もういくつ寝る・・までもなくあっという間のお正月。ついこの間は連日の熱帯夜だったと思ったら渋谷のハロウィン騒動からクリスマス、そして大晦日に年越しそばを啜っている自分。ああ、月日の経つのは早いですねえ・・。今年5月に迎える '平成' 最後を前にして、新年一発目は '昭和' の気分で迎えましょう。ええ、たった30年ほどの平成に比べて昭和って長かったんですヨ、ホント。
ま、お正月って特に大きな感慨のようなものはないのですが(汗)、都心から人もクルマもほとんどいなくなり静かで空気がキレイですよね(笑)。そういえば日本が高度経済成長期真っ只中の頃には、生活水準向上と共にレジャーや家族間のイベントのようなものが社会に定着し始めて、休日はデパートのレストランでお食事、お正月には映画館で映画を見るというのが恒例となりました。わたしが何となくこの時期にいつも見てしまうのが1968年の東宝映画 'リオの若大将'。基本的に '若大将シリーズ' の映画は真夏公開が多いのですが、当然、この 'リオの若大将' も7月13日公開でして、今よりもずっと遠い異国の地であった地球の裏側ブラジルを舞台に若大将と青大将、ヒロインの澄ちゃんが活躍します。
特別、凝った内容があるわけではなく、基本的にこの '若大将シリーズ' は配役(こういう言い方が昔っぽい)は一緒、ストーリー展開も一緒ながら場所がハワイだったりアルプスだったりリオだったり、アメフトだったりフェンシングだったりバンドだったりという 'こだわり' に違いがある '水戸黄門' 的お約束で埋め尽くされております。唯一の違いはこの 'リオの若大将'、ヒロインの澄ちゃんこと故・星由里子さん(去年、星になられましたね・・涙)の最終作であり、また12作目にしてようやく大学卒業したことにあります。個人的な感想として、本作に横溢しているのは '黄昏' であり、ある意味、こういうノーテンキな作風がそろそろ時代の空気とミスマッチしてきたんじゃないか、と思うんですよね。正直、若大将の生活って当時の庶民からしたら完全なるボンボンでして、一般的には高校卒業してすでに働いている澄ちゃんの方が等身大の姿なんですヨ。それはここで演じてる加山雄三さんや田中邦衛さんが30歳を有に超えて大学生やってることの気恥ずかしさ、一方では、新たな時代のカルチャーと共に優雅な中流層の社会をただ憧れだけで以って描くことが受け入れられなくなってきた。
この 'リオの若大将' には流行のサイケデリックやブラジルのボサノヴァからサンバなども取り入れられて、当時で言うところの '第三世界' の文化圏が欧米のカルチャーに侵食していく時期でもあります。1968年といえば、学生運動などで機動隊に向かって火炎瓶や石ころを投げて、ジャズ喫茶で一息付きながらATG映画などの 'アングラ' に触れた連中が多勢を占め、そんな時代の空気と無縁な '若大将' 映画が若者たちにとってただただ白けるだけだったのは想像に難くない。それでもこの 'リオの若大将' は、ドンカマチックなリズムボックスやファズ(Ace Tone Fuzz Master FM-1!)で歪ませたエレキと共にGSブームを通じてザ・ドアーズへの日本からの '返答' のような演奏も挿入されて、なかなかに通俗的な時代の混乱した雰囲気を伝えております。しかし、ノーテンキに "ぼかあ、シアワセだなー" って歌う加山さんですけど、この頃は音楽的にも結構オシャレで尖っていた。
ここでちょっと寄り道しますが、この 'リオの若大将' にも横溢する昭和の 'ラウンジ感覚' というべきクールな雰囲気が好きだ。それは日活の無国籍映画などを見ていても現れる眺めの良いホテル、百貨店、空港などのカフェやバー。そうそう、昔は飛行機に乗るのにもキチッとスーツにネクタイを締め、航空会社のネームの入った飛行機バッグをぶら下げておりました。そんな搭乗前のリラックスできるカフェの一角にジュークボックス、そして、ゴージャスな夜の社交場では小編成のジャズ・コンボによる生演奏がこのラウンジのムードを高めるよう、または会話の妨げにならないような演奏で空間を '演出' します。実際、こういった場所をリアルタイムでは知らない世代ですが、しかし、今やジャズだろうが 'AKB' だろうが、何でもお店のBGMとして有線から一方的に音楽を '聴かされる' 時代に比べたら、昔のお店はもっとずっと '大人' であったと思うのです。
そんなエレガンスな時代から60年近い時間が過ぎた現在、人々の一日はぐっと短くなり、昼夜を逆転したように眠らない不夜城としての都市を忙しくします。常に何かと接続されて、世界のあらゆる情報とのコミュニケーションを可能とする一方、人間は環境と共に変容しているのでしょうか?、それとも変わりゆく環境の中で、人間は虚構の世界を '騙されたように' 生きているのでしょうか?。冷戦という恐怖の中、史上まれに見る享楽的なエンターテインメイントを生み出した1950年代の米国は、まさに 'ジェットの時代' とばかりにカリブ海やハワイ、アジアを都市の消費社会に対するリゾート地としてその距離を縮めました。そのエキゾティックな眼差しは、実際の都市からの逃避行に対し、さらに都市の中に人工的な楽園を '演出' することへと転倒します。都市の高層アパートメント、もしくは郊外の庭付き一戸建てに住む独身者の嗜み。それは、よく効いた空調設備の整う部屋の中にヤシの木の鉢植えを置き、竹で編んだ簾をかけ、リクライニングチェアに寝転がりながら、その傍らには冷たい飲み物をいつでも手に出来るミニバーが備えられている。仏像やエキゾな土産物、お香を焚いても良いでしょう。ミッド・センチュリー・モダンな木目調オーディオセットからは、当時流行のマンボやラテン・ジャズ、そしてエキゾティカと呼ばれる架空の '秘境' をイメージした環境音楽が流れ、不快指数0%の人工的な楽園を一室に所有するのです。
1940年代後半からのマンボ・ブームとラテン・ジャズ、マーティン・デニーやレス・バクスターらエキゾティカのブームは偶然ではありません。ここに当時、新たなテクノロジーとして現れたステレオ・オーディオによる 'パノラマ' 的音響効果でエキゾを強調したエスキヴィル楽団も加えたい。さらにこの楽園の '秘境' は鬱蒼としたジャングルや未開の部落を離れ、月夜と共に未だ想像の地である宇宙へと拡張します。ソビエトの 'スプートニク・ショック' がもたらした1957年、人々は月に建設される(だろう)ヒルトン・ホテルのラウンジで、地球を眺めながらカクテルのグラスを傾けることを夢想しました。それは、1961年のボストーク1号とガガーリンによる有人飛行を経て、ケネディ大統領の "米国は今後10年以内に月へ有人飛行を達成させる" の発言により、さらに宇宙への距離が現実味を帯びたものとなります。
また、遠くブラジルの地では、オスカー・ニーマイヤー設計による新首都ブラジリアと共にボサノヴァが産声を上げ、気だるい '呟き' と共に都市民のライフ・スタイルへ新たな提案を投げかけます。大ヒットした「イパネマの娘」は、百貨店の購買意欲を煽ると同時に '無言の沈黙' を和らげる 'エレベータ・ミュージック' として機能し、ワルター・ワンダレイのオルガンがそのイメージを増幅しました。ジョアン・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビンに先駆けて米国で活動していたジョアン・ドナートがカル・ジェイダーと共演した 'Aquarius' も、まさに1960年代を代表する極上の 'エレベータ・ミュージック' と言って良いでしょう。ちなみに 'モンド・ミュージック' の著者のひとりである小柳帝氏は、その 'エレベータ・ミュージック' と 'エキゾティカ' の定義を分けて考えており、前者が、百貨店などで消費者の購買意欲を促進させ、気分を煽るような機能を有する 'ミューザック' であるのに対し、後者は、一見何の関係もない場所に強引に '秘境' のイメージを設定するもの、聴き手と場が離反することでヴァーチャルな関係性を結ぶことにあるとしています。そして、いつ核が降り注ぐか分からない冷戦の恐怖の中で、大量消費社会に邁進する米国が提供した '楽園' は新たな購買層とマーケットを生み出し、都市民が嗜むべき '大衆文化' という虚構を形成しました。しかし、そんな時代から60年近い時間が過ぎ去った現在、これら '楽園' がもたらす風景は、まるで時間が止まったかの如き '機能美' を現代に投射します。一日の短くなった現代人にとってその夜は長く、また人々は、過去の忘れていた時間から '余裕' の嗜み方を知るのではないでしょうか。
さて、個人的にはこの '若大将シリーズ' に横溢する '書き割り' のような世界観を持った非日常的映画の強度って今じゃ作れないんだろうなって思うのです。リアリティーなどという '厨二的' 世界を探して駆けずり回るより、一歩そのスクリーンの裏側を回ったら安っぽい '書き割り' が剥き出しで見えるこのファンタジーな世界の '果てしなさ' って、その予定調和感含め納得させられるものがあるなあ。いや、こんなクソ真面目なこと言いたいんじゃなかった。なーんも考えずに世界の果てにあるものをダラダラと '観光気分' の如く2時間で見て回れる気楽さなんですヨ。実際、まだ1ドル=360円だった時代に見る海外旅行って今とは比べられないくらい夢があったと思うのです(リアルタイム世代じゃないから知らないけど・・苦笑)。それはクイズダービーのハワイ旅行における '特別感' や兼高かおるの世界の旅、驚異の世界といった '観光気分' を盛り上げる番組と同質のものだったんじゃないでしょうか。とりあえず、わたしはこーいう '時代の遺物' となったものを深夜の時間帯にひとりダラダラと見るのが好き(笑)。別に '若大将' 世代ではないのだけどその単純な世界観を2時間で堪能し、ひっそりとした真夜中の贅沢さに塗れるのです(笑)。
また1968年といえば日本のGSブームはもちろん、世界はザ・ビートルズの影響をきっかけに '世界同時革命' 的なロックとカウンター・カルチャーの波にさらされていきました。それはブラジルの地においても 'トロピカリア' のムーヴメントと共に、それまでのボサノヴァ世代とは違うサイケな連中がドッとエレキを手にしたことにも繋がります。こういうのって 'ジャズ・ロック' という言葉と同じものがあり、つまり一時の 'あだ花' 的熱狂があり、それは季節の変わり目と共にいつの間にか雲散霧消してしまうもの。本作で加山雄三演じる田沼雄一と星由里子演じる澄ちゃんは、リオでふたりが抱き合う姿を影で '暗示' するに留めて去り行く1968年の青春に幕を下ろします。この何ともいえない '有終の美' 的感覚というか、時代の変容というか・・ほんと '黄昏' というしかないんだよなあ。
さあ、うっすらと白み出した空が初日の出と共に365日がスタート、そろそろ一夜限りの幻想から目を覚まして初詣でも参りましょうか。そんな新年のウキウキする一歩を踏み出すBGMはレニー・アンドラーヂとエルメート・パスコアールも在籍した短命グループ、ブラジリアン・オクトパス、そしてピート・ジャック楽団が奏でるリオの一夜。まあしかし、こんな南国気分の映画を引っ張り出してきたのも真夏の季節が恋しいからなんですけど、ね。
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