2016年11月3日木曜日

ワシントン・ゴーゴーの衝撃

ソウル・ミュージックどっぷりだった高校生の頃、突如ワシントンDCという '辺境' (首都なんですが)から賑やかに飛び出してきたのがワシントン・ゴーゴーなるストリート・ミュージックでした。ちょうどニューヨークはサウス・ブロンクスから飛び出してきたヒップ・ホップがポップ・ミュージックの世界で '市民権' を得た頃でもあり、このゴーゴーもそんな '勢い' に乗ろうと英国の大手レコード会社、Islandのクリス・ブラックウェルが仕掛けたムーヴメントだったのです。Islandといえば、同じくジャマイカの孤島から世界に向けてビッグヒットを放ったボブ・マーリィとレゲエ・ミュージックを仕掛けた張本人でもあり、当時このゴーゴーも勝算の見込みあり、と踏んだのでしょう。しかし、残念ながら現地米国ではヒップ・ホップを凌駕するほどの力は振るわず、英国と日本の一部R&B愛好家に好まれたのみでほとんど忘れられてしまいました。







そもそもワシントンDCに黒人が流入してきたのが1970年代初め。表向き人種差別撤廃の動きと相まって安く住居施設を提供したことから瞬く間にゲットーが構成され、黒人との同居を嫌がる白人層は郊外へと忌避していったことでDCの中心部は 'チョコレート・シティ' の異名を得ることとなります。またアフリカの旧植民地やカリブ海からの移民も移り住むことで独自の文化圏を形成し、1970年代後半にはいわゆる 'ゴーゴー・ミュージック' の基盤が定着します。1970年代初めからザ・ソウル・サーチャーズを率いて活動するチャック・ブラウンは 'Godfather of Go-Go' として知られており、ステージで演奏するオリジナルや 'Top 40' ものをファンク・アレンジする中で、曲間をドラム・ブレイクとコール&レスポンスで繋ぎながらノンストップで展開する 'ゴーゴー・スタイル' を生み出しました。この 'DC産ファンク' はアフリカやカリブ海の血脈を受けて、ラテン・パーカッションを過度にドラム・ブレイクと共に強調しながら、二拍三連のハーフタイム・シャッフルで進行するのが特徴です。そして基本はライヴ・ミュージックということで、1曲が優に1時間を超える地域コミュニティに沿ったローカル性を発揮します。その為、物理的にレコード文化が育たずラジオ局でもかけられることがない為、長い間この 'DC産ファンク' の存在が外部に知られることはありませんでした。








1978年に全米R&Bチャート1位を記録したチャック・ブラウンの 'Bustin Loose' や1982年のレア・エッセンスによる 'Body Moves' といったヒットはあるものの、それらが 'DC産ファンク' として 'ワシントン・ゴーゴー' というひとつの特異なムーヴメントとして知られるには、後述する1985年のIsland Recordsからのコンピレーション 'Go-Go Crankin'' を待たねばなりません。また、同コンピレーションと同時期にLondon Recordsからも 'Go-Go - The Sound of Washington D.C.' という2枚組コンピレーションでレッズ&・ザ・ボーイズ、シェイディ・グルーヴ、ペットワースといった地元のローカルなゴーゴー・バンドを紹介しております。これ以降で集大成的なものとしては、1987年にワシントンDCのキャピタル・センターで開催された 'Go-Go Live At The Capitol Centre' のVHSビデオとそれをそのまま2枚組CDにしたものがありました。この現地の熱気を余すところなく伝えるVHSビデオはそれこそ擦り切れるくらい見まくったなあ...(遠い目)。








1984年に米国で小ヒットとなった1曲にチャック・ブラウンの 'We Need Some Money' というのがあり、これに異常に食いついたのがIslandのクリス・ブラックウェル社長。直ぐさまDCのマイナー・レーベルであったD.E.T.T. / T.T.E.D.のマックス・キッドと契約し、この隠れた 'DC産ファンク' を世界に向けて発信することとなります。すでにこの時点で、DCにはチャック・ブラウンの他にレア・エッセンスとそこから独立したリトル・ベニー&ザ・マスターズ、レッズ&ザ・ボーイズ、トラブル・ファンク、E.U. (Experience Unlimited)といった実力派のバンドが街の人気者となっていました。この独特なストリートの空気を伝えようとIsland主導で、アート・ガーファンクルを主役!としたB級映画 'Good To Go' を制作、しかし、レゲエを紹介する為にジミー・クリフを主役にしてヒットさせた映画 'The Herder They Come' の '二匹目のドジョウ' を狙うも見事に惨敗。すでに翌年には英国での人気も陰りを見せ始めます。ところが、日本は世界でもこのゴーゴーを愛した特異な国となり、上で述べたゴーゴーの主要バンドはほぼ日本公演を行うほど盛況となりました。わたしも当時チャック・ブラウンの公演を観に行きましたが、もう、これぞ 'DCスタイル' と言わんばかりの熱狂的なノリに踊りまくっていたのが昨日のことのように懐かしい。当時、日本に入荷していたゴーゴーのレコード、CDの類いはすべて購入しており、また地元DCで流通する 'PAテープ' なるカセットテープをDisk Unionが少量入荷したときも、これまたすべて購入して貪り聴いていたというくらいのマニアでしたね。一方、このD.E.T.T. / T.T.E.D.との配給契約を通じてクリス・ブラックウェルのIsland / 4th. & Broadwayから世界に発信されたトラブル・ファンク、E.U.、チャック・ブラウンに対し、ヒップ・ホップの震源地ニューヨークでリック・ルービンの名門Def Jamと契約したのがザ・ジャンクヤード・バンド。その名の如くドラムセットにポリバケツを組み込んだ 'ジャンクな' 彼らは、結局1986年の12インチ 'Sardines' 一枚でメジャーへの挑戦は終わってしまったものの、このブーミーなベースラインを持つタフなゴーゴー・スタイルはいま聴いてみても格好良い!。






そして 'Bustin' Loose' やトラブル・ファンクの 'Drop The Bomb' と並び、そんな 'ゴーゴー前夜' を捉えたレア・エッセンス1982年の 'Body Moves' も抑えておきましょう。チャック・ブラウン始め多くのバンドがワシントンDCを飛び出し世界を駆け巡る中、地元DCに根城を築き一貫して伝統的な 'DCスタイル' のライヴバンドとして活動していたのがレア・エッセンス。このバンドからはメガネ男のリトル・ベニーがThe Mastersとして独立するなど地元の登竜門的存在としても君臨しましたが、ゴーゴー・ムーヴメント過ぎ去りし後の1995年に 'ターザン' の叫び声のサンプリングした 'Work The Walls' で時流のヒップ・ホップ的手法にも対応しておりまする。そのリトル・ベニーはもういないけど(涙)、もちろん、このグループは現在も世代を超えて活動中です。結局、ゴーゴーというムーヴメントの音楽的成功は叶えられませんでしたが、しかしその特異なファンクの構造は当時新たなプロデューサーとして登場したテディ・ライリーの心を捉えて、新しいダンス・ミュージックの 'ニュージャック・スイング' に多大な影響を及ぼすこととなります。また、後述しますが英国から一躍世界に躍り出たソウルⅡソウルの 'グラウンドビート' にもチャック・ブラウンのレア・グルーヴ 'Ashley's Roachclip' が影響を及ぼすなど、ある意味ではファンクの最もプリミティヴな要素を再認識させたものがワシントン・ゴーゴーでした。




'Keep On Movin'' のいきなりドスッとぶっとく鳴る(たぶん)Roland TR-909のキック一発。もう、この瞬間こそわたしにとっての大きな最初の 'パラダイム・シフト' でした。時代もまさに1989年ということで、それまで世の中から聴こえてきた80's的 'プラスティックな' サウンドから、急にリアルな音像が目の前に現れた衝撃というか・・。そして 'Back To Life' の土着的なコール&レスポンスとレア・グルーヴ感覚。すでに70'sファンクの熱狂的な信者であったわたしにとって、こういうかたちでファンクの黒い感覚が蘇るとは・・。同時代、すでに米国で流行していたニュージャック・スイングと呼ばれるダンス・ミュージックに比べれば、レゲエ・フィルハーモニック・オーケストラの奏でるストリングスを加え、もっとずっと落ち着いていて、そこにちょっとジャジーな大人っぽい雰囲気さえ漂わせている。ともかく、ある時代の米国が持っていたR&Bの伝統を昇華させた 'やり方' としては、個人的に '英国もの' の方が好みであったことをこのSoul Ⅱ Soulは教えてくれましたね。彼らが打ち出したグラウンドビートというグルーヴは、'大地' という意味での 'Ground' ではなく '擦り付ける' という意味 'Grind' の他動詞 'Ground' から来ているようで、これは、レゲエのダンスに男女が股間を擦り付けるようにして踊る 'ラバダブ' というのがあり、この辺りから派生した言葉ではないかと思います。それはともかく、ある意味 '大地' と言い換えても良いくらい、この地を這うようなベースラインとキックのぶっとい感じがダブの血統を強く主張し、また、この緻密なビート・プログラミングに当時英国在住であった日本人ドラマー、屋敷豪太氏(元メロン、ミュートビート)が深く携わっていたのは興味深いです。それは、このカッチリとした構成に日本人的な '職人感' があるというか、屋敷氏にとってはSoul Ⅱ Soulの '屋台骨' 的存在であったネリー・フーパーとの出会いが大きかったようですね。他にメジャーどころではD.N.A. feat. Suzanne Vegaの 'Tom's Diner' とか、耳ダコになるくらい聴いたグラウンドビートの代表的一曲。また、ジャジーB&ネリー・フーパーが 'True Love'、'1-2-3' の2曲プロデュースに携わった 'Soul Ⅱ Soulフォロワー' 的ユニットのThe Chimesなんかも話題となりましたね。そんなグラウンドビートの '元ネタ' として、そもそもレア・グルーヴを回すDJであったジャジーBが '見つけてきた' と思われるのがこちら。チャック・ブラウンがまだザ・ソウル・サーチャーズ単体で名乗っていた頃の1974年にリリースした作品 'Salt of The Earth' からの一曲 'Ashley's Roachclip' です。当時彼らは完全なるB級ファンク・バンドでして、この後1978年に 'Bustin' Loose' で全米R&Bチャート1位を記録。その後、再び1984年に 'We Need Some Money' と共にワシントンDC産のファンク・ムーヴメント、ゴーゴーの創始者としてR&B界に大きくその名を轟かすこととなりました。本曲の実にアフロっぽい雰囲気とレア・グルーヴ的怪しい濃度を持った70'sな下地には、確かにグラウンドビートと共通するビートをクールにキープする感覚が漲っております。









そんな当時、最先端のニュージャック・スイングをワシントンDCに '逆輸入' した一例として、こちらE.U.1990年の 'I Confess'。まあ、この '日和って' しまった態度がゴーゴー・ムーヴメント終焉を決定付けてしまったんですが、ゴーゴー全盛期の 'E.U. Freeze' から比べると見事に垢抜けてますね。そもそもは1970年代後半にフュージョン色の濃いファンクバンドとしてベースのオヤジ臭いヴォーカルが魅力のシュガーベアを中心に活動し、トラブル・ファンクやレア・エッセンスと並んでDCのストリートで頭角を表しました。メジャーのVirginから前作 'Livin' Large' に比べて2作目 'Cold Kickin' It !' はちとゴーゴー的に評判悪いですが、しかし、この 'Funky Like A Monkey' などかなり意欲的かつプログレッシヴなスタイルでゴーゴーの発展に寄与したことはもっと評価して良いですね。そのE.U.最大のヒット作のひとつがスパイク・リー監督の映画 'School Days' 挿入曲の 'Da Butt' であり、プロデュースは当時マイルス・デイビスのグループにも参加したマーカス・ミラー。また、ウィリアム "ジュジュ" ハウスの強力なゴーゴーリズムに目が奪われますけど、彼らEUはバラッドとしての実力も評価したいグループでもあります。





ちなみにマーカス・ミラーからの縁?なのか、このストリート・ミュージックに魅せられたのが 'ジャズの帝王' マイルス・デイビス。デイビスが自らのバンドに迎えた最後の凄腕ドラマー、リッキー・ウェルマンはチャック・ブラウンのザ・ソウル・サーチャーズで叩いていたその人でもあります。そんなデイビスが、このゴーゴーについて述べていたインタビュー記事を読んだことがあるのですが、残念ながら手元に残っていないのでうろ覚えながらこんな内容だったと思います。

"ゴーゴーは昔、ディジー・ガレスピーがマックス・ローチらとやっていたものと同じだよ。ソルト・ピーナッツ!ソルト・ピーナッツ!な?同じだろ。"

たぶん、この "ソルト・ピーナッツ!" という尻上がりな 'かけ声' がゴーゴーのドラム・パターンを代表する二拍三連のハーフタイム・シャッフルのノリと一緒だ、ということを言いたかったのでしょう。ゴーゴーの魅力は、このパワフルなドラマーが牽引するグルーヴに秘訣があり、ウェルマンのほかE.U.のドラマー、ウィリアム 'ジュジュ' ハウスなどの凄腕が揃っております。そういえば、わたしがチャック・ブラウンのライヴを見に行ったとき、ドラマーがウェルマンの 'トラ' として参加したジュジュでして、そのときステージから投げたスティックの1本が未だ手元にあったりします(笑)。そんなマイルス・デイビスが晩年のコンサート・バンドに引っこ抜いてきたのがザ・ソウル・サーチャーズの凄腕ドラマー、リッキー・ウェルマン。このバンドで 'モロにゴーゴー' をやってる曲というのはあまり無いのだけど(汗)、1985年に 'Rubber Band' というカバー中心のアルバム候補曲としてジャズ・シンガー、アル・ジャロウの参加を想定した 'Al Jarreau' は完全にゴーゴー・スタイルですね。叩いているのはデイビスの甥っ子であるヴィンセント・ウィルバーン。そして、ゴーゴーのテンポを意識しながらラリー・ブラックモンを中心に '打ち込み' で制作されたキャミオとの共演 'In The Night' にも微かな影響が聴き取れますヨ。









この 'ゴーゴー界隈' でキャッチーなヒットを飛ばして人気となったのがビッグ・トニー率いるトラブル・ファンク。初期のオールドスクール・ヒップ・ホップとして人気を博したカーティス・ブロウやシュガーヒル・ギャングを生んだSugar Hillレーベルとも交流があり、Drop The Bomb' や 'Say What' のタフなノリは忘れられません。また、'ワシントン・ゴーゴー' ブーム直前、クラフトワークの 'Trance Europe Express' へのヒップ・ホップの返答ともいうべきアフリカ・バンバータの 'Planet Rock' があれば、ワシントンDCからはトラブル・ファンクのエレクトロな 'Trouble Funk Express'!。さらにお返しとばかりにバンバータの 'Go Go Pop' という曲で共演もしております。そして、1980年代といえば 'メガ・ミックス' ブームということで、英国のチャド・ジャクソンなるDJが手がけた 'Still Smokin'' の 'Razor Mix'。これは当時の新曲 'Still Smokin'' を3つにぶった切ってロンドンでのライヴ音源、'It's In The Mix'〜 'Drop The Bomb'〜'Say What ?' を強引に繋げてしまいました。いや〜、このノリにノッていた時期の 'パーティ・ミックス' がたまりません。その後、1987年にビル・ラズウェルのプロデュースで意欲作 'Trouble Over Here, Trouble Over There' を制作するものの時流の 'テクノ・ファンク' スタイルに寄り掛かりすぎ、長引くワールドツアーで地元DCをお留守にしたことから一時的にその人気に陰りが出てしまいました...。





さて、この 'ワシントン・ゴーゴー'。1990年頃にはメジャーからその名を聞くこともなくなり、地元DCでもその規模は縮小されたと聞きましたが(そもそもシーン全体が犯罪の温床と紙一重なところがあった)、最初のドキュメンタリー動画をご覧でもお分かりの通り、何と現在でもこの '熱病' のようなコミュニティは健在だそうです。すでに時代はコンピュータが普及し、画面と向き合いながらトラック制作するヒップ・ホップのクリエイターが多い時代にあって、彼の地DCでは未だにドラムスやパーカッションを志す若者が多いのだとか。この恐るべきローカルな '地域性' というか、日本だとちょっと河内音頭なんかの祝祭性と通じる部分があると思うのですがいかがでしょうか?そんなローカル臭さ丸出しのゴーゴーにおいて、ちょっとユニークな試みでヒットしたのが1991年の 'Go-Go Mario'。E.U.のキーボーディストであるアイヴァン・ゴフが 'Double Agent Rock' のソロ名義として自らのレーベルからリリースしたこの曲は、なんと今年のリオ・オリンピックでも話題となった 'マリオ・ブラザーズ' の音楽をサンプリングしてゴーゴーに乗せたもの。当時、全米各地でこのゲームの中毒者が続出し、'Nintendo症候群' なる社会問題にまで発展しましたが、それはDCの黒人キッズたちをも捉えたことをこの曲は証明しています。そこからさらに30年近い時間を経て・・これは最近のバンドかな。Go-Go Mickeyって確かレア・エッセンスにいた人じゃなかったか?。まさにこれぞファンク、ファンク、ファンク!!!ファンクの連続である純度100%!!!。というか、昔も今も変わることなくこのグルーヴで押し切っているんですね(笑)。ヒップ・ホップのような時代のテクノロジーを駆使して進取的なスタイルとは真逆ですが、この永遠の反復するグルーヴの連続には理屈じゃなく首と腰が動きます!。

1 件のコメント:

  1. リアルタイムでGOGO聞きました。NHKホールにTrouble Funk 観に行きました。Chuck Brownはライブ中止になったの覚えています。
    Redds&boys はどうしたんでしょうかね。
    今ではBrownnは聴いています、911もいいですね。

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