2019年5月3日金曜日

5月はドルフィーの季節

そういえばエリック・ドルフィーの未発表セッション3枚組ボックスセット 'Musical Prophet: The Expanded 1963 New York Studio Sessions' というのが発売されたようですね。1963年にアラン・ダグラスのプロデュースによりニューヨークで行われたもので、当初その一部を 'Conversations' としてリリースし、ドルフィーの死後、時代を跨いで 'Iron Man' や 'Other Aspects' などのタイトルで断片的に発表されてきましたが、この3枚組でさらに7時間半ほどの未発表テープが見つかったことから集大成的に纏められました。



Eric Dolphy Musical Prophet: The Expanded 1963 New York Studio Sessions

ドルフィーの人気盤として誉れ高いBlue Noteからの 'Out To Lounch' 録音の6日前とあって、そのモーダルにクールな色彩は格好よかったのだけど、やはりどこかフィットしないというか、エリック・ドルフィーって決して安住の地を見つけられない '越境者' として動き続ける運命だったんだろうなあ、と思うのうです。オーネット・コールマンやジョン・コルトレーンとの '共演' も心ここに在らずというか、ドルフィーが吹き始めるとそこは一面 'ドルフィーの世界' がただ開陳されるばかりで、決して 'コラボ' した相手と合一することがない・・。そういう意味では相対するようにスピーカーの 'L-R' からコールマン、ドルフィーそれぞれの演奏が同時に飛び出してくる 'Free Juzz' の意図ってそういうことなのかも。ここでかなり曲解した言い方をすればドルフィーって元祖 '宅録' の人だったんじゃないでしょうか。つまり、全てに彼のアルト・サックス、バス・クラリネット、フルートからなるマルチ・プレイヤー的奏法によって他者が入り込めない '完結した世界' を具現化する人だった。





ドルフィーのキャリアにおいて出発点ともいうべきドラマー、チコ・ハミルトンとの出会いは、その後の行く末を占う上で重要な出会いだったと言って良いでしょう。いわゆる 'ウェスト・コースト' で活動する黒人ジャズマンはバップの本拠地 'イースト・コースト' に比べて不当に低い扱いをされている気がするのですが、裏を返せば伝統的なブルーズの下地に囚われず独自のアプローチを開陳し、ハミルトンの 'Far East' 志向と室内楽的アプローチに結実します。そして個人的にドルフィーの傑作である 'Out There'。ロン・カーターの無粋に '頓珍漢な' (笑)チェロもここではドルフィーの不条理な世界を盛り上げるスパイスとして奇妙に作用し、ほぼ彼の 'ワンホーン' 作品としてダリの絵画の如く捻れた世界を描き上げます。









チコ・ハミルトンに続き重要な出会いとなったのが、ドルフィーの世界観と最も親和性の高かったチャールズ・ミンガス。ドルフィーってそのキャリアの始めからずーっと自身のバンドに恵まれなかった人だったと思うのだけど、それはオーネット・コールマンやセロニアス・モンク、マイルス・デイビスのようにバンドで自らの音楽を構築していくタイプではなく、すでにドルフィーの身体がそのまま各種木管と一体となった時に現れる '異物なアンサンブル' として完結していた。そんな '居場所' を放浪するドルフィーの音楽性と親和性を保っていたのがチャールズ・ミンガスのグループ在籍時であり、そこにはエレクトロニカに共通する '顕微鏡のオーケストラ' ともいうべき微細な破片を拾い集めるような静寂と統率力を垣間見るんですよね。つまり、ミンガスの指揮がドルフィーを自由に羽ばたかせる為の '土台' として絶妙に機能しているのです。







ドルフィーの '課外活動' の中でユニークな位置付けをされているのがこちら、ラテン・ジャズ・クインテットとの '共演' でしょう。ゴリゴリの 'フリージャズ' 一派のように目されていたドルフィーにとってこの意外過ぎる 'バイト' は、そのままモダン・ジャズの '解説本' ではまず間違いなく取り上げられることのないもの。ま、確かに 'ミスマッチ' なんだけど(笑)、実はこの後に 'インド的' な第三世界のリズムへとアプローチする端緒として、この苦み走ったドルフィーの '馬の嘶き' 的ソロが軽やかなラテン・リズムとの出会いは興味深いですね。ちなみにこのザ・ラテン・ジャズ・クインテット(LJQ)、なかなかに謎で 'いわく付き' のバンドのようで、パーカッションのジュアン・アマルベルトをリーダーにPrestigeからオルガンのシャーリー・スコットとの 'コラボ' でデビューします。しかし、その直後にグループ内で '内紛' が起こりヴァイブ奏者のフィル・ディアズが脱退、新たに同名バンド!を結成して大手UAから再デビューするというからややこしい。そこで起用されたのがドルフィーなのですが、実はディアズ脱退後の '本家LJQ' はPrestigeからリリースした 'Caribe' ですでにドルフィーと共演しているんですよね。つまり、脱退したディアズが当て付け?的にUAからの再デビュー盤でも起用したということから、この 'ケンカ別れ' した2つのバンドを掛け持ちしたドルフィーの心境たるやいかばかりか(苦笑)。この一連の顛末、1960年の7月から9月にかけてのおよそ3ヶ月間の出来事だったのだから濃いよなあ。結局、ディアズの '分家LJQ' はこのUA盤一枚のみで終わり、その後はラテン・グループ、ジョー・クーバ・セクステットに加入してクーバ後期のサウンドを担う存在として活躍します。



一方のアマルベルト率いる '本家LJQ' はPrestigeからその傍系レーベルのTru-Soundへ移り、最終的にはヴァイブの代わりにファラオ・サンダースをゲストに迎えた作品 'Oh ! Pharoah Speak' をマイナー・レーベルTripに残すという不思議な終わり方を迎えます。







そんな孤高なドルフィーの志はフランク・ザッパの 'The Eric Dolphy Memorial Barbecue' はもちろん、ミンガスのグループで共演したテッド・カーソンによりドルフィー客死のわずか1ヶ月後、真夏の1964年8月1日に捧げられた '葬送曲' に至るまで、時代を超えて厳かに '真夏の狂気' を体現します。ちなみにこの 'ドルフィーの涙' は、ピエロ・パゾリーニ監督の映画「テオラマ」やヴィンセント・ギャロ監督・主演の映画「ブラウン・バニー」でそれぞれテーマ曲として使われているんですよね。ドルフィーに対するオマージュ曲ではありますけど、映像に携わる者にとってインスパイアされやすい '何か' があるんでしょうか?あ、そうそう、そういえばマイルス・デイビスはエリック・ドルフィーの音が大嫌いだったな。誰かの足を踏んづけたような・・と揶揄していたデイビスに対し、ジョージ・コールマンを気に入らなかったトニー・ウィリアムズご推薦の '後釜' がドルフィーだった、らしい。しかし、そんなヤツを入れるならと一時的に自身のグループへ加入させたのがフリーに足を突っ込んだトレーン・スタイルのサム・リヴァースだったのだから、同じ '水と油' でもデイビスはコルトレーンから離れられなかったのだ。

個人的にはドルフィーとの '水と油' な両巨頭の共演を聴いてみたかったなあ。実際、ちょっとスタイルは違うけど、テナーとフルート、バス・クラリネットを操るベニー・モウピンをこの後の 'Bitches Brew' で起用するのだからそれほど相性悪いとは思わないけど、ね。ここで大所帯なバンド・アンサンブルと電気楽器に対する '通奏低音' として、コントラバスとエレクトリック・ベース、そしてバス・クラリネットによる低域の強化こそその出番だったのだろうけど、しかし、もしこのバスクラがドルフィーだったら・・そんな妄想を逞しくします。

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