2017年5月4日木曜日

夏が来れば思い出す・・

深緑の5月はもう初夏の香り・・。

久しぶりにフェネス2014年作 'Becs' (ベーチェ)を聴いてみる。というか個人的に 'エレクトロニカ' 食傷気味な頃のリリースだっただけに記憶も薄く、ようやく手に取ったというべきか。オーストリア出身のエレクトロニカ職人、クリスチャン・フェネスは1997年の 'Hotel Paral.lel' から一貫して独自の音響世界を築いてきた人です。そのデビュー作は、未だテクノのうねりと折合いをつけながらユニークなエレクトロニカ胎動の一歩を示しました。







大きくブレイクした2001年の傑作 'Endress Summer' では、そのフォーキーなアコースティックの響きと真っ向から覆い尽くすようなノイズの壁が不思議な心地良さを演出し、特に夏に対してセンチメンタルな感情を抱きやすい日本人のツボにハマった一枚でしたね。たぶん、毎夏訪れる度にこの作品の情景描写が有り有りと眼前に現れる人たち、多いのではないでしょうか。ジリジリとした肌に差す夏の陽気、照り付ける陽射しを避けて木陰からジッと遠い陽炎を眺める眼差し・・。ああ、夏が来たなあと感じます。





続く2004年の 'Venice' も 'Endress Summer' の延長線上にありながらよりノイジーとなり、デイヴィッド・シルヴィアンがゲスト参加したのも話題となりました。そして2007年の坂本龍一 '教授' とのコラボレーション 'Cendre' から翌年の 'Black Sea' と続き・・んで、冒頭の 'Becs' に戻るワケですが、この頃、オヴァル2010年の 'O' を聴いて 'これじゃない感' を引きずりながら、エレクトロニカ全般に食傷気味だったことも影響して 'Becs' も特に期待してなかったんだけど、おお、久しぶりに 'Endress Summer' の雰囲気を纏ったような感じでやはり素晴らしいことを再認識!

思い返せば、1990年代後半のエレクトロニカ興隆には世紀末の空気と相まって興奮したものです。それまで現代音楽の一部である電子音楽の世界がテクノとぶつかってしまったような '化学反応' は、当時のサンプラーやシンセサイザーに対するアプローチを一新させました。それまで 'ローファイ' などとアナログの価値観に引きづられていた多くのユーザーは、CDの盤面に傷を付けて意図的に引き起こす 'デジタル・エラー' の不快さがそのまま、Cycling 74 Max/Mspに代表される、グラニュラー・シンセシスの 'グリッチ' な痙攣するリズムへと摩り替えていく快感を体験してしまったのだから。





またやってきます、真夏という名の狂気の季節が。いや、もう気持ちは年中真夏で良いと思いますヨ。汗かいて陽に焼けて蝉は精一杯鳴き続ける・・ビールは美味い。昼間の照り付けた熱気の残るアスファルトを散歩する真夜中・・その渇いた独特の匂い。これから夏本番を迎えて街中がソワソワし出す初夏の雰囲気、いいなあ。ホント今のこの季節が一番好きだ。


さて、話はガラリと変わって、いきなり大上段から語り出すこと濃厚ではありますが、ここはシンプルにいきたいと思います。25年ほど前だったか、NHK教育TVでYMOの特番が放映されておりました。その中で坂本龍一さんが述べられていたことがずっと心の中に残っていて、それは最近、ますます自分にとって重要な要素になりつつあることを実感しているんですよね。その特番はちょうどインターネット黎明期の頃の番組ということもあり、当時、インターネットの環境に興味津々であった坂本さんがクリエイティヴであることについて、今後、洪水のように溢れ出てくる情報を前にクリエイターは、情報を取り過ぎることが障害になる、そしてもっと情報に対して禁欲主義でいかなければならないと言うのです。





まあ、正確な文言は上の動画(5:31〜)を確認して頂くとして、結局は坂本さんの予想通り、現代の生活はインターネットがその主流を占め、人々は常に何かと接続することを余儀なくされております。つまり、あらゆる情報と生活がネットの中にはあって、常にその取捨選択の判断が求められ、物事の本質はアクセスする行動の中においてのみ顕在化し、それ以外のことはノイズとして処理されていってる、まさにこれこそ今の時代を消費するサイクルではないでしょうか。



わたしは特別プロのクリエイターではないし、この発言を過敏に受け取る立場でもなんでもないんだけど、しかし、何かに没頭することと発想のきっかけを考えることについてはいろいろと参考になると思うのです。冒頭のクリエイティヴなことについて言えば、あらゆるリファレンスが蔓延り、オリジナルがそのまま '見つける' ことと同義語として、自分の中から湧き上がってくる欲求のようなものには向き合わなくなっているのではないかな、と。これはドイツの音響作家として現在も活動するオヴァルのマーカス・ポップが、テクノのクリエイターを指して "彼らのやっていることは楽器メーカーのデモ演奏と同じだ。想定内の組み合わせだけで知的詐欺を働いているに過ぎない" と極論を吐いたこととも関係しております。この発言の是非は置いておくとして、しかし、自らのメソッドを '発見' したポップにとっては当たり前に起こる疑問であったことは理解できますね。1970年代にジャマイカの劣悪な環境の中、限定的な機材を乱暴に扱うことで見出したダブの手法、それはいま、世界の音楽の先端で未だ有効な手法として再利用されており、また、ニューヨークのDJは2台のターンテーブルとレコード盤を持ち出し、本来楽器ではないものから '剽窃と誤用' により何がしかのものをでっち上げた。それを人は現在、ヒップ・ホップやブレイクビーツと呼ぶわけだけど、果たして情報過多の現代に取捨選択することと、貧しく限定的な環境の中で '間違っている' ことをやるのではどちらがクリエイティヴなのか、ここでその答えを出すことはできません。どちらにしろ '未分化なもの' は情報として処理され共有されていくワケで、単純に二分法で論じるべきものではないのだけど、しかし、それでも冒頭の坂本さんの発言というのはずっと引っかかっている・・。



Elektron Digitakt

もちろん、オヴァルの発言は極端な 'ガジェット偏重' の過熱ぶりに対する揶揄(高騰するRoland TR-808やE-Mu SP-1200、モジュラーシンセへの偏愛など)含め、ある種 '戦略的' (今風な言い方なら '炎上商法的'?)に同業者を焚き付けていた部分もあり、実際はオヴァルを始め、皆テクノロジーの恩恵を受けた中から見出された '美学' の中で評価されていることは否定できません。つまり、いかにテクノロジーと付き合うかというのが問題なのですが、そんな彼らの 'メソッド' を反映するように今月、スウェーデンからハードウェア中心に展開するElektronの新製品、Digitaktが発売されます。8トラックのサンプラー兼ドラムマシンの体裁を取りながら、同社が強く推し進めるOverbridgeを用いてDAW環境との完全統合を目指し、スタジオでの制作からライヴまで幅広く対応することが可能です。まあ、典型的な 'ガジェット' 紹介ではありますが(苦笑)、しかし、大切なのはこのような '環境' の構築と自らの 'メソッド' をどう擦り合わせ、モチベーションを発奮させるかではないかと思うのです。





それでも、'YMO特番' がまだチャートという '生きた場' の動いていた最後の時代であった1990年代後半であることを考えると、今はもうその場がないという点でもっと悲観的なのかもしれません。つまり、そこで活性化する上での '共通言語' がないんだから、各々を語る上での '物語性' は希薄になっていくしかない。まあ、それなりに共有するものはあるのかもしれませんが、それは '上書き保存' で読む刹那的なものなのは間違いないでしょうね。つまり、個人の閉じられた '楽しみ' がそのまま無名の才能として '見つけられる' か '埋もれていくか' は加速するワケで、ジャンルは違いますが、美術の分野におけるヘンリー・ダーガーやミンガリング・マイクらの 'アウトサイダー・アート' のようなあり方は、今後 'スタンダード' の生まれにくい時代においてますます増えてくるのではないかと思いますヨ。う〜ん、こういう時代の中でいったい何をクリエイトすることができるのか?上でご紹介した 'YMO特番' の中では、ドリス・デイとスヌープ・ドッグを並べて 'ポップスはいかにメロディを失ったのか' という新聞記事も紹介してましたけど、今後、わたしたちが '語るべきもの' を見つけられるのかは誰にも分かりません。

'教授' とフェネス2007年、奇跡のコラボレーションともいうべき 'Cendre'。2010年にもう一作、このコラボによる2枚組 'Flumina' も作りますけど、粗製乱造されたよくある 'ピアノ+エレクトロニカ' のECM的世界に陥らない素晴らしい音像。そして '宅録' の出発点のひとつであり、コンピュータで制御するRoland MC-8との出会いがもたらした傑作 '千のナイフ' がいま目の前にある・・さて、もう一度立ち戻ってみましょうか。

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