本盤の参加クレジットは以下の通りなのですが、これも1980年の初リリース時に比べて決して正確なものではないそうです・・。
Jimi Hendrix - Guitar / Vocal
Billy Cox - Bass
Dave Holland - Bass (Tracks 2,4,6,7)
Buddy Miles - Drums (Tracks 1,2,8,9,10)
Mitch Mitchell - Drums (Tracks 3,4,5,6,7)
Jim McCarty - Guitar (Track 5)
Larry Young - Organ (Tracks 3,4)
Larry Lee - Guitar (Track 10)
Juma Sultan - Percussion (Track 10)
ここには1969年に解散した 'Experience' 以降、ヘンドリクスが組織したコミューン的色彩の強いジャム・セッション・バンド 'Gypsy & The Rainbows' から 'Band of Gypsys' に至るまで、特にアラン・ダグラスがプロデュースしていた時期の音源が中心となっております。本盤だけの特徴として、ダグラスの 'ツテ' で揃えられたジャズ・ミュージシャンたちとの出会いがあり、当時、マイルス・デイビスの 'Bitches Brew' に参加したデイヴ・ホランド、ラリー・ヤング、ジュマ・サルタン('Bitches Brew' 参加時の名はJim Riley)らがヘンドリクスのサウンドに新たな響きをもたらすという面白い展開。ちなみに同時期、どこかの 'クラブギグ' ではあのラーサーン・ローランド・カークやサム・リヴァースともジャムったそうで・・ああ、どこかの誰かが客席でオープン・リール・デッキなどを回していなかったかとため息が出るなあ。
本盤にはジム・マッカーシーとのジャム 'Jimi / Jimmy Jam' も収められておりますが、やはり気になるのはこの時期、同じく 'デイビス組' で名を馳せた英国人ギタリスト、ジョン・マクラフリンとのジャム・セッションも行っていたこと。そのヘンドリクスとマクラフリンのジャム・セッションが上記のブートレグ音源。うん、特別何かを作り上げようという意思もなく、とにかく畑の違うギタリストふたりが相乗効果的にジャムっているだけ、ではあるのですが、もし、この時期にヘンドリクスを引っ張り上げるような凄腕プロデューサーがいたのならば、その後の彼のキャリアはもっとずっと違うものになっていたかもしれません。アラン・ダグラスはヘンドリクスに違う世界の人たちとのコネクションは繋げたかもしれませんが、結局はただ、スタジオでジャムっているものを記録したテープをうず高く積み上げるだけで終わってしまいました。しかし、これは彼の責任ではなく、やはりギタリストとしてのスタンスを抜け出せなかったヘンドリクスの限界と、彼をスターダムに乗せて大金を稼いだ 'ロック・ビジネス' (を操ったマネージャーのマイク・ジェフリー、レコード会社など)の軋轢から自由になれなかったことに起因していると思われます。特に 'Experience' の成功体験を持つジェフリーにとって、ヘンドリクスがジャズを軸とした実験的スタンス、よりファンク/R&B色を強めることに向かうことは良しとせず、このGypsy & The RainbowsやBand of Gypsysは精々ヘンドリクスへの一時的 '休暇'、または以前のレコード会社と残っていた契約義務を果たすための妥協的産物でした。もちろん、この '休暇' からヘンドリクスが何がしかの成果を掴めれば良かったのですが、やはり、単なるジャムに終始してしまったところに1968年の傑作 'Electric Ladyland' 以降、彼が音楽面である壁にぶつかっていたことは間違いない。
ちなみにそんな時期に新たな 'Experience' として交流を持ったのがジャズの帝王、マイルス・デイビスの存在。しかし、この出会いはむしろヘンドリクス以上に音楽的なターニング・ポイントに差し掛かっていたデイビスの意向の方がずっと強く、当時、ヘンドリクスのプロデュースを担当したアラン・ダグラスに一緒にやらせてくれと懇願していたそうです。ジョン・スウェッド著によるマイルス・デイビス伝記本のひとつ 'マイルス・デイビスの生涯' (シンコーミュージックエンタテイメント刊)によれば、そんなデイビスの意向を汲み4ヶ月をかけてCBSとワーナー・ブラザーズを口説き落とし、ワーナーから4曲入りの '共演盤' の契約を取り付けることに成功します。レコーディングのギャラはミュージシャンの間で4等分することが決まりますが、しかしレコーディングの当日、開始30分前になってデイビスのエージェントからダグラスの元に電話が入ります。何とスタジオ入り前に追加で5万ドル上乗せして欲しいと・・。
"私は自宅にいるマイルスに電話をかけた。ようやく受話器に出てきたマイルスは「いいだろ、あるんだろ?(金を)とりつけてくれよ。"と言うんだ。私は電話を切り、ジミに「なにか食いにいこう」と誘った。出ようとした瞬間、また電話が鳴ったので、てっきりマイルスが謝罪の電話をかけてきたんだろうと思った。ところが電話の主はトニー・ウィリアムズで、トニーは「マイルスに5万ドル払うって聞いた。オレにも5万ドルくれ!」と言ったんだ。"
ダグラスはデイビスのエゴはもの凄く、これはうまく行かないだろうと悟ったとのことなのですが、う〜ん、デイビス本人が望んだプロジェクトだったというのに何という仕打ち(呆)。以後、事の真相はデイビス本人やヘンドリクスの口から述べられることはなかったのですが、まあ、ヘンドリクス急逝の報を聞いてデイビスが深く悔やんだことは間違いないでしょうね。ギャラが4等分ということはベース(オルガン?)が誰なのか気になるところですが、この顛末をもう少し冷静に観察してみると、当時の底無しなほどに '狂った' ロック・ビジネスに対するデイビスなりの勘違い、もしくは業界が '食いもの' にするロックスターへの扱いに対するデイビスなりの警戒心だったのかな?という気がしております。実際、ヘンドリクスはそんな業界の '犠牲者' ともいうべき扱いに苦しんでいたし、今の 'ブラックな' 芸能界以上に莫大な利益を吸い上げる連中に対し、デイビスなりのもっと正当な権利をアーティストに寄越せ!という声だったのかな?と・・。ま、想像ですけどね。
しかし、'Jack Johnson' ばりにハードなギターとタイトなリズムに乗ってデイビスのラッパが咆哮する、みたいな共演・・聴いてみたかったなあ。多分、ヘンドリクスが求めていたイメージとしてはここで登場するメンツ、ジョン・マクラフリン、ラリー・ヤング、トニー・ウィリアムズを中心としたTony Williams Lifetimeのサウンドがかなり近かったんじゃないかな、と。
この時期のジャムの延長線上にあったのが、あのウッドストックのステージに立ち伝説的な存在となったGypsy & The Rainbowsなのですが、やはりリハーサル不足と旧友ラリー・リーやビリー・コックス、 'Experience' 時代からのミッチ・ミッチェル、ジェリー・ヴェレスやジュマ・サルタンら雑多なパーカッションを配置して、ひとつのバンドとしてまとめ上げられなかったのは残念でした。このステージでも披露した 'Jam Back At The House' はまさにこの時期のヘンドリクスの音楽的アプローチを象徴する一曲で、何とかヘッドアレンジと共に現場のインプロヴァイズから練り上げようとするも、結局はそれぞれの実力不足と共にジミの顔色がただただ曇っていくだけに終始していくのを垣間見ることが出来ます。ちなみに最初の音源は 'ウッドストック' フェス直前の8月10日、同地のティンカー・ストリート・シネマという映画館で行われた仲間内のジャムを録音したもの。まるでロニー・ヤングブラッド・バンドの '下積み時代' に舞い戻ったかのようなR&Bスタイルで、トランペットは残念ながらマイルス・デイビスじゃなく(笑)、Earl Crossなる黒人のラッパ吹きとのこと。しかしジャム最後にはあの 'アメリカ国家' も飛び出し、ヘンドリクスが入手した新兵器Uni-Vibeの初お披露目となりました。
→Honey Vibra Chorus
→Shin-ei / Uni-Vox Uni-Vibe
→Companion SVC-1 Vibra Chorus
当時足元に置かれた '新兵器'、Uni-Vox Uni-Vibeの蛇の如くのたうち回ったトーンこそこの時期のヘンドリクスを象徴するものでしょう。時期的には1969年3月に倒産直後のHoneyで生産され、Unicord社へ輸出された初期ロット品の一台であり、たぶん行きつけの楽器店、Manny'sで5月頃には入手していたものだと思われます。ちなみにHoneyは倒産直後からそれまでピックアップ製作などを行なっていた新映電気により製作、販路業務を一手に引き渡し1970年代半ばまで '存命'。その新映が 'Companion' の名で輸出した '卓上版' の一台、SVC-1 Vibra Chorusを1970年にはすでに入手していたという話もあるのですが・・う〜ん、どうなのかな?この 'フェイザー前夜' ともいうべき1969〜70年のステージでヘンドリクスが見せつけたサイケデリックな効果、そして貢献する 'Maid in Japan' の先駆的存在はもっと広く知られてよい事実でしょうね。
ヘンドリクスのジャズに対する希求を捉えたと思しきジャム 'Easy Blues'。ゆったりとした4ビートのテンポでブルージーにキメるスタイルは、あの傑作 'Electric Ladyland' 時の収録ながらボツとなってしまったホーンを従えての異色曲 'South Saturn Delta' (動画のは勝手にリミックスされているけど)含め、当時ロックというフィールドを超えて試そうとしていたヘンドリクスのもうひとつの '顔' が垣間みれるでしょう。そして、当時の 'ファンク革命' と触発されることにも積極的で、こちらもアラン・ダグラスのプロデュースでバディ・マイルス、ヒップ・ホップのルーツ的グループとして名高い 'ストリートの詩人' The Last Poetsのジャラールが 'Lightnin' Rod' の変名で制作した謎のシングル 'Dorriella du Fontaine'。ヘンドリクスはギターとベースのオーバーダブで参加。
→Jimi Hendrix Gear
→Gibson / Maestro Rhythm n Sound for Guitar G1
→Gibson / Maestro Rhythm n Sound for Guitar G2
→Melvin Jackson / Funky Skull (Limelight)
この1969年はヘンドリクスにとって新しいテクノロジーとの出会いでもあり、特にエフェクター黎明期において当時の最新デバイスへの興味も高かったと思われます。'ウッドストック' のステージでお披露目したUni-Vox Uni-Vibeのほか、当時、ニューヨークに建設中であった自らのスタジオ 'Electric Lady' での音作りの一環として想定していたと思しき、Gibsonから発売されたMaestroのマルチ・エフェクター、Rhythm n Sound for Guitarなども手にしていたとのこと。リンク先にある画像は1969年に 'ヴァージョンアップ' したRhythm n Sound for Guitar G2で、G1にあったパーカッションの 'Bass Drum' とオクターバー 'Fuzz Bass' は廃し、トーン・コントロールの 'Color Tone' は2種になった分、新たに 'Wow Wow' と 'Echo Repeat' が追加されてよりマルチ・エフェクターっぽい仕様となりました。このG2で特筆したいのは 'Wow Wow' がちゃんとオートワウしていること!これ、Mu-Tron Ⅲ以前では最も早く製品化されたエンヴェロープ・フィルターじゃないでしょうか。そして、一見エコーの効果を付加してくれるように思われる 'Echo Repeat' は、VoxのRepeat Percussion同様のトレモロですね。このMichael Heatleyなる著者の 'JimiHendrix Gear' はイマイチその根拠に怪しい匂いを感じるのですが、しかし、当時のエフェクター黎明期においていろいろな機器に対する嗅覚はあったであろうと仮定しながら眺め、考察するという意味では興味深い一冊ではないでしょうか。ちなみに一風変わった本機の効果を堪能したい人は、ソウル・ジャズのベーシスト、メルヴィン・ジャクソンの 'Funky Skull' (Limelight) をどーぞ。このカラフルなヤツがEchoplexと共にジャケットにも堂々登場で、全編ちゃんとウッドベースをワウワウ、チャカポコさせております。また、Fuzz Faceやロジャー・メイヤーの手がけるOctavioのイメージの強いヘンドリクスですが、当時、マイク・マシューズが興した会社Electro-Harmonixの '新製品'、Big Muffをヘンドリクス御用達の楽器店Manny'sを通して購入していたという話もあります。
→Manny's Music Receipts
→Hammond / Innovex Condor GSM ①
→Hammond / Innovex Condor GSM ②
→Hammond / Innovex Condor RSM
→Hammond / Innovex Condor SSM
→Shure CA20B
そしてこの時期、世界初のギター・シンセサイザーとしてHammondがOvationと協業して開発した機器Innovex Condor GSMもヘンドリクスはニューヨークの馴染みの店、Manny,sで購入しております。こちらはManny'sの領収書が残っており、ヘンドリクスは1969年11月7日にシリアル・ナンバー1145のInnovex Condor GSMを480ドルでMaestro Echoplexと共に購入。本機はギター用のGSMのほか、キーボード用のステレオ仕様SSMと管楽器用のRSMもラインナップされて、そのRSMの方はHammondからマイルス・デイビスの元へも売り込みを兼ねて送られてきました。そういえばヘンドリクス没後に発売された未発表曲集 'Rainbow Bridge' の中に「アメリカ国家」のスタジオ録音版が収録されており、これの 'シンセライク' にキラキラしたトレモロのギターによるオーバーダビングで本機が使われているのでは?という噂があるのですがどうなのだろう?この曲のベーシックトラックは1969年3月18日にニューヨークのレコード・プラント・スタジオで収録され、同年11月7日にヘンドリクスがManny,sでCondor GSMを購入、さらにオーバーダブの作業を経て完成させた、というのがわたしの '見立て' なのですが・・う〜む。実際、このGSMのデモ動画と同曲を聴き比べてみてもかなりの確率でそれっぽい。
→Vox The Clyde McCoy '1967'
そんな 'ジミの衣鉢' ともいうべき 'Clyde McCoy' を踏む1971年のマイルス・デイビス。ヘンドリクスにとっての最も安心できるフォーマットはギター、ベース、ドラムスからなる '3ピース' 編成だったそうで、一時的にサイド・ギターやパーカッションなどを導入して多様化させる試みを行ったものの、結局はBand of GypsysからExperience '復帰' でその創造は尽き果ててしまいました。一方では、そのシンプルな編成に多彩な 'いろ' ともいうべきギターのアンサンブルの演出において、ヘンドリクスのエフェクターとアンプを用いた '轟音' ともいうべきアプローチは、現在に至るロックの音作りの基本を型作ったと言っても過言ではありません。そんな 'ヴォイス' の演出にファズと共に一躍トレードマークとなったのが英国のブランド、Voxのワウペダル。特にこの1969年に愛用していたのは1967年の元祖 'Clyde McCoy'。ジャズ・トランペット奏者で ' ワウワウ・ミュート' の名手クライド・マッコイにちなんで名付けられており 'ウッドストック' のステージでも大活躍しましたが、コイツをヘンドリクスからそのまま手渡されたのが誰あろう帝王、マイルス・デイビス。1969年の大晦日、Band of Gypsysのニューイヤー・コンサートを見に行ったデイビスは、楽屋で久しぶりの再会を果たし、お前らのMarshallのアンプをラッパで使いたいから送ってくれと冗談を飛ばしながら、しばらくしてデイビスの元に愛用の 'Clyde McCoy' ワウペダルが送られてきたそうです。
完全にジャズのフォーマットを捨て去り、何とも形容し難い奇形的 'ファンク・ロック' でバンドをまとめ上げるデイビスの手腕、是非ともヘンドリクスに薫陶して頂きたかったと残念でなりません。
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