から多くの音源を作り出せる '発想の転換' があります。これは、1990年代以降の音楽制作でポピュラーとなるサンプラーと 'リミックス' の手法を考える上で最も重要な概念でしょうね。それまで2台のターンテーブルとディスコ・ミキサーを用いて人力で 'ループ' を生み出していたものをレコード盤から2小節単位のフレイズを抜き出し、MIDIシーケンサーで 'ループ' 状態にプログラミングしてサンプラーをトリガーする。ミニマル・ミュージックにおけるスティーヴ・ライヒとテープの技法、アナログ・シンセサイザーとCV/Gateによるシーケンサーの反復的構造など、現代音楽の世界においては一般的な手法ではありましたが、これをストリートの連中はジェームズ・ブラウン1969年の(当時としては)取るに足らない7インチ・シングル 'Funky Drummer' から見つけます。


もし、オリジナルのドラムを叩いたクライド・スタブルフィールドにも原盤権と著作権料が認められていたら、彼はきっと大金持ちになっていたでしょうね。これは、オリジナルの 'Funky Drummer' からわずか1分弱のパートに満たないドラム・ブレイクの部分を 'ループ' にして、1986年の編集盤 'In The Jungle Groove' としてリリースしたもの。御大JBは、自分の過去の音源をリスペクトしてくれるのは嬉しいが、レアな音源だけにブートレグまで出回って '無法地帯' で使われまくることに業を煮やし、わざわざ 'ネタ' として使いやすいように編集したからこの '公式盤' を買ってやってくれという・・商魂逞しい御大らしいアイデアに満ちた一枚ですね。このようなヒップ・ホップ黎明期のブレイクビーツはあちこちのトラックに '剽窃' されることで、そのままストリート・ミュージックの '再生産' に大きく貢献します。



そして現在の音楽制作システムとしては、フレイズ・サンプリングのみならず、ドラムキットからスネアやハイハット、キックなどをひとつずつ抜き出し、リアルタイムもしくはステップ入力でドラム・パターンをプログラミングする緻密なやり方が一般化します。上の動画は、現在の 'ループ' に特化した音楽を製作する上で大変人気のあるAbleton Liveを用いてのサンプリングを軸としたもの。1時間の制限を設けてここまで簡単に複数のテンポ、ピッチをタイム・ストレッチしながら波形編集し、ダブステップ風のトラックが完成しました。このような既成のレコードなりドラム音源を流用して、いくつものパターンを生成する 'リサイクル' 的手法はそのままダブが出発点だと言って良いでしょう。1970年代初めのルーツ・レゲエ黎明期、コクソン・ドッドやデューク・リードといったプロデューサーたちが各々スタジオ・ミュージシャンを集め、後のダブにおける '素材' となる多くの 'リディム' を制作していたことが、そのままダブ全盛期の下地を用意しました。このような限られた素材から 'ループ' で展開を切り替えるブレイクビーツや、4つ打ちのテクノなど 'リミックス' という音楽の構造に価値を置いている上で、ある意味すべてダブの '隔世遺伝子' と呼ぶに相応しいものです。



1980年、クラフトワークの 'Trans Europa Express' をサンプリングしたオールドスクール・ヒップ・ホップの名曲、アフリカ・バンバータの 'Planet Rock' (1982年)と並び、現在のエレクトロ・ダンス・ミュージックともいうべきテクノ世代への 'Anthem' として君臨する坂本龍一の 'Riot in Lagos'。本曲のオリジナル・ミックスはUKダブの巨匠であるデニス・ボーヴェルで、まさにニューウェイヴまっただ中の機械(マシーン)によるグルーヴと、リアルタイムなダブ・ミックスの手触りがそのまま現在のポップ・ミュージックの '前衛' として有効であることを証明しています。


今年は暖冬とのことで過ごしやすいのですが・・本当はあったかい南国のビーチでグダっとしたい。

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