2016年4月4日月曜日

ピート・コージーという男

1970年代の 'エレクトリック・マイルス' 活動時期、ひとり強烈な異彩を放っていたのがシカゴ出身のギタリスト、ピート・コージーでしょう。ある意味、この人の印象はこのわずか3年ほどの活動がすべてであり、そういう意味では非常に謎めいた存在でもありますね。あのジミ・ヘンドリクスがメジャーデビュー前に追っかけをしていたとか、晩年は、母親の元でほとんどニート的生活をしていたとか、別れた奥さんとの子供に対する養育権不履行で米国から出国できなかったとか、いろいろな憶測が飛び交っておりますが・・う〜ん。



コージーの活動として比較的よく知られているところでは、1968年にブルーズの巨匠、マディ・ウォーターズがヘンドリクス流サイケデリック・ロックにアプローチした 'Electric Mud' へフィル・アップチャーチと共に参加したことです。



マーティン・スコセッシ製作総指揮によるブルーズ・ムーヴィー 'Godfathers and Sons' は、そんなシカゴの名門レーベル 'Chess' の栄枯盛衰と現在のヒップ・ホップへと続くストリートの空気をぶつけた異色作。ヒップ・ホップ側からはコモンとパブリック・エネミーのチャックDが参加しますが、白眉は1968年の 'Electric Mud' 再会セッション。すっかり真っ白くなった髪やヒゲをたくわえて 'グル' な雰囲気のピート・コージーも渋い存在感を醸し出します。

さてコージー&アップチャーチのコンビは、'Chess' のみならずシカゴのジャズ系レーベル 'Argo / Cadet' にも関わり、1970年代にフュージョン界のスターとなるサックス奏者、ジョン・クレマーのデビュー作 'Blowin' Gold' にも参加します。1969年らしくクレマーも全編で 'アンプリファイ' したサックスによるグルービーなブーガルー、ジミ・ヘンドリクスの名演でお馴染み 'Third Stone from The Sun' を披露。また本作にはモーリス・ジェニングスなるドラマーも参加、そう、後のアース・ウィンド&ファイアのモーリス・ホワイトその人なのです。コージーとはこの後のザ・ファラオズでも一緒に連むこととなりますが、そのルーツ的グループなのが、サン・ラ&アーケストラの一員であったフィリップ・コーランが率いて1967年に自主制作した 'Philip Cohran & The Artistic Heritage Ensemble' です。





Philip Cohran & The Artistic Heritage Ensemble
The Awakening / The Pharaohs

彼らは 'アンプリファイ' した電気カリンバなどを用いて、時に前衛的なパフォーマンスを行うサン・ラ&アーケストラに対し、よりブルーズやR&Bなどの大衆的なゲットーの感覚でもって地元シカゴを根城に活動します。そこでアンダーグラウンドに活動していたピート・コージーが、1973年にマイルス・デイビスのグループへ加入するきっかけについて当時の 'スイングジャーナル' 誌のインタビューでこう述べております。

"あれは4月の土曜の午後だった。仕事もないし、オレはベッドで横になっていたんだ。そこに仲間のムトゥーメから電話があって、突然「どうだい、マイルス・デイビスがギターでソロの弾ける男はいないかって探しているんだがやるかい」っていうんだ。オレはベッドから落っこちそうになってしまったよ。もちろん、嬉しい話だからOKしたさ。オレはシカゴのAACM(創造的音楽のための地位向上協会)のメンバーなんだ。ほら、これが会員証だよ。シカゴでの活動かい?うん、オレは 'フェローズ' (注・ザ・ファラオズのことだと思われる)って12人編成のバンド(インタビュアーの注・私は1969年にこのバンドをシカゴで聴いたことがあり、それはサン・ラの影響を感じさせるバンドであった)を率いている。以前 'フェローズ' は、フィリップ・コーランがリーダーだったし、今でも彼とは仲間同士だけど、フィリップが独立したんでオレが引き継いだってわけだ。最近、レコードを出したんだけどなあ(注・1971年の 'The Awakening' のことだと思われる)。日本には入っていないだろうな。そのほか、オレは今でもそうだけどテナー・サックスのジーン・アモンズのレギュラー・メンバーなんだ。だから、マイルスのバンドが休みになれば、オレはまたシカゴに戻るつもりだよ。生まれかい?うん、オレはシカゴ生まれのアリゾナ育ち。1943年10月9日に生まれ、12歳のときにアリゾナに移住。10年間、そこにいたんだが1965年にシカゴへ戻って、そのままジャズの世界に入ったんだ。今の心境かい?うん、とてもラッキーだと感じているのさ。"

そんなピート・コージーに対するデイビスの思いも相当 '買っていた' ことが、以下の1975年来日時のインタビューからも分かります。

"ピート・コージーは大変に長い経験を積んだミュージシャンだ。亡くなったジミ・ヘンドリクスなんかは、昔はよくこのピートの後を追っかけていたんだ。彼の音楽的才能 - 音を選んだり、何をするかを考え出す才能 - はまぎれもなく素晴らしいものだ。オレはピートの才能を信じ切っている。だから、オレは彼が何かをしようと考え、何をするべきかを選択するとき疑問をはさまない。つまり、完全な自由を与えているわけだ。東京での2日目のコンサートの終わりでやったのはエレクトロニック・ミュージックだ。シュトゥックハウゼンがやっているようなものと同じだよ。"

そしてもうひとつは近年のもの、ワシントンDC在住の音楽ジャーナリスト、トム・テレルが2007年に行ったインタビュー記事から。

"わたしはいつもマイルスを崇拝していた。わたしはマイルスを一番ヒップな道しるべのようなものだと思っていた。マイルスの新作が出る度にいつも、いつも必ず新しい方向性があった(笑)。わたしがプレイしたいと思った男はジョン・コルトレーンだ。彼のスプリチュアルなレベルの高さ、そうしたもの、全てを感じていたからだ。わたしはマイルスのスピリチュアル・レベルや、彼に関するその他のことがどれほどのものかはわからない。彼がクールとヒップの本質だということ以上のことはわからない。"

- なぜマイルスはあなたにバンドに入るよう連絡してきたと思いますか?

"そうだな、いくつかの出来事が重なったためだと思う。わたしはあの頃ジーン・アモンズとやっていた。マイルスがちょうど事故をやった年に(ニューヨークのウェストサイド・ハイウェイでランボルギーニを橋台に衝突させた事故)、ニューヨークでプレイしていた。事故の前の夜、わたしはアン・アーバー・ジャズ&ブルーズ・フェスティヴァルに行った。フレディ・キングがプレイして、その後にマイルスがプレイした。わたしはマイケル・ヘンダーソンに1、2年前に会っていた。フェニックス出身の友達のドラマーがモータウンでマイケルとプレイしていた。彼がわたし達を紹介してくれた。まあ、いずれにせよ、とてもおかしくてね。マイルスが車から降りてきたとき、彼のトランペット・ケースが開いてしまって、彼のホーンが地面に落ちそうになった。わたしはフットボール・プレイヤーのように、それを地面すれすれで拾い上げたんだ。で、彼に言ったんだよ。「おい、あんたの大事なものを落とすなよ!」。彼はわたしを見て、それをすぐに掴んで、ニヤッと笑ってウインクした。それからホーンをケースにしまい、ステージに上がり一撃をかました!バンドは本当に凄かった!10人か11人編成のバンドだった。レジーがギター、バラクリシュナがエレクトリック・シタール、バダル・ロイがタブラ、セドリック。ローソンがキーボード、サックスが確かカルロス・ガーネット、ムトゥーメがパーカッション、ベースのマイケル、アル・フォスターのドラムス、そしてマイルスがバンドを仕切っていた。"

"アン・アーバーの翌日、わたしたちのグループがマイケルの楽屋に集まった。レジー、ムトゥーメ、マイケル、それから通りの向かいのフルート奏者がいた。そこで皆でジャム・セッションをした。それから秋になって、わたしはジーン・アモンズのグループに参加し、最初のギグがハーレムであった。次のギグは2週間後にニューヨークのキー・クラブだった。わたしはムトゥーメに電話して「君がわたしのことを覚えているかどうかわからないけど」と言うと、彼は「もちろん、君のことは覚えているよ!」と言ってしばらく話をし、彼をキー・クラブに招待したんだ。そこで彼はわたしの本当のプレイを聴いたわけだ。彼から次に連絡があったのが、翌年の4月だったと思う。土曜の夜だった。モハメッド・アリがケン・ノートンに顎を砕かれ負けた夜だ(この試合は1973年3月31日土曜日に行われた)。その日シカゴで電話をもらった。電話はカナダからだった。ムトゥーメとバンドのマネージャーが電話で、わたしに彼らのバンドに参加できないかと誘ってきた。わたしは言った。「いやあ、とても嬉しいよ。でも今のバンドでハッピーなんだ。このグループを辞めようとは思っていないんだ。こうしよう。何人かわたしのところで勉強している連中がいる。ひとり選んで君の元に行かせよう」。すると彼は言ったんだ。「いやいや、彼は君に来て欲しいんだ」。そこまで言われたら断れないだろう?(笑)。次の夜、彼らとアルバータ州カルガリーで落ち合う手はずを整えてくれた。わたしは朝早くのフライトに乗るはずだったが、支払いに手間取ってそれに乗り損ねた。そこで次の場所、オレゴン州ポートランドで彼らを捕まえることにした。月曜だった。そして火曜の夜にギグをやってた。"

- そのバンドでリハーサルをする時間はありましたか?

"ハハハ!その話を知らないのか?OK、マイルスのホテル・ルームで、彼はその前の夜のパフォーマンスのテープをかけ始める。それをわたしは何小節か聴いて彼に尋ねる。「このキーは何ですか?」。彼は「Eフラットだ」と答える。わかった、次の曲に行こう。すると彼はわたしを睨む、わかるだろ(笑)。それを何度も何度も繰り返すんだ。そして、4分の5拍子の曲が出てくるとわたしは言う。「あなたは(4分の)5拍子の曲をやってるんですね」。彼はわたしを見てニヤリとする。部屋で座ってずっとそれをやるんだ。"

- ということは、マイルスはなぜあなたをバンドに入れたかったかその理由は言ってないんですね?

"そんな必要はなかったね。わたしがバンドにいる間、全部の期間で2、3回音楽的方向性を示しただけだ。最初のことは、その夜プレイするために準備しているときだった。わたしはテーブルをセットし、ペダルをドラムスの横にセットしようとしていた。わたしはいつもドラムスとベースのそばでプレイするのが好きだったからね。すると彼はわたしに前へ出るように言った。彼はわたしをステージの一番前に出したがった。あと2つのことは、まず、もっと黒人っぽく見えるようにしたがった(笑)。それから音楽的方向性でもう一点彼が言ったことは、自然に予期せぬものを出せ、ということだった。だからわたしはそうした。それから何年か後、彼はわたしにリハーサルをして欲しくないと言った。なぜなら、わたしが次に何をプレイするかわかってしまうからだ。彼にはギターでちょっとしたアイデアがあることが後でわかった。彼は自宅にジミ・ヘンドリクスを住まわせていたんだ。ジミが亡くなる前ね。彼はギターの力が音楽をある高いレベルに持ち上げることができるとわかっていた。彼はそれまでバンドにいたギタリストとではそれができなかった。わたしが思うに、ムトゥーメ、マイケル、レジーといった連中がわたしのことを高く評価して、そのことをマイルスに話してたんだろうね。"

- 振り返ってみて、あなたはこのバンドに何をもたらしたと思いますか?

"彼が求めていたことは明らかだ。バンドを拡張したいということだった。わたしのプレイの経験からミュージシャンは、他のミュージシャンに周辺のミュージシャンを、またそのミュージシャンの内側に影響を与え、より高いレベルに引き上げることができるものだ。そしてマイルスは間違いなくそんな人種のひとりだ。彼はいつも同じような資質を持ったミュージシャンを探していた。ジョン・コルトレーン、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、そうした名前と並ぶ連中なら誰でも、それぞれの繊細さによってそれぞれをより高みに持っていける。彼はわたしの中にもその資質を見出したんだと思う。だからバンドは前進、進化したんだろう。バンドの進化を見るとき、1973年の最初のプレイとプレイを止めた1975年の演奏を見れば明らかだ。彼の作品は百万光年の差があるよ。"

- 最後の質問です。あなたにとってマイルス・デイビスとは?

"おおっ、どこから始めようか?どれほど素晴らしい人間か。何と素晴らしい教師か。彼は自身の周りにどのような要素を置けばいいか誰よりもよくわかっていた。本当だ。彼は知性、育ちという点で完璧な男だった。知的な両親、家族、そして経験。経験は美徳だ。マイルスはあらゆることを経験していた。彼の周りにいれば、そして知性を持っていれば、必ず何かを学べるだろう。バンド演奏以外の時間で過ごした時間は、時の流れとともにただ素晴らしく報われるひと時だった。"





全盛期の巨大なアフロヘアーとその巨漢ぶりに比べれば、晩年の彼は若干 '縮んだ' ように見えます。とにかく 'エレクトリック・マイルス' 期のプレイの印象が強く、エレクトリック・ギターはもちろん、各種パーカッション、そして1975年の来日時には執拗なデイビスの指示にキレてしまったアル・フォスターに変わりドラムを叩くなど、そのマルチ・プレイヤーぶりもアピールしました。当時の 'スイングジャーナル' 誌によれば、"Maestro製のFuzz Tone(FZ-1Sか?)、それにMXR Phase 90という変調器、テーブルの下には3台のペダルを用意している" としており、また、市場で出回っているブートレグの映像を見ると、1973年のモントルーやウィーンのステージでは、足元に当時の新製品であるエンヴェロープ・フィルター、Musitronics Mu-Tron Ⅲがチラッと映っておりますね(その他、メーカー不詳のグレーの筐体によるワウペダルを踏む写真あり)。ちなみにギターだと、冒頭で紹介したウィーンの公演で用いるVox Phantomの12弦はかなりマニアックなセレクトだと思いますヨ。 しかし、ピート・コージーの最もユニークなアイテムとして、1975年の来日時に持ち込んだアタッシュケース型のポータブル・シンセサイザーがあります。





1971年に英国のEMSが開発したSynthi A。まだまだモノフォニックのアナログ・シンセ黎明期、記憶媒体のない本機をSonyのカセット・レコーダー 'Densuke' と共に用いることで、実に前衛的な 'ライヴ・エレクトロニクス' の効果を生み出しておりました。1975年の 'スイングジャーナル' 誌でもこう取り上げられております。

"果たせるかな、マイルスの日本公演に関しては「さすがにスゴい!」から「ウム、どうもあの電化サウンドはわからん」まで賛否両論、巷のファンのうるさいこと。いや、今回のマイルス公演に関しては、評論家の間でも意見はどうやら真っ二つに割れた感じ。ところで今回、マイルス・デイビス七重奏団が日本公演で駆使したアンプ、スピーカー、各楽器の総重量はなんと12トン(前回公演時はわずかに4トン!)。主催者側の読売新聞社が楽器類の運搬に一番苦労したというのも頷ける話だ。その巨大な音響装置から今回送り出されたエレクトリック・サウンドの中でファン、関係者をギョッとさせたのが、ギターのピート・コージーが秘密兵器として持参した 'Synthi' と呼ばれるポータブル・シンセサイザーの威力。ピートはロンドン製だと語っていたが、アタッシュケースほどのこの 'Synthi' は、オルガン的サウンドからフルートやサックスなど各種楽器に近い音を出すほか、ステージ両サイドの花道に設置された計8個の巨大なスピーカーから出る音を、左右チャンネルの使い分けで位相を移動させることができ、聴き手を右往左往させたのも実はこの 'Synthi' の威力だったわけ。ちなみにピートは、ワウワウ3台、変調器(注・フェイザーのMXR Phase 90のこと)、ファズトーン(注・Maestro Fuzz Toneのこと)などを隠し持ってギターと共にそれらを駆使していたわけである。"





実際この '右往左往ぶり' は、1996年にリマスタリングされた 'Agharta' 完全版の二枚目最後のところ(オリジナル版では割愛されていた部分)で存分に堪能することができます。また1974年の 'Get Up With It' に収録された 'Maiysha' では、ギターを本機の外部入力から通し、Synthi内臓のLFOとスプリング・リヴァーブをかけた奇妙なトレモロの効果を聴くことができますね。



さて、そんな 'エレクトリック・マイルス' 期に対する総括として、ピート・コージーはジョン・スウェッド著 'マイルス・デイビスの生涯' でこう述べています。

"それは人生そのものの音楽だった。つまり浄化であり、蘇生であり、堕落だった。とてつもなく知的でありながら、野卑でもあった。俺たちはある種の世界を作り出し、リスナーにいろんな経験をしてもらい客席との思考交換を目指したよ。"


こんなギタリスト、もう二度と出て来ない・・。




1 件のコメント:

  1. アガ、パンでノックアウトされてから一生懸命ピート情報さがしましたが、インアたビューなど凄い情報本当にありがとうございます。

    返信削除