2016年12月2日金曜日

Pファンクってなんだ?

さぁて、デカいテーマに挑まなければならない連中・・Pファンクです。と言ってもこの限られたスペースでは到底語り尽くせないので、この集団を代表する '二大巨塔' のひとつ(と言っても中身は一緒のメンツなんですが)ファンカデリックを取り上げます。







1950年代後半、床屋の理髪師をしながらドゥーワップR&Bのコーラス・グループ、ザ・パーラメンツを結成しメジャーを目指していた男、ジョージ・クリントン。そんな鳴かず飛ばずの苦しい彼らも1960年代後半には、まったく新しい '革命' に触れてそれまでの古臭いスタイルから脱却を図ります。特に強烈な '二大インフルエンス' となったのがジミ・ヘンドリクスとスライ&ザ・ファミリー・ストーン。黒人が当時の狭いR&Bの枠を抜け出して、ロックという新たな 'アンプリファイ' の世界の中でLSDの幻覚に塗れたのだから、これはジョージにとって完全にぶっ飛んだ経験だったのでしょう。さっそくコーラス・グループをアシストするバックバンドを組織するのですが、ここにきて以前からの契約問題が彼らの足を縛ります。ちょうど1967年に '(I Wanna) Testify' が全米R&Bチャート3位のヒットを飛ばしたこともあり、彼らを雇うレーベル側がその権利関係にうるさく口出してきたのです。そこでジョージは一計を案じ、まず彼らのバックバンドだけを別レーベルと契約してデビューさせることを画策します。もちろん、その中身はザ・パーラメンツ+バックバンドということで、彼らはそれまでの名前を捨て、新たにファンカデリックと名乗りました。まさに時代はジェイムズ・ブラウンやスライ・ストーンらファンク革命と、ヘンドリクスに代表されるサイケデリック・ロックを掛け合わせた造語として、このPファンクという集団のコンセプトを見事に定義します。ジョージはまた、前レーベルとの契約切れを待ってコーラス・グループ+バックバンド(要するにファンデリックと一緒)として新たに別レーベルと契約、パーラメントとしても再出発します。ちなみに彼らの 'クスリの分量' は半端ではなかったようで、スタジオは常に煙でモクモク、何かしら一発 'キメた' 状態で大量の楽曲を制作していたことは、上の動画にあるデビューアルバムを聴いて頂ければお分かり頂けるかと。彼らがユニークかつ新しい価値観を持った黒人たちなのは、ジミ・ヘンドリクスやスライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジェイムズ・ブラウンを聴きながら、同時にサイケデリック・ロックのヴァニラ・ファッジや、同じデトロイトで強烈なメッセージと共にアナーキーなパンク・ロックの元祖となったMC 5らと共にステージへ上がっていたことです。ほんと、Pファンクを聴いているとレッド・ホット・チリ・ペパーズやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがいかに可愛いものなのかが実感できます(彼ら自身ルーツであると公言しておりますケド)。



彼らは1970年代後半までに多くの 'クローン' を生み出してはあらゆるレーベルと多様な名義で契約することで、いわゆる 'Pファンク' と呼ばれる一大帝国を築き上げて、それまでになかったロックとR&Bという境界をハミ出したサウンドを提示することに成功しました。ええ、こわくない、こわくないですよぉ・・危ない 'フリークス' な集団の匂いプンプンですがこわくない・・が、確かに人に勧めるのも勇気はいる。

とまあ、大分端折ったかたちで述べてみましたが、わたしの音楽観に多大なる影響力をもたらした存在として彼らを抜きにしては語れませんね。当時、日本の音楽シーンの多くが欧米のロックとMTVを基軸としたポップ・シーンに追従しており、いわゆるR&Bはマニアが好むバカバカしいものというイメージで固定しておりました。当時台頭してきたヒップ・ホップも一過性のコミックソング的扱いに終始し、皆がキャーキャーするのはロックのナルシシズム的美的感覚の横溢したものばかり。わたしからすると、長髪でピタッとしたスリムジーンズにブーツの出で立ちの白人が恍惚するようにギターを弾く、マイクスタンドを鷲掴みにしてシャウトする、みたいなのに寒気がしたものです。当時、黒人の持つ、どこかふざけた '笑い' というか、過剰なかっこ悪さが一周回って格好良いよなあ、という感覚を友だちに触れ回るも、いきなり巨大なアフロヘアーが出てくるだけで笑われておしまいなのだから、ひとり孤独に聴いていたという悲しい時代がありましたね・・。しかしPファンクに触れたとき、自分の中にあった 'ロック = ダサいもの' というこだわり自体もまた、ダサいんだよってことを教えられた。ファンカデリックの曲に 'Who Says A Funk Band Can't Play Rock ?!' ってのがあるんだけど、まさにその通りで、ロックンロールは黒人が作り出したものだけど、だからってわざわざルーツを主張なんかしないし、白人が気に入ってロックへと作り変えたのならば、それを再び黒人がやってみたって何らおかしな話じゃない・・イイもんはイイんだよっていう、青臭いけどそういう音楽のフリーダムな意識を彼らに叩き込まれた気がします。またこれは、黒人に対するステレオ・イメージを客観視させてくれる良い出会いであったことも述べておきたいですね。



ジョージ・クリントンをPファンクの '頭脳' とするなら、それを音楽的に再現する '肉体' として番頭格の如くこの集団を束ねていたのがバーニ・ウォーレルとウィリアム 'ブーツィ' コリンズの2人です。特にブーツィはジェイムズ・ブラウンの所からメイシオ・パーカーやフレッド・ウェズリー共々やってきた '移籍組' であり、より音楽的自由とソロの 'ラバー・バンド' 活動の一環として参加した 'ファンク・マスター' でもあります。しかし、ブーツィがPファンクの正式メンバーとなったことはなく、基本はアルバムでの楽曲プロデュース(後期は元オハイオ・プレイヤーズのウォルター 'ジュニー' モリソンが中心)のみで、ライヴではPファンクの前座として自らの 'ラバー・バンド' での活動が主でした。ブーツィが正式に参加しなかった理由のひとつとして、彼らがあまりにも 'クスリにどっぷり' で、その生活サイクルのまま全てにかかわっていたら身を滅ぼすことを危惧したからだそう・・。実際、当時の看板ギタリストであったエディ・ヘイゼルは薬物の不法所持で懲役刑を食らっております。ちなみに、ブーツィが初めてPファンクに参加したのはファンカデリックの4作目 'America Eats Its Young' から。





ファンカデリックを代表する狂おしき1曲 'Maggot Brain'。エディ・ヘイゼルの土壇場ともいうべきギターソロをフィーチュアしたナンバーですが、クスリでメタメタになったヘイゼルの後釜として加入した 'Kid Funkadelic' ことマイケル・ハンプトンが見事なソロで引き継ぎます!1980年以降のPファンク・オールスターズのステージでは、大抵この二人によるギターソロ合戦がひとつの見せ場となっておりましたね。そして、Pファンク全盛期のアース・ツアーのステージなんですが、そう、いつかはマザーシップが迎えにきてくれることを信じたいという、ゲットーで新たな価値観と共に生きた1970年代の黒人像を代弁する存在、それこそPファンクであり '黒い牧師' としてのジョージ・クリントンでした。このまがまがしい祝祭性、演劇的で強烈な皮肉が路地裏のゲットーと宇宙を一直線に結び付けます!彼らのライヴはカラフルな意匠が持ち味なだけにモノクロなのは残念なんですが、カラーのヤツは毎度の視聴制限(涙)。



'Maggot Brain' や 'Cosmic Slop' と並ぶハード・ロック・ナンハー 'Red Hot Mama'。ここではマイケル・ハンプトンと並ぶ後期ファンカデリックの要、ドウェイン 'ブラックバード' マクナイトが引っ張ります!ブラックバードはこの後、1980年代のマイルス・デイビスのバンドにも一時在籍しましたね。そんな彼らも1981年の最終作 'The Electric Spanking of War Babies' から33年、2014年に全33曲からなる3枚組 'First Ya Gotta Shake The Gate' をリリースしました。ジャケットもこれまたファンカデリックではお馴染み、ペドロ・ベルの 'サインペン・アート' によるコミカルなイラストで裏切りませんねえ。



Pファンク後期には交流のあったスライ・ストーンが4曲参加したり、制作当時、すでに故人であるエディ・ヘイゼルやゲイリー・シャイダー、ロバート 'Pナット' ジョンソンのクレジットがあるなど、素材となった音源は多岐にわたるものの、ヒップ・ホップやネオ・ソウル、ジャジーなものからデスメタル!までの幅広さを持って、現在のR&Bシーンに流れる '遺伝子' の強さを見せつけます。かなり '今風' にブラッシュアップしておりますが、う〜ん、このヘロヘロした 'Pファンク節' が流れてくるとオールド・ファンなわたしなどは歓喜の涙を流しますヨ、ホントに。ああ、そういえばバーニー・ウォーレルも 'マザーシップ' に乗って宇宙へと旅立っていかれました・・。



すでに70歳も超えた御大ジョージ・クリントンは、あのフライング・ロータスのレーベルであるBrainfeederから新作を準備しているというから嬉しい話。1978年、'グルーヴの名の下に世界を統一する' とぶち上げて当時のディスコ・ブームに乗ってヒットさせた、彼らの代表曲 'One Nation Under A Groove'。まだまだPファンクの神話は終わりません。


1 件のコメント:

  1. George Clingtonが初来日した時、もう2度と来ないと思い。MZA有明の4日間公演をすべて観に行ったの覚えています。曲目はほとんど変更はなかったですが演奏時間が短いときで2時間30長いときで3時間30やってました。凄かったです。

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