2016年1月2日土曜日

ベッドルーム・テクノ '95

1995年・・そういえば 'Windows 95' と並んで個人的に音楽の地殻変動が起こった年だったな、と記憶しています。この年を境に自分の音楽的嗜好も、それまでの米国からUKやヨーロッパのものへ完全に変わっていきました。いや、正確にはある時代の米国が誇っていた音楽の質感をヨーロッパが再発見し、うまく咀嚼してみせたと言った方がいいですね。それは、いわゆるDJというスタイルが普及し、ダンスフロアーを軸とした音楽シーンの中で見つける聴き方のスタンスが問われるものだった言えばいいでしょうか。一方の本場米国は、1990年の ‘LA暴動をきっかけにギャングスタ・スタイルのヒップ・ホップが完全にシーンを占拠し、どこを向いてもラップ一色で、ただでさえリリックに不慣れな日本人にとって興味を失うのにそう時間はかかりませんでした。

しかし、そのような音楽に持ち込まれる主張と関係なく、コンシューマ・レベルでコンピュータが安価になったことで、それこそ四畳半の一室で音楽を制作するベッドルーム•テクノの世代が登場したことは大きなパラダイム・シフト’ と言っていいでしょう。もちろん、この辺のルーツは米国のハウスやヒップ・ホップの連中がすでに始めていたことなのですが、UKやヨーロッパの連中は余計なバックグラウンドがない分、より自由なセンスでそのクリエイティビティを発揮し、それまでのメジャーとアンダーグラウンド、プロとアマチュアの垣根を大きく取り払うことを可能とします。このような状況の変化は、例えば、それまでシーンを占拠していたロックの連中も無関係ではおられず、オルタナ グランジポスト・ロックの違いが何にあるのかは分からないものの、少なくとも1980年代のロックに対する反動から当時、ロックの原初的衝動であるアナログ的質感へと大きく揺り動かされることで呼応します。そう、彼らもまたそれ以前の 商業主義的ロックに飽き飽きしていたわけで、それまで忘れ去られていたようなファズやワウワウ、テープ・エコーにハモンド・オルガンやフェンダーローズなど時代の空気をたっぷり吸った音色が復権し、その質感へのこだわりはデジタル一辺倒のハイファイに対してローファイなどと呼ばれたりしました。しかし、このようなローファイという価値観は完全にデジタルのテクノロジーにより回収された上で客観視するものであり、DJたちがこぞってサンプラーというデジタル機器で切り取って強調したことから新しく面白いと気がついたものなのです。



そんな ローファイの代表格として、まだまだメモリーの単価が高かったこの時代、1987年に発売され、すでにロースペックな機器になりつつあったE-Mu SP-1200というサンプラーは、ヒップ・ホップの世代がその限界の中からブレイクビーツの質感を取り出す象徴的な存在となりました。モノラルで10秒のサンプリングタイムしかない中で、33回転のレコードを45回転で取り込み、それを各々8つのパッドに振り分けて、ピッチスライダーでテンポを変更するとアナログ盤自体の質感と12ビットというロービットなスペックが化学反応を起こし、ジャリッとしたブレイクビーツにおける新たな価値観が産み落とされたのです。これこそ、CDの普及とリマスタリングにおけるリスニング環境がアップグレードされた1990年代に、駆逐されようとしていたレコードの市場が勝ち取った発想の転換’ と言っていいでしょう。それは、レコード盤が放つチリチリとしたスタティック・ノイズを針音という効果として、そのままサウンドの一環にまで取り込もうと耳が 開かれていたことの証左となりました。


このベッドルーム・テクノの世代にとっては、レコードも楽器もすべてが 'サンプル' であり、限定的なテクノロジーの中で、どれほどクリエイティビティな瞬間を '拾い集められるのか' にかかっています。レコードから抜き出すサンプルそのまま、往年の名機であるハモンド・オルガンやフェンダーローズ、モーグやアープのアナログ・シンセサイザーの音色を復権させたのはすべてにその質感です。またE-Mu SP-1200同様、1980年代のデジタル機器黎明期に製造されたRoland TR-808TR-909TB-303といったドラムマシーンやベース・マシーンの音色が、1990年代以降のダンス・ミュージックのグルーヴを決定付けてしまったことも特筆したいですね。元々はドラマーやベーシストの '代用' として用意されながら、あまりにオモチャっぽいと揶揄されたこの初期デジタル機器は、現在に至るまでコンピュータ・プログラミングにおける 'ビート' のスタンダードへと変貌しました。今やそのオリジナル機は天井知らずなまでに価格が高騰しています。このようなテクノロジーがグルーヴを決定付けた最たるものとして、1994年にAkai Professionalが発売したMPC3000は、まさにベッドルーム・テクノ隆盛のきっかけとなった名機であり、個人の所有できる最初の 'スタジオ' となったワーク・ステーションです。それはドラム・マシーンというインターフェイスを用いて、レコード盤とMPC3000だけですべてを完結させる手順’ を見せることで四畳半の一室を占拠しました。16ビット44.1kHz、同時発音数32音のスペックを誇り、モノラルで20.9秒、ステレオで10.9秒のサンプリングを可能とした本機はロジャー・リンが設計に携わった最後のモデルで、何よりシーケンサーに独特なグルーヴ感の揺れがあることから、現在でもヒップ・ホップを中心に高い人気を誇っています。もちろん、コンピュータで細かな波形編集を用いてMIDIで統御するOpcodeの VisionやSteinberg Cubaseといったシーケンス・ソフト、そしてAkai Professional S3000シリーズなどの ‘DTM’ セットで制作するユーザーも増えました。このように、従来のギターやベース、ドラムス、キーボードといった楽器の価値観がコンピュータと共に大きく変わり、打ち込みという言葉から象徴されるような、演奏することが既存のレコード盤から抜き出したり、シンセサイズをMIDIで統御する制作手法をコンシューマ・レベルで拡大したのが1990年代の10年間でした。





Strictly Turntablised / DJ Krush  (Mo Wax 1994)
Underground Vibes / DJ Cam  (Street Jazz 1995)

では、’1995というしばりでこの年を代表するアルバムをいくつか個人的嗜好で選んでみたいと思います。最初は、日本が世界に誇るトラック・メイカーとして名を馳せたDJクラッシュの ‘Strictly Turntablised’ とフランスはDJカムの ‘Underground Vibes’ 。正確には、DJクラッシュのは前年のリリースなのですが、日本では1995年ということで挙げておきます。1991年のマッシヴ・アタックによる衝撃作 'Blue Lines' がこれらの土壌を用意する出発点とされ、そこから芽吹いてきたトリップ・ホップの連中は、ヒップ・ホップを客観視した上でクリエイティビティを発揮することで、そのまま ‘本場指向に捉われずに世界の辺境から優れたトラック・メイカーを発掘するきっかけを生み出しました。UKではコールドカットの主宰するレーベルNinja Tuneやジェームズ・ラヴェルのMo Wax、ハウィーBPussyfootなどがトリップ・ホップの震源地として登場し、DJクラッシュはもちろん、サン・フランシスコ出身のDJシャドウ、ロシア出身のDJヴァディムなどの登場を促します。そして、フランスのStreet JazzからはDJカムも現れますが、面白いのは彼らが皆、自分たちをヒップ・ホップの継承者として異端ではないことを強調していることです。このようなブレイクビーツとターンテーブルの可能性は、この後、再び米国に伝播して、1990年代後半のロブ・スウィフトやQバート、カット・ケミストらターンテーブリストなるブレイクビーツの即興性を経て、マッドリブからJディラにおいて飛躍したトラック・メイカーとしてのヒップ・ホップの可能性に繋がり、それは、現在のフライング・ロータスを始めとした ‘Low and Theory’ に代表されるLAのビート・シーンに脈々と流れています。





Music for Space Tourism Vol.1 / Visit Venus (Yo Mama's Recording 1995)

こちらも1995年、突然ドイツからリリースされたトリップ・ホップ・ユニットVisit Venusのアルバム 'Music for Space Tourism Vol.1'。とにかく、匿名性の強いサイケデリックな音像と '万博世代' に訴えかけるような 'レトロ・フューチュアリズム' の世界観がブレイクビーツとくっ付くことで、この後に盛り上がり始める 'モンド・ミュージック' を予兆させる内容がロマンティックかつ '現実逃避' 的に気持ち良かったですね。



U.F.O. c/w Rings Around Saturn / Photek (Photek Productions 1995)

そして1995年といえば、すでにUKのアンダーグラウンド・シーンから火が付いていたジャングルと呼ばれる新しいブレイクビーツのスタイルが、この頃にはテクノやジャズのエッセンスと結びつき、ドラムンベースとして 'アップグレード' した頃でもあります。ゴールディとMetalheadz、4ヒーローとRainforced、LTJブケムとGood Lookingといったレーベルが活発に12インチ・シングルをリリースし、ここ日本でも多くのコンピレーションに収録されて紹介されました。私も当時UKからの情報にはワクワクしていた頃で、その中でもお気に入りだったのがフォーテックことルパート・パークスの制作するジャジーな雰囲気満載のストイックなドラムンベースでした。こちらも1995年の12インチ・シングル 'U.F.O. c/w Rings Around Saturn' からの1曲で、ロニー・リストン・スミスの弾くフェンダーローズのフレイズが印象的なファラオ・サンダース 'Astral Traveling' をサンプリングし、雨音のイントロから始まる実に気持ちの良い仕上がりです。





Millions Now Living Will Never Die / Tortoise  (Thrill Jockey 1995)

ロック・バンドという形態を取りながら、あくまでダブやエレクトロニカ、AACM以降のフリー・ジャズと近しい関係にいたのが ‘シカゴ音響派’ と呼ばれる一派です。トータスはそのシーンの中心にいたバンドで、パンク出身のドラマーでありながら音響的操作やエンジニアとしても活躍するジョン・マッケンタイアを始め、Thrill Jockeyというレーベルはこのシーンから数々のグループなりユニットを紹介し、まるで往年の ‘カンタベリー・ジャズ・ロック’ が蘇ったかの如き活況を見せます。1993年の第1 ‘Tortoise’ からすでにそのサウンドは完成されており、この年の第2 ‘Millions Now Living Will Never Die’ で完全に ‘ポスト・ロック’ の最前線に躍り出ました。彼らが手本としたのはヒップ・ホップやテクノの手法で、サンプルとしてのジャズからローファイという質感を取り出したトリップ・ホップの興隆と共に、例えばロックの側からもレディオヘッドなどが参入する動きなどと合わせて、ロックにおけるブレイクビーツとダブの方法論を刷新していきます。これよりさらにテクノ側と手を結んだ者ではボーズ・オブ・カナダもいますが、彼らが契約したWarpからはエイフェックス・ツイン、オウテカといった 'ベッドルーム・テクノ' の申し子ともいうべき偏執的なクリエイターが登場することで、完全に前世代のロック(という価値観)を過去のものへと追いやりました。

ちょうどこの1995年は、それまでのアシッド・ジャズやトリップ・ホップに見る 'スモーキーな' ブレイクビーツの可能性が話題となる一方で、より高速で細分化されたブレイクビーツのジャングル/ドラムンベース、ヒップ・ホップとダブの概念を抽象化した概念として '横断する' ニューヨークのムーヴメントであるイルビエント、そしてラップトップ・コンピュータからの 'デジタル・エラー' を積極的に取り込み、抽象的な周波数の積み重ねから立ち上る '音楽' を見つけるエレクトロニカが勃興する転換期でもあります。



94 Diskont / Oval (Mille Plateaux 1995)

CDの盤面にサインペンで 'キズ' を付け、偶発的な '読み取りエラー' によるノイズをコンピュータのハード・ディスクに貯蔵し、その膨大なサウンド・ファイルの中から '音楽' を生成させるオヴァルこそ、サンプリング・ミュージックにおける批評と実践を体現した極北でしょう。この1995年リリースの '94 Diskont' はそんな彼のスタイルを決定づけ、その後のエレクトロニカの指針となった一枚です。

'アナログ' という名の 'ローファイ' な価値観の中で、CDというメディアからデジタルにおける 'グリッチ' (機械的な接触不良、間違い)という価値観を提示するオヴァルは、自らの制作手法をテクノロジーによる可能性や、創作における作家性がもたらす意味ありげなミスティフィケーションに対して明確に一線を引いています。オヴァルは自らの特性を音楽だと認識されているものを切り裂いて、ラディカルなアプローチを取ることは認めつつ、それをスタンダドの攻的な使用と述べながらこう定義します。

僕は単にスタンダードな機材とソフトウェアを使用して、特定のワークフロウを象徴しているだけなんだ。僕にどんなCDを渡しても、僕はそれを全く違う音に変えられるというのは、単なる技術的な事実でしかない。それは僕の作品の特質でも何でもないんだ。ソフトウェア会社が開発したソフトウェアや最新のDSPプロセッシング、ファイル・コンパティビリティやプラグインなどによって、誰でもどんな音や映像も、全く違う音や映像に変形させられる。それには何の意味もないんだ

オヴァルことマーカス・ポップによるこの徹底して 'テクノ' (というワークフロウに長けた作家)に対する態度は、そのまま同時代のアーティストたちへの厳しい批判として向けられるのですが、それは完全にコンピュータにより全ての創作を可能とする現代のシーンにおいて何度でも読み直されるものでしょう。

すべてに、お祭り騒ぎのようであったバブル経済の日本が 'はじけた' のが1991年。それでも世は未だその衝撃を実感できずにいました。一部の投資家は別として、一般庶民の生活にその余波が流れてくるまでにはまだバブルの '貯蓄' で食い繋いでいくことができたからです。1995年はちょうどそんな余波が世の中に流れ、社会全体の価値観が大きく変化し冷え込んできたとき・・。何か、この1995年のサウンドに共通する 'ひんやりとした' 耳触りは、そんな世相と共に音楽の将来を占う '来たるべき予兆' のようなものを示唆しているようです。


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