2020年6月2日火曜日

ピート・コージーという男 (増補版)

1970年代の 'エレクトリック・マイルス' 活動時期、ひとり強烈な異彩を放っていたのがシカゴ出身のギタリスト、ピート・コージーでしょう。ある意味、この人の印象はこのわずか3年ほどの活動がすべてであり、そういう意味では非常に謎めいた存在でもありますね。あのジミ・ヘンドリクスがメジャーデビュー前に追っかけをしていたとか、晩年は、母親の元でほとんどニート的生活をしていたとか、別れた奥さんとの子供に対する養育権不履行で米国から出国できなかったとか、いろいろな憶測が飛び交っておりますが・・う〜ん。





コージーの活動として比較的よく知られているところでは、1968年にブルーズの巨匠、マディ・ウォーターズがヘンドリクス流サイケデリック・ロックにアプローチした 'Electric Mud' へフィル・アップチャーチと共に参加したことです。ある意味、この2人に 'ジミヘン役' をやらせていたとも言えますね。



マーティン・スコセッシ製作総指揮によるブルーズ・ムーヴィー 'Godfathers and Sons' は、そんなシカゴの名門レーベル 'Chess' の栄枯盛衰と現在のヒップ・ホップへと続くストリートの空気をぶつけた異色作。ヒップ・ホップ側からはコモンとパブリック・エネミーのチャックDが参加しますが、白眉は1968年の 'Electric Mud' 再会セッション。すっかり真っ白くなった髪とヒゲをたくわえて 'グル' な雰囲気のピート・コージーも渋い存在感を醸し出します。ちなみに 'Electric Mud' と同時期、マディ・ウォーターズのみならずハウリン・ウルフもCadetでサイケデリックなギターをフィーチュアした一枚 'This is Howlin' Wolf's New Album' を製作。そちらにもコージーはレーベルの 'お雇いギタリスト' として参加しておりました。

さて、コージー&アップチャーチのコンビは 'Chess' のみならずシカゴのジャズ系レーベル 'Argo / Cadet' にも関わり、1970年代にフュージョン界のスターとなるサックス奏者、ジョン・クレマーのデビュー作 'Blowin' Gold' にも参加します。1969年らしくクレマーも全編で 'アンプリファイ' したサックスによるグルービーなブーガルー、ジミ・ヘンドリクスの名演でお馴染み 'Third Stone from The Sun' を披露。また本作にはモーリス・ジェニングスなるドラマーも参加、そう、後のアース・ウィンド&ファイアのモーリス・ホワイトその人なのです。コージーとはこの後のザ・ファラオズでも一緒に連むこととなりますが、そのルーツ的グループなのが、サン・ラ&アーケストラの一員であったフィリップ・コーランが率いて1967年に自主制作した 'Philip Cohran & The Artistic Heritage Ensemble' です。






Philip Cohran & The Artistic Heritage Ensemble
The Awakening / The Pharaohs

彼らは 'アンプリファイ' した電気カリンバなどを用いて、時に前衛的なパフォーマンスを行うサン・ラ&アーケストラに対し、よりブルーズやR&Bなどの大衆的なゲットーの感覚でもって地元シカゴを根城に活動します。そこでアンダーグラウンドに活動していたピート・コージーが、1973年にマイルス・デイビスのグループへ加入するきっかけについて当時の 'スイングジャーナル' 誌のインタビューでこう述べております。

"あれは4月の土曜の午後だった。仕事もないし、オレはベッドで横になっていたんだ。そこに仲間のムトゥーメから電話があって、突然「どうだい、マイルス・デイビスがギターでソロの弾ける男はいないかって探しているんだがやるかい」っていうんだ。オレはベッドから落っこちそうになってしまったよ。もちろん、嬉しい話だからOKしたさ。オレはシカゴのAACM(創造的音楽のための地位向上協会)のメンバーなんだ。ほら、これが会員証だよ。シカゴでの活動かい?うん、オレは 'フェローズ' (注・ザ・ファラオズのことだと思われる)って12人編成のバンド(インタビュアーの注・私は1969年にこのバンドをシカゴで聴いたことがあり、それはサン・ラの影響を感じさせるバンドであった)を率いている。以前 'フェローズ' は、フィリップ・コーランがリーダーだったし、今でも彼とは仲間同士だけど、フィリップが独立したんでオレが引き継いだってわけだ。最近、レコードを出したんだけどなあ(注・1971年の 'The Awakening' のことだと思われる)。日本には入っていないだろうな。そのほか、オレは今でもそうだけどテナー・サックスのジーン・アモンズのレギュラー・メンバーなんだ。だから、マイルスのバンドが休みになれば、オレはまたシカゴに戻るつもりだよ。生まれかい?うん、オレはシカゴ生まれのアリゾナ育ち。1943年10月9日に生まれ、12歳のときにアリゾナに移住。10年間、そこにいたんだが1965年にシカゴへ戻って、そのままジャズの世界に入ったんだ。今の心境かい?うん、とてもラッキーだと感じているのさ。"

そんなピート・コージーに対するデイビスの思いも相当 '買っていた' ことが、以下の1975年来日時のインタビューからも分かります。

"ピート・コージーは大変に長い経験を積んだミュージシャンだ。亡くなったジミ・ヘンドリクスなんかは、昔はよくこのピートの後を追っかけていたんだ。彼の音楽的才能 - 音を選んだり、何をするかを考え出す才能 - はまぎれもなく素晴らしいものだ。オレはピートの才能を信じ切っている。だから、オレは彼が何かをしようと考え、何をするべきかを選択するとき疑問をはさまない。つまり、完全な自由を与えているわけだ。東京での2日目のコンサートの終わりでやったのはエレクトロニック・ミュージックだ。シュトゥックハウゼンがやっているようなものと同じだよ。"

そしてもうひとつは近年のもの、ワシントンDC在住の音楽ジャーナリスト、トム・テレルが2007年に行ったインタビュー記事からどーぞ。

"わたしはいつもマイルスを崇拝していた。わたしはマイルスを一番ヒップな道しるべのようなものだと思っていた。マイルスの新作が出る度にいつも、いつも必ず新しい方向性があった(笑)。わたしがプレイしたいと思った男はジョン・コルトレーンだ。彼のスプリチュアルなレベルの高さ、そうしたもの、全てを感じていたからだ。わたしはマイルスのスピリチュアル・レベルや、彼に関するその他のことがどれほどのものかはわからない。彼がクールとヒップの本質だということ以上のことはわからない。"

- なぜマイルスはあなたにバンドに入るよう連絡してきたと思いますか?

"そうだな、いくつかの出来事が重なったためだと思う。わたしはあの頃ジーン・アモンズとやっていた。マイルスがちょうど事故をやった年に(ニューヨークのウェストサイド・ハイウェイでランボルギーニを橋台に衝突させた事故)、ニューヨークでプレイしていた。事故の前の夜、わたしはアン・アーバー・ジャズ&ブルーズ・フェスティヴァルに行った。フレディ・キングがプレイして、その後にマイルスがプレイした。わたしはマイケル・ヘンダーソンに1、2年前に会っていた。フェニックス出身の友達のドラマーがモータウンでマイケルとプレイしていた。彼がわたし達を紹介してくれた。まあ、いずれにせよ、とてもおかしくてね。マイルスが車から降りてきたとき、彼のトランペット・ケースが開いてしまって、彼のホーンが地面に落ちそうになった。わたしはフットボール・プレイヤーのように、それを地面すれすれで拾い上げたんだ。で、彼に言ったんだよ。「おい、あんたの大事なものを落とすなよ!」。彼はわたしを見て、それをすぐに掴んで、ニヤッと笑ってウインクした。それからホーンをケースにしまい、ステージに上がり一撃をかました!バンドは本当に凄かった!10人か11人編成のバンドだった。レジーがギター、バラクリシュナがエレクトリック・シタール、バダル・ロイがタブラ、セドリック。ローソンがキーボード、サックスが確かカルロス・ガーネット、ムトゥーメがパーカッション、ベースのマイケル、アル・フォスターのドラムス、そしてマイルスがバンドを仕切っていた。"

"アン・アーバーの翌日、わたしたちのグループがマイケルの楽屋に集まった。レジー、ムトゥーメ、マイケル、それから通りの向かいのフルート奏者がいた。そこで皆でジャム・セッションをした。それから秋になって、わたしはジーン・アモンズのグループに参加し、最初のギグがハーレムであった。次のギグは2週間後にニューヨークのキー・クラブだった。わたしはムトゥーメに電話して「君がわたしのことを覚えているかどうかわからないけど」と言うと、彼は「もちろん、君のことは覚えているよ!」と言ってしばらく話をし、彼をキー・クラブに招待したんだ。そこで彼はわたしの本当のプレイを聴いたわけだ。彼から次に連絡があったのが、翌年の4月だったと思う。土曜の夜だった。モハメッド・アリがケン・ノートンに顎を砕かれ負けた夜だ(この試合は1973年3月31日土曜日に行われた)。その日シカゴで電話をもらった。電話はカナダからだった。ムトゥーメとバンドのマネージャーが電話で、わたしに彼らのバンドに参加できないかと誘ってきた。わたしは言った。「いやあ、とても嬉しいよ。でも今のバンドでハッピーなんだ。このグループを辞めようとは思っていないんだ。こうしよう。何人かわたしのところで勉強している連中がいる。ひとり選んで君の元に行かせよう」。すると彼は言ったんだ。「いやいや、彼は君に来て欲しいんだ」。そこまで言われたら断れないだろう?(笑)。次の夜、彼らとアルバータ州カルガリーで落ち合う手はずを整えてくれた。わたしは朝早くのフライトに乗るはずだったが、支払いに手間取ってそれに乗り損ねた。そこで次の場所、オレゴン州ポートランドで彼らを捕まえることにした。月曜だった。そして火曜の夜にギグをやってた。"

- そのバンドでリハーサルをする時間はありましたか?

"ハハハ!その話を知らないのか?OK、マイルスのホテル・ルームで、彼はその前の夜のパフォーマンスのテープをかけ始める。それをわたしは何小節か聴いて彼に尋ねる。「このキーは何ですか?」。彼は「Eフラットだ」と答える。わかった、次の曲に行こう。すると彼はわたしを睨む、わかるだろ(笑)。それを何度も何度も繰り返すんだ。そして、4分の5拍子の曲が出てくるとわたしは言う。「あなたは(4分の)5拍子の曲をやってるんですね」。彼はわたしを見てニヤリとする。部屋で座ってずっとそれをやるんだ。"

- ということは、マイルスはなぜあなたをバンドに入れたかったかその理由は言ってないんですね?

"そんな必要はなかったね。わたしがバンドにいる間、全部の期間で2、3回音楽的方向性を示しただけだ。最初のことは、その夜プレイするために準備しているときだった。わたしはテーブルをセットし、ペダルをドラムスの横にセットしようとしていた。わたしはいつもドラムスとベースのそばでプレイするのが好きだったからね。すると彼はわたしに前へ出るように言った。彼はわたしをステージの一番前に出したがった。あと2つのことは、まず、もっと黒人っぽく見えるようにしたがった(笑)。それから音楽的方向性でもう一点彼が言ったことは、自然に予期せぬものを出せ、ということだった。だからわたしはそうした。それから何年か後、彼はわたしにリハーサルをして欲しくないと言った。なぜなら、わたしが次に何をプレイするかわかってしまうからだ。彼にはギターでちょっとしたアイデアがあることが後でわかった。彼は自宅にジミ・ヘンドリクスを住まわせていたんだ。ジミが亡くなる前ね。彼はギターの力が音楽をある高いレベルに持ち上げることができるとわかっていた。彼はそれまでバンドにいたギタリストとではそれができなかった。わたしが思うに、ムトゥーメ、マイケル、レジーといった連中がわたしのことを高く評価して、そのことをマイルスに話してたんだろうね。"

- 振り返ってみて、あなたはこのバンドに何をもたらしたと思いますか?

"彼が求めていたことは明らかだ。バンドを拡張したいということだった。わたしのプレイの経験からミュージシャンは、他のミュージシャンに周辺のミュージシャンを、またそのミュージシャンの内側に影響を与え、より高いレベルに引き上げることができるものだ。そしてマイルスは間違いなくそんな人種のひとりだ。彼はいつも同じような資質を持ったミュージシャンを探していた。ジョン・コルトレーン、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、そうした名前と並ぶ連中なら誰でも、それぞれの繊細さによってそれぞれをより高みに持っていける。彼はわたしの中にもその資質を見出したんだと思う。だからバンドは前進、進化したんだろう。バンドの進化を見るとき、1973年の最初のプレイとプレイを止めた1975年の演奏を見れば明らかだ。彼の作品は百万光年の差があるよ。"

- 最後の質問です。あなたにとってマイルス・デイビスとは?

"おおっ、どこから始めようか?どれほど素晴らしい人間か。何と素晴らしい教師か。彼は自身の周りにどのような要素を置けばいいか誰よりもよくわかっていた。本当だ。彼は知性、育ちという点で完璧な男だった。知的な両親、家族、そして経験。経験は美徳だ。マイルスはあらゆることを経験していた。彼の周りにいれば、そして知性を持っていれば、必ず何かを学べるだろう。バンド演奏以外の時間で過ごした時間は、時の流れとともにただ素晴らしく報われるひと時だった。"








Morris Mando Mania
Forgotten Heros: Pete Cosey

現在ではブートレグなどで比較的良好な画質の '放送用動画' がお手軽にYoutubeでチェックすることが出来るのですが、なかなかピート・コージーの '足元' をはっきりと写してくれるものはありません。使用するギターはFenderのStratocasterやTerecaster、ピグスビーアーム付きのGibson Les Pallなど一般的ではありますが、1973年のオーストリアはウィーン公演の動画を見るとVoxのPhantom Ⅻという12弦ギターによるビザールなセレクトが泣かせます。また、この時期のコージーのトレードマーク的存在なのがこちら、日本のモリダイラ楽器のブランドMorrisが少量製作した透明アクリルのピックガード付き木目調のセミアコ、Morris Mando Mania。現在ではEastwood Guitarsという工房からピート・コージーのイメージに当て込んで '復刻' していたようです。



Yamaha PE-200A
Yamaha PE-200A + TS-110
Yamaha PE-200A + TS-100

その巨漢を上回る後ろに控えたスタックアンプは同年の東京公演以降、Yamahaのエンドースによって用意されたPE-200AとTS110の組み合わせ。これはコージーやレジー・ルーカス始め管楽器群のデイビスやデイヴ・リーブマン、ソニー・フォーチュンに至るまで皆このクリーンなアンプでの音作りに終始します。さて、そんなコージーの機材で最も見えにくいのがテーブルの上と下に置かれているエフェクターでして、基本的にコージーの歪みはアンプではなくエフェクターによって音作りされているようです。ちなみにこのPE-200Aは、一般的なBass、Middle、Trebleの3バンドEQとスプリング・リヴァーブのほか、内蔵のトレモロとエンヴェロープ・フィルター!をそれぞれ切り替えてエクスプレッション・ペダルでコントロール出来るというユニークな仕様。








"初演を待つ東京・新宿厚生年金ホールの舞台では、午後、一番にやってきたロード・マネージャーのクリス・マーフィーが、バンドのサウンド・システムをひとつひとつたん念にチェックしている。なにしろ、7人のミュージシャンたちが演奏に使用するペダル類のアンプへの接続だけでもひと仕事だ。マイルスがトランペットに接続しているペダルは、オハイオ州トレドにあるパワー・インダストリーズ社製の「De Armond」とキング製「Vox-Wah」というワーワー・ペダルの2種。マイルスは今回、マーティンの新しいトランペット(ブルーのメタリック塗装がほどこしてある)を持参したが、マウスピースはGiarnelli Specialと刻印のある古いもの。これは、マイルスが12才(!)のときから使ってきた愛器。このマウス・ピースに無造作にガムテープでピックアップ・マイクがくっつけてあった。ヤマハ・オルガンには、パワー・ペダルとCry Bofyというペダルがついている。ソニー・フォーチュンが使っているペダルは「De Armond」。レジー・ルーカスはモーレイ社製の「Sho-Bud」というペダル。ムトゥーメは「Univox」というリズムボックスにMu-Tron Ⅲという変調器を接続している。ピート・コージーはマエストロ社製のFuzz-Tron、それにPhase 90という変調器、さらにSynthiというアタッシュ・ケースの形をした小型シンセサイザーを用い、テーブルの下に3台のペダルを用意している。ベースのマイケル・ヘンダーソンはマエストロ社製のPhase Shifterを用いている。"

まあ、ジャズ専門誌なのでいくつか表記の怪しいものもあるのですが(苦笑)、上の記述は当時の 'スイングジャーナル' 誌による1975年の来日公演からのもの。ここでの関心事であるピート・コージーのセッティングはMaestro Fuzz Tone、MXR Phase 90、ワウペダル含めた3台のペダルを足下に置いているのですが、'Fuzztron' などと表記が混交しているもののMusitronicsのエンヴェロープ・フィルター、Mu-Tron Ⅲも置いてあるのは確実ですね。シカゴ出身のコージーがMaestro製品を製作していたC.M.I. (Chicago Musical Instruments)ということから選ぶのは自然のことですが、ここで問題はFuzz ToneでもFZ-1BとFZ-1Sのどちらだったのか?ということ。しかし、なんと1975年のステージ写真を捉えた一枚から後述するEMS Synthi Aと並びFZ-1Aを愛用していたとは!。ま、これも単三電池2本使用のFZ-1と9V電池使用のFZ-1Aのどちらなのか?という疑問はあるのですが(汗)、とりあえずFZ-1Aということにしておきましょうか(笑)。そしてリンク先の 'Forgotten Heros: Pete Cosey' によれば、Jordan ElectronicsのBoss Toneというアタッチメント的なファズも使用していたとのこと。Phase 90は現在でもフェイザーの名機として定番のMXR製であり、時期的にはいわゆるスクリプト・ロゴの軽いBud筐体の入った初期のものだと思います。当時のステージ写真を見るとPhase 90は足元ではなく机の上に置いて手でOn/Offして使用していたようですね。












Musitronics Mu-Tron Ⅲ
Vox Clyde McCoy Wah Wah Pedal
Morley Tel-Ray Pedals (Pre-1983)
Halifax Fuzz Wah Z2
Halifax Fuzz Wah Z
Hofner Fuzz Wah Z

さあ、ここまでくると肝心のワウペダルが気になりますが、エンヴェロープ・フィルターの名機であるMu-Tron Ⅲ以外では'Forgotten Heros: Pete Cosey' の記事によればコージーのワウについてこう記されております。

"He Sat behind the table and put his effects - two wahs (a Morley for warm tones, a Halifax for solos, and Sometimes a Vox Clyde McCoy)"

なるほど、コージーは足元に2つのワウを置いていたようで、一つがMorleyの暖かなトーンを持つワウ、そしてワウペダルの名機、Vox Clyde McCoyをたまにスイッチして使っていたそうですけど、彼のリードトーンを司るのがドイツのHalifaxからのマニアックなファズワウ・ペダルだったとは!上記の 'スイングジャーナル' 誌から抜粋したステージ写真で確かにそのHalifaxのペダルを踏んでおりますね。このHalifaxはOEMとして 'Hofner' ブランドでも製造していたようですが、これは同じドイツ産Schallerのファズワウ・ペダル同様プラスティック製筐体なのかな?。何よりファズのスイッチが筐体横にそのまま '横向き' で付いている乱暴さが面白い。





さて、全盛期の巨大なアフロヘアーとその巨漢ぶりに比べれば、晩年の彼は若干 '縮んだ' ように見えます。とにかく 'エレクトリック・マイルス' 期のプレイの印象が強く、エレクトリック・ギターはもちろん、各種パーカッション、そして1975年の来日時には執拗なデイビスの指示にキレてしまったアル・フォスターに変わりドラムを叩くなど、そのマルチ・プレイヤーぶりもアピールしました。 しかし、ピート・コージーの最もユニークなアイテムとして、1975年の来日時に持ち込んだアタッシュケース型のポータブル・シンセサイザーがあります。





1971年に英国のEMSが開発したSynthi A。まだまだモノフォニックのアナログ・シンセ黎明期、記憶媒体のない本機をSonyのカセット・レコーダー 'Densuke' と共に用いることで、実に前衛的な 'ライヴ・エレクトロニクス' の効果を生み出しておりました。1975年の 'スイングジャーナル' 誌でもこう取り上げられております。

"果たせるかな、マイルスの日本公演に関しては「さすがにスゴい!」から「ウム、どうもあの電化サウンドはわからん」まで賛否両論、巷のファンのうるさいこと。いや、今回のマイルス公演に関しては、評論家の間でも意見はどうやら真っ二つに割れた感じ。ところで今回、マイルス・デイビス七重奏団が日本公演で駆使したアンプ、スピーカー、各楽器の総重量はなんと12トン(前回公演時はわずかに4トン!)。主催者側の読売新聞社が楽器類の運搬に一番苦労したというのも頷ける話だ。その巨大な音響装置から今回送り出されたエレクトリック・サウンドの中でファン、関係者をギョッとさせたのが、ギターのピート・コージーが秘密兵器として持参した 'Synthi' と呼ばれるポータブル・シンセサイザーの威力。ピートはロンドン製だと語っていたが、アタッシュケースほどのこの 'Synthi' は、オルガン的サウンドからフルートやサックスなど各種楽器に近い音を出すほか、ステージ両サイドの花道に設置された計8個の巨大なスピーカーから出る音を、左右チャンネルの使い分けで位相を移動させることができ、聴き手を右往左往させたのも実はこの 'Synthi' の威力だったわけ。ちなみにピートは、ワウワウ3台、変調器(注・フェイザーのMXR Phase 90のこと)、ファズトーン(注・Maestro Fuzz Toneのこと)などを隠し持ってギターと共にそれらを駆使していたわけである。"


そして、このシンセサイザーについては世界で誰よりも知り尽くしている男、ブライアン・イーノのお言葉を拝聴しなければなりません。'アンビエント' を提唱し、常に音響設計とその作用、インターフェイスについてポップ・ミュージックの分野で研究してきた者の着眼点は音楽を聴く上での良い刺激をもたらしてくれます。しかしEMSの簡便なアプローチを賞賛しながら、一方では超難度なFM音源を持つ日本の名機、Yamaha DX-7のオペレートにも精通しているのがイーノらしい(笑)。

- 今でもEMSを使っていますか?

E - 使っている。これにしかできないことがあるんでね。よくやるのは曲の中でダダダダダといったパルスを発生させたいとき、マイクを使って楽器の音をこのリング・モジュレーターに入れるんだ。それから・・(ジョイスティックを操作しながら)こうやって話すこともできるんだよ。

- プロデュースやセッションをする際にはいつもEMSを持ち込んでいるのでしょうか?

E - (「YES」とシンセで答えている)

- 最後までそれだと困るのですが・・。

E - (まだやっている)・・(笑)。でも本当に重宝な機械だよ。フィルターもリング・モジュレーターも素晴らしく、他の楽器を入れるのに役立つ。

- 大抵エフェクターとして使うのですか?

E - これはノイズを発生させるための機械、あるいは新しい音楽のための楽器なんだ。これをキーボードのように弾こうと思わない方がいい。でも、これまではできなかったものすごくエキサイティングで新しいことがたくさんできる。

- どこが他のシンセサイザーと違うのでしょう?

E - ほかのシンセサイザーでは失われてしまった設計原理が生きているからだ。原理は3つある。第1の原理は、これがノンリニアであるということ。現代のシンセサイザーは、すべて既に内蔵されたロジックがあって、大抵はオシレータ→フィルター→エンヴェロープといった順序になっている。だが、EMSだとオシレータからフィルターへ行って、フィルターがLFOをコントロールし、LFOがエンヴェロープをコントロールし、エンヴェロープがオシレータをコントロールするといったことができるんだ。とても複雑なループを作ることができるので、複雑な音を出すことができるんだよ。現実の世界というのもまさにそうやって音が生み出されている。決まった順序によってのみ物事が起こるわけではなく、とても複雑なフィードバックや相互作用があるんだ。

第2の原理はやっていることが目に見えるということ。シンセサイザーのデザインを台無しにしてしまったのは日本人だ。素晴らしいシンセサイザーは作ったが、インターフェイスの面ではまるで悪夢だよ。ボタンを押しながら15回もスクロールしてやっと求めるパラメータに行きつくなんてね。それに比べるとEMSは使いやすい。パフォーマンスをしている最中にもいろんなことができるから、即座に違った感じの音楽が出来上がるんだ。ボディ・ランゲージが音楽に影響を及ぼすんだよ。ボディ・ランゲージがあまりないと、窮屈で細かくて正確で退屈な音楽しか生まれないし、豊かだとクレイジーな音楽が生まれるんだ。

第3の原理は、これにはスピーカーを含めてすべてが組み込まれているので他のものを接続する必要がないということ。私がいかに早くこれをセットアップしたか見ただろう?もしもこれが現代のシンセサイザーだったら、まずケーブルを探して、オーディオセットの裏側に回って配線しないといけない。あれこれグチャグチャやってるうちに、恐らく私は出て行ってしまうだろうね。私はもう歳だから気が短いんだよ。







こちらはピート・コージーによるEMS。実際この '右往左往ぶり' は、1996年にリマスタリングされた 'Agharta' 完全版の二枚目最後のところ(オリジナル版では割愛されていた部分)で存分に堪能することができます。また1974年の 'Get Up With It' に収録された 'Maiysha' では、ギターを本機の外部入力から通し、Synthi内臓のLFOとスプリング・リヴァーブをかけた奇妙なトレモロの効果を聴くことができますね。そして 'エレクトリック・マイルス' と言えばコージーとレジー・ルーカスによる '2ギター' の鉄壁な絡み合い。かなりブルージーに攻めるコージーにも驚きますが、ファンク・カッティングにおいてはイマイチ聴き取りにくかったレジー・ルーカスを堪能出来る1973年11月7日の旧ユーゴスラヴィア、ベオグラード公演の音源をどーぞ。









ここでもうひとり。ほとんど '飛び入り' の如くステージに上がりマイルス・デイビス・グループの '公開オーディション' を受けて1年弱、バンド・アンサンブルの拡大に貢献?した若干18歳のフレンチ・ブラジリアン、ドミニク・ゴモン。その彼の記録である1974年3月30日、ニューヨークはクラシックの殿堂 'カーネギー・ホール' でのライヴを収めた 'Dark Magus' は、ゴモンとピート・コージー、レジー・ルーカスの '3ギター' によるほとんど獰猛なピラニアが獲物に喰らい付くようなカオス状態に終始しているのですが、その他、ブートレグでは5月28日のブラジル、サンパウロ公演のものが比較的良好な音源で聴くことが可能。こうやってゴモン単体での音源、動画などを見ると結構タイトかつファンキーなギタリストであることが分かります。ファンカデリックから80年代のマイルス・デイビス・グループを経験したドウェイン 'ブラックバード' マクナイトと似た匂いも感じるなあ。裏を返せばピート・コージーのようなフリーキーの要素は薄いのだけど、多分、デイビスの意図はコージーに足りなかった '妖艶さ' を体得すべくゴモンを 'カンフル剤' として起用したんじゃないかな、と思うのです。もちろん、その効果は翌年の 'アガパン' を聴けば納得して頂けるのではないでしょうか。



そして '本家' と言うべきかご存知ジミ・ヘンドリクス。彼の 'インプロヴァイザー' としての側面を捉えた一枚、'Message from Nine To The Universe' を聴く。コレ、元々は1980年にRepriseからアラン・ダグラスのプロデュースでリリースされたもので、その後、本盤は '未CD化' ということもあり永らくマニア垂涎の一枚と珍重されてきたものでした。それが2007年に突然、Reciamationなるレーベルにより5曲のボーナストラックを追加して初CD化。ようやく市場に流通したと思いきや、ジミ・ヘンドリクスの遺族たちが音源の権利に対する管理を強くしたことで、またもやこの 'ブートまがい' は公式盤から廃盤の憂き目に遭い、現在に至っております。ちなみにこの 'Nine To The Universe' は、あの 'Woodstock' のステージのオープニングを飾るいかにもヒッピー世代に向けた 'Anthem' と呼ぶに相応しい一曲です。本盤の参加クレジットは以下の通りなのですが、これも1980年の初リリース時に比べて決して正確なものではないそうです・・。

Jimi Hendrix - Guitar / Vocal
Billy Cox - Bass
Dave Holland - Bass (Tracks 2,4,6,7)
Buddy Miles - Drums (Tracks 1,2,8,9,10)
Mitch Mitchell - Drums (Tracks 3,4,5,6,7)
Jim McCarty - Guitar (Track 5)
Larry Young - Organ (Tracks 3,4)
Larry Lee - Guitar (Track 10)
Juma Sultan - Percussion (Track 10)

ここには1969年に解散した 'Experience' 以降、ヘンドリクスが組織したコミューン的意識の強いジャム・セッション・バンド 'Gypsy & The Rainbows' から 'Band of Gypsys' に至るまで、特にアラン・ダグラスがプロデュースしていた時期の音源が中心となっております。本盤だけの特徴として、ダグラスの 'ツテ' で揃えられたジャズ・ミュージシャンたちとの出会いがあり、当時、マイルス・デイビスの 'Bitches Brew' に参加したデイヴ・ホランド、ラリー・ヤング、ジュマ・サルタン('Bitches Brew' 参加時の名はJim Riley)らがヘンドリクスのサウンドに新たな響きをもたらすという面白い展開。ちなみに同時期、どこかの 'クラブギグ' ではあのラーサーン・ローランド・カークやサム・リヴァースともジャムったそうで・・ああ、どこかの誰かが客席でオープン・リール・デッキなどを回していなかったかとため息が出るなあ。







本盤にはジム・マッカーシーとのジャム 'Jimi / Jimmy Jam' も収められておりますが、やはり気になるのはこの時期、同じく 'デイビス組' で名を馳せた英国人ギタリスト、ジョン・マクラフリンとのジャム・セッションも行っていたこと。そのヘンドリクスとマクラフリンのジャム・セッションが上記のブートレグ音源。うん、特別何かを作り上げようという意思もなく、とにかく畑の違うギタリストふたりが相乗効果的にジャムっているだけ、ではあるのですが、もし、この時期にヘンドリクスを引っ張り上げるような凄腕プロデューサーがいたのならば、その後の彼のキャリアはもっとずっと違うものになっていたかもしれません。アラン・ダグラスはヘンドリクスに違う世界の人たちとのコネクションは繋げたかもしれませんが、結局はただ、スタジオでジャムっているものを記録したテープをうず高く積み上げるだけで終わってしまいました。しかし、これは彼の責任ではなく、やはりギタリストとしてのスタンスを抜け出せなかったヘンドリクスの限界と、彼をスターダムに乗せて大金を稼いだ 'ロック・ビジネス' (を操ったマネージャーのマイク・ジェフリー、レコード会社など)の軋轢から自由になれなかったことに起因していると思われます。特に 'Experience' の成功体験を持つジェフリーにとって、ヘンドリクスがジャズを軸とした実験的スタンス、よりファンク/R&B色を強めることに向かうことは良しとせず、このGypsy & The RainbowsやBand of Gypsysは精々ヘンドリクスへの一時的 '休暇'、または以前のレコード会社と残っていた契約義務を果たすための妥協的産物でした。もちろん、この '休暇' からヘンドリクスが何がしかの成果を掴めれば良かったのですが、やはり、単なるジャムに終始してしまったところに1968年の傑作 'Electric Ladyland' 以降、彼が音楽面である壁にぶつかっていたことは間違いない。





そしてオリジナル盤 'Nine To The Universe' のラストを飾るのは鋭角的なリフとエフェクターの変化で攻め立てていく 'Drone Blues'。また一方、当時の 'ファンク革命' と触発されることにも積極的で、こちらもアラン・ダグラスのプロデュースでバディ・マイルス、ヒップ・ホップのルーツ的グループとして名高い 'ストリートの詩人' The Last Poetsのジャラールが 'Lightnin' Rod' の変名で制作した謎のシングル 'Dorriella du Fontaine'。ヘンドリクスはギターとベースのオーバーダブで参加。





ちなみにピート・コージーに象徴される 'ヘンドリクス・フォロワー' なギタリストといえば、同時期デトロイトを根城にブラックな 'ファンクロック' を基調として一大帝国を築いたPファンクが挙げられます。1950年代後半、床屋の理髪師をしながらドゥーワップR&Bのコーラス・グループ、ザ・パーラメンツを結成しメジャーを目指していた男、ジョージ・クリントン。そんな鳴かず飛ばずの苦しい彼らも1960年代後半には、まったく新しい '革命' に触れてそれまでの古臭いスタイルから脱却を図ります。特に強烈な '二大インフルエンス' となったのがジミ・ヘンドリクスとスライ&ザ・ファミリー・ストーン。黒人が当時の狭いR&Bの枠を抜け出して、ロックという新たな 'アンプリファイ' の世界の中でLSDの幻覚に塗れたのだから、これはジョージにとって完全にぶっ飛んだ経験だったのでしょう。さっそくコーラス・グループをアシストするバックバンドを組織するのですが、ここにきて以前からの契約問題が彼らの足を縛ります。ちょうど1967年に '(I Wanna) Testify' が全米R&Bチャート3位のヒットを飛ばしたこともあり、彼らを雇うレーベル側がその権利関係にうるさく口出してきたのです。そこでジョージは一計を案じ、まず彼らのバックバンドだけを別レーベルと契約してデビューさせることを画策します。





その中身はザ・パーラメンツ+バックバンドということで、彼らはそれまでの名前を捨て、新たにファンカデリックと名乗りました。まさに時代はジェイムズ・ブラウンやスライ・ストーンらファンク革命と、ヘンドリクスに代表されるサイケデリック・ロックを掛け合わせた造語として、このPファンクという集団のコンセプトを見事に定義します。ジョージはまた、前レーベルとの契約切れを待ってコーラス・グループ+バックバンド(要するにファンデリックと一緒)として新たに別レーベルと契約、パーラメントとしても再出発します。ちなみに彼らの 'クスリの分量' は半端ではなかったようで、スタジオは常に煙でモクモク、何かしら一発 'キメた' 状態で大量の楽曲を制作していたことは、上の動画にあるデビューアルバムを聴いて頂ければお分かり頂けるかと思います。彼らがユニークかつ新しい価値観を持った黒人たちなのは、ジミ・ヘンドリクスやスライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジェイムズ・ブラウンを聴きながら、同時にサイケデリック・ロックのヴァニラ・ファッジや、同じデトロイトで強烈なメッセージと共にアナーキーなパンク・ロックの元祖となったMC 5らと共にステージへ上がっていたことです。このグループからそんな新たな感覚を持ったギタリストとしてエディ・ヘイゼル、まだ10代にして 'キッド・ファンカデリック' の天才児として参加したマイケル・ハンプトン、ドウェイン 'ブラックバード' マクナイトは1980年代のマイルス・デイビス・グループにも参加しました。ちなみにキース・ジャレット在籍時のマイルス・デイビス・グループにおいて、脱退したジャック・ディジョネットの代わりにいわゆる 'ファンク畑' から次期ドラマーをデイビスが物色していたことがあります。数ある候補の中でほんの少しだけ 'シットイン' させてみたのがファンカデリックのドラマー、レイモン 'ティキ' フルウッド。結局、ジャレットの気分を削ぎたく?なかったのか(笑)、この頃は未だジャズの素養から抜けきれずハービー・ハンコックのグループにいた 'ウンドゥク' ことレオン・チャンクラーを起用しましたが、ここからPファンク人脈と繋がっていたら別の意味で面白かったかも。







そしてピート・コージーが影響されたもうひとつの部分、シカゴのAACMに象徴されるフリージャズの部分についても触れなければなりません。マイルス・デイビスのグループに参加した初期には、そんなフリージャズ の '怪人ギタリスト'としてソニー・シャーロックをかなり意識していたと思われます。彼をピックアップしたハービー・マン1969年の 'Memphis Underground' はまさにジャズ・ロック時代を象徴する大ヒット作であり、当時のグループのメンバー、スティーヴ・マーカス、ロイ・エアーズ、ソニー・シャーロックらはその片棒を担いでおりました。当時の 'ジャズ・ロック' 世代の人気者であったチャールズ・ロイドを意識したであろうマーカスは、マンのプロデュースでソロ作をAtlanticの傍系レーベルVortexから立て続けにリリースします。そこにはジャズ・ロックを象徴するギタリストとして 'Memphis Underground' にも参加したラリー・コリエルが参加、ギリギリガリガリとハードなギターを搔き鳴らしました。ロイ・エアーズも1968年にマンのプロデュースでAtlanticから 'Stoned Soul Picnic' をリリース。そのローラ・ニーロ作のカバーでは 'Memphis Underground' のプロトタイプともいうべきマン流ジャズ・ロックを展開、全体的にフォーキーなサイケデリック的色彩溢れるものとなりました。そして、当時のマンのグループでひとり気炎を吐く異色の怪人ギタリスト、ソニー・シャーロックがマンの持つポップ加減に強烈な毒気を盛り込みます。そんな独特な個性はマイルス・デイビスにも気に入られて1970年の 'Jack Johnson' のレコーディングにも呼ばれます。その後ツアーのメンバーとして招集されるもシャーロック自身は冗談と思ったのか空港に姿を表さずお流れに・・(笑)。すでに妻リンダとの 'Black Woman' やフランスのBYGで制作した 'Monkey Pockey Boo' でフリー・ジャズの極北を提示したふたりですが、マンのグループでは実に危ういバランスでポップとサイケデリック、モダン・ジャズの境界をグラグラと脅かす姿がたまらなかった。もちろん、その '寸止め' 感覚がかえってこの個性を際立たせているのであって、この夫妻にすべてを任せてしまったら全てが絶叫の嵐・・音量注意!。さらにもうひとり、オーネット・コールマンから 'ハーモロディクス' の薫陶を受けた変態ギタリスト、ジェイムズ 'ブラッド' ウルマーも推薦しときましょうか。そもそもコールマンが 'Prime Time' 結成に際して最初に声を掛けたのがコージーの '相方' であったレジー・ルーカス。結局はルーカスが同郷のジャマラディーン・タクーマを推薦することで加入することは無かったのですが、しかし、コールマンがバーン・ニックス&チャールズ・エラービーの '2ギター' を見つけられなければ、コージー&ルーカスの '2ギター' は 'Prime Time' として再出発していたかもしれませんねえ。





さて、突然にシーンの真ん中に放り込まれてその巨体と圧倒的なプレイで見る者を刺激して去って行ってしまった男、ピート・コージー。そんな自身のキャリアの最盛期である 'エレクトリック・マイルス' 期に対する総括として、彼はジョン・スウェッド著 'マイルス・デイビスの生涯' でこう述べております。

"それは人生そのものの音楽だった。つまり浄化であり、蘇生であり、堕落だった。とてつもなく知的でありながら、野卑でもあった。俺たちはある種の世界を作り出し、リスナーにいろんな経験をしてもらい客席との思考交換を目指したよ。"

こんなギタリスト、もう二度と出て来ない・・。

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