2016年2月2日火曜日

書を捨てよ、街へ出よう - 後編 -

ファンクと現代音楽を、まるで秤にかけたかのようなバランスで釣り合いを取る ‘On The Corner’ の隙間を埋めるように作用しているのが、インドの民俗楽器であるシタールとタブラの響きである。インドの民俗音楽ではなく民俗楽器、つまり、ジャズにおいてインドの古典音楽が持つ即興演奏の構造にアプローチしたジョー・ハリオットやドン・エリスとは違い、あくまでエスニックなカラーとしてのインドという点では、1960年代後半のザ・ビートルズを始めとしたサイケデリック・ロックに追従している。実際、デイビスが196911月から19702月まで断続的に行ったセッションは、まさにデイビス流のサイケデリックなドローンの実験に費やされた最初の試みである。ビハリ・シャルマ、カリル・バラクリシュナらが奏でるシタール、タンプーラ、タブラを、デイビスなりの遅れてきたサージェント・ペパーズの衝撃と捉えてもそう不思議ではない。ある意味では時代のサウンドだったわけだが、1972年の ‘On The Corner’ ではそれらとまったく別のアプローチで、積極的にリズムのパーツとして分解したように作用している。コリン・ウォルコットのシタールはほとんどスパイス程度の役割に後退しているのに対し、バダル・ロイのタブラは錯綜するポリリズムの基礎ビートとして、この見失いそうなリズムの頭を示すメトロノームの役割を果たす。ムトゥーメのコンガやスリット・ドラムス、ドン・アライアスの雑多なパーカッションも、ミックスのバランス上タブラより低い位置に抑えられているだけに、タブラのよく通る乾いた直線的ラインが耳を捉える。実際、デイビスのセッション開始のキューは常にタブラから始められ、そこにひとつずつ楽器が折り重なっていくものであった。



インドとデイビスを繋ぐ興味深いもののひとつとして、19702月にリリースされた一枚の7インチ・シングルがある。それはちょうど ‘In A Silent Way’ ‘Bitches Brew’ の間隙をすり抜けながら、ほんの少しだけ、デイビス言うところの半歩先を行った姿をみせる短い断片’ を披露した’Bitches Brew’ のレコーディング後、再開されたセッションにやってきたのはインドやブラジルの民俗楽器を持って現れた怪しい風体の姿。スタジオ内にカーペットを敷き、まるで露天商の如く楽器を並べて座っている姿を見て、デイビスいわくリビング・ルームのようだと言わしめたが、1969年の11月に始まったこのレコーディングは、断続的に翌年2月まで行われ、その中の一部を編集したものが上述のシングル盤 ‘The Little Blue Frog c/w Great Expectations’ となった。すでに ‘In A Silent Way’ の衝撃が落ち着き、早くも二枚組の大作である ‘Bitches Brew’ のアナウンスが行われようか、という時期に、これら二作品よりも後にレコーディングされたものがひっそりとディスコグラフィーを飾ったのだから、それまでのデイビスにとっては前例がないことである。当時、このシングル盤がどれほど評判となり、またヒットチャートを賑わせたのかは分からない。そもそもシングル盤とは、ラジオ局やバーのジュークボックスなどで宣伝するための商品であり、いわゆる売れ線としてタイアップを呼び込むものでもある。ところがこのシングル盤、むしろ、当時のデイビスが展開していたエレクトリック・サウンドをさらに抽象化したような混沌に満ち溢れているのだ。この2曲は、’Great Expectations’ 1974年のアンソロジー的作品 ‘Big Fun’ で、’The Little Blue Frog’ 1998年の ‘The Complete Bitches Brew Sessions’ というボックスセットで、それぞれ完全版の姿を公開している。しかし、ここでその演奏を検証することは無意味だろう。むしろ強調したいのは、その無駄に長い演奏からテオ・マセロが2分弱の編集をして断片 とする混沌の姿と、’On The Corner’ プリ・プロダクションで描かれる青写真を結び付けることにある。実際、この2曲の完全版でみせる姿のほとんどが明確な着地点もなく、ひたすら繰り返すことの冗長に終始しているのは一聴して明らかだ。以下は、そのときのレコーディングに参加したハービー・ハンコックの証言である。

確か僕達は、あれはいったい何だったんだと、頭をかきかきスタジオから出て来たんだったよ。おもしろかったことはおもしろかった。しかし、僕達にも良いのか悪いのか、さっぱり見当がつかないんだ。とにかく変わってた。

実際、この奇妙なレコーディング・セッションの様子はそのまま、19726月の ‘On The Corner’ 制作においても発揮されている。スコアを持って現れたバックマスターはもちろん、明確な全体図も示されず急遽参加したデイヴ・リーブマン、バダル・ロイらの困惑ぶりは、デイビスが本作品で求めていたプロセスの重要な要素となる。しかし、その不明瞭な地図が指し示す行き先は、テオ・マセロによる二重の隠蔽工作により、さらに意味不明な断片の完成図として受け取ることの困惑へと変わる。それは、このバダル・ロイとデイヴ・リーブマンらの発言に集約されるだろう。

バダル・ロイ
正直にいえば、わたしはレコードができたときに一回聴いただけだった。そしてレコードが終わった瞬間、忘れることにした。どうしても好きになれなかったんだ。CDの時代になって、ある日、息子が学校から帰ってくるなり、興奮して叫んだ。「父さん、すごいじゃないか!『オン・ザ・コーナー』で演奏しているじゃないか!」。息子は『オン・ザ・コーナー』を再発見したんだ。それがきっかけになって、わたしは『オン・ザ・コーナー』を何度か聴いてみた。そしてわたしも好きになった。

デイヴ・リーブマン
当時、わたしはこの作品をまったく理解できなかったし、ただ であるとしか思えなかったよ。コンセプトや音楽的な方向性がわからなくて、しかも彼のバンドに入って最初の6ヶ月くらいは、雑然としてたんだけど、徐々に彼がやろうとしていることを理解し始めたんだよ。でもはっきり言うと、20年、30年経って、やっと当時のマイルスのコンセプトがわかった気がするんだ。きっちりとまとまっていなかったことが逆に魅力的で、当時としては、とても斬新な音楽スタイルだったと思う。そして ‘On The Corner’ の影響で、1970年代以降のジャズは、様々なジャンルの音楽が最も融合した時代となったのさ。そして、それはマイルスが成し遂げた音楽への大きな貢献の一つだったんだよ。

話を戻せば、このシングル盤では当然 完全版とはミックスのバランスが変わり、ドラムスよりもベース・ラインがビートの中心に据えられている。各楽器の錯綜する細かなパーカッシヴ的アプローチは、早くも ‘On The Corner’ の予兆を感じさせるが、むしろ、長いジャムセッションの一部を切り出した断片の唐突さに、演奏の中心点をずらしながら、聴き手に積極的なチューニングを求めてくる ‘On The Corner’ のコンセプトの萌芽をみる。ちなみに197211月リリースの ’On The Corner’ からは、アルバム一曲目のメドレーから ‘Vote for Miles’ と、’Black Satin’ をタイトル変更した ‘Molester’ の二曲がシングルカットされている。

このようなテオ・マセロの編集におけるテクノロジーの積極的な活用は、他のプリ・プロダクションにおけるエレクトロニクスの 'ギミック' でも存分に発揮されている。CBSの技術部門が製作したElectric SwitcherInstant Playbackと呼ばれる機器は、アルバム全体を左右に激しく錯綜するパンニングの定位として、この ‘On The Corner’ の不条理な世界を強調する。すでにCBSの技術部門は、’Bitches Brew’ における印象的なエコーを放つトランペットの響きを生み出すため ‘Teo 1’ と呼ばれる機器を製作している。1998年、CBSが大々的にマイルス・デイビスのカタログを手直した際にデジタル・リマスタリングとリミックスを担当したマーク・ワイルダーの言によれば、それは、テープ・ループ1本に録音ヘッド1つと再生ヘッドが最低4つは備えられたテープ・エコーであるという。この後、196911月の ‘Great Expectations’ ではさらにトランペットへの加工は大胆となり、翌年3月にレコーディングされ、1974年の ‘Big Fun’ で公開された ‘Go Ahead John’ に至って、そのまま ’On The Corner’ に先駆けたようなテクノロジーとミックスの最初の成果を発揮する。それは ’Jack Johnson’ 譲りのロック・ビートをバックに、いわゆるパンニングというよりかはスイッチャーを交互に切り替えながらデイビスの持つ二面性のイメージを強調した。このような 'ギミック' はさらに錯綜する ’On The Corner’ において、ステレオを最大限に活かしたアルバム全体に横溢するデイビスの分裂したイメージへと拡大する。

さらにブラックの視点からみると、R&Bとシタールは特別不思議な関係というわけではなかった。大ヒットしたザ・デルフォニクスの ‘Didn't I (Blow Your Mind This Time)’ やザ・スタイリスティクスの 'Your Are Everything' を始め、すでにMFSBによるフィラデルフィア・ソウルのプロダクションにおいて、シタールを隠し味的に用いるのは当然となっており、また、デイビスも ‘On The Corner’ のアイデアをムゥトーメに話した際、MFSBの中心人物トム・ベルのアイデアをヒントにして練っていると話しながら、19701月にレコーディングした ‘Guinnevia’ のテープを参考として寄越したという。もちろん、ここには ‘On The Corner’ 制作の直前まで進行していた ‘Red China Blues’ セッションの仕事が絡んでくる。当時、アイザック・ヘイズの ‘Shaft’ やカーティス・メイフィールドの ‘Superfly’ のヒットをきっかけに、いわゆるブラックスプロイテーション映画の興隆があった。黒人を主人公にしたアクション映画は、それまでの黒人たちが置かれていた状況を一変させ、以後、雨後の筍のように同様の映画が乱発された。デイビスも、そういった作品を得意とするウェイド・マーカスをアレンジャーに呼び ’Red China Blues’ というシングル盤を制作したが、結局リリースされたのは1974年である。’On The Corner’ の結果を鑑みたとき、この ‘Red China Blues’ はストレートに同胞たちに受ける要素を持っていた。むしろ、デイビスらしくないとさえいえる仕事ぶりなのだが、ここから ‘On The Corner’ への転回について考察してみる価値はあるだろう。同時期、デイビス同様にファンクへと接近し、スカイハイ・プロダクションを迎え制作されたドナルド・バードの ‘Blackbyrd’ やハービー・ハンコックの ‘Headhunters’ が、従来のジャズの枠を超えR&Bの層に受け入れられたことと ’On The Corner’ への転回 から惨敗の流れは、そのままジャズの制作システムと聴衆が大きく変化したことを如実に物語っている。CBS制作の ‘On The Corner’ PR用広告に添えられていたキャッチコピー「マイルス・デイビスと共にストリートを歩き、舗道の人たちの言葉に耳を傾けよう、それはその地区に暮らす人たちの喜び、苦しみ、美しさが凝縮された音楽。耳を澄ましてみよう、世界で最も美しい場所のひとつに」とは裏腹に、1970年代以降の同胞が求める連帯感は、混沌とした制作のプロセスをパッケジする ‘On The Corner’ よりフォミュラ化する音の持つパッケジの洗練さであった。そこには、一枚岩のように誇っていたブラックによる共同体への希求は過去のものとされ、あらゆる '階層' へと振り分け、直されていくフュジョンに象された人たちの容としてむことができる。すでにストリトから遠く離れたスタとしてのデイビスが創造する混沌の世界は、コー・マッコイが描くグラフィックトのでもって近づこうとすればするほど、巨大なアフロヘアと共に洗練された身のこなしで、白人に兼ねなく街を闊することを求めるブラックとは相容れなかったのである。それは、すでに人が米国社にとって理解され難いノイズ の存在ではなくなったことの証明でもあった。

‘On The Corner’ のレコディングセッションを考える上で、いわゆるマイルスデイビススクの有能な卒業生たちやジャズ畑からの加と、まったく偶的に呼ばれて加したミュジシャンたちとの混合した関係がある。その スクル卒業生 であるジョンマクラフリン、ハー・ハンコックとチックコリア、ベニー・モウピン、ジャックディジョネット、そしてジャズ畑の新人であるデイヴブマンやカルロスネット、ロニー・リストンスミス、アルフォスタ、ビリー・トらに、引きき前年のコンサトバンドからマイケルヘンダソン、ドンアライアス、ムトゥーメが参加して、デイビスの意図するグルーヴを支える役割を果たしている。ここに新たなメンバーである、インドの民俗楽器を操るバダル・ロイ、コリン・ウォルコットと、それまでとは畑違いのジャンルからデイヴィッド・クリーマーやハロルド・ウィリアムズを加えて、さらに、デイビスと共に制作側に立つ人間ながら演奏者としても参加するポール・バックマスター、テオ・マセロらが ’On The Corner’ のクレジットを飾っている。その他、ハロルド・ウィリアムズの紹介により、以降のコンサートバンドから加入するレジー・ルーカスも参加していたのではないか、とも言われているが、残念ながら確認のほどは取れていない。このような事態となったのは、スケジュルの都合がつくメンツを連れてくるようにと口コミり、参加する演奏者が各々連れてきた結果であった。もしくはレコーディング・セッションですべて完成させようとせず、テオ・マセロの緻密な編集作業を念頭に置きデイビス自ら狙っていたものとも考えられる。実際、これらのクレジットはさながら覆面バンドの如くアルバムでは伏せられていたのだから。この 'On The Corner' におけるクレジットの '隠蔽' については、'スイングジャーナル' 誌1973年7月号のインタビューでこう答えている。

"レコードをじっくり聴いてもらいたかったからだよ。白人の批評家ときたら、名前を見ただけで、黒人ミュージシャンの悪口を言うからね。彼らには、我々がどう感じているかなんてことは、これっぽっちもわかっちゃいないんだ。そんな連中には、オレのレコードについて何かを書くなんて許せないよ。だから名前を外したんだ。誰がやってるのか分からなければ、何も言えなくなるんじゃないか。コメントなんてしてもらいたくない。"

この中から真っ先にデイビスのお眼鏡い叶ったのが、デイヴ・リーブマンとロニー・リストン・スミスのふたりだ。すでに、アルバム製作後の長期ツアーを見越して自らのコンサートバンドへの参加を打診したというが、スケジュールの都合でリーヴマンは翌年の1月、リストン・スミスは3月にそれぞれ遅い加入を果たすこととなった。そして、ディジョネットに加えて参加したビリー・ハートとアル・フォスターらふたりのドラマーから、フォスターもまたデイビスの熱烈なラヴコールを受けたひとりである。リーヴマン同様、出演するクラブに通い詰めて口説き落とされたのだ。ちなみにフォスターは、3日間に渡って設けられた 'On The Corner' レコーディングのうち、6月12日のセッションでディジョネットに代わって参加し、ビリー・ハートとのツイン・ドラムスで 'Ife' と 'Jabali' の2曲を叩いている。



しかし、このツインドラムスの編成によるファンクのアプロチは示唆的である。すでに ’Bitches Brew’ においてディジョネットとレニー・ホワイトの編成を試みていたが、ここでの編成に大きな影響をえているのは、同時代のジェイムズブラウンのバンドであるザJBズを支えたふたりのドラマ、クライドスタブルフィルドとジャボことジョンスタクスであろう。つまりディジョネット以降、デイビスにとってファンクをキープするドラマーの選択は重要な問題であった。度々、穴埋め的に参加していたビリー・コブハムはもちろん、1971年のツアーメンバーであった ウンドゥクことレオンチャンクラ、そして従来のジャズ畑からの選考にこだわらず、ジミヘンドリクスのバンドオブジプシズからバディマイルス、ファンカデリックのティキことレイモンフルウッドらにもをかけていた。おに入りはスライ&ザファミリー・ストンのグレッグエリコだが、一足早くウェザー・リポトのツアメンバに加入した後であった。またエリコの後釜として、アルバム ‘Fresh’ 加するアンディニュクの叩き出す ‘In Time’ をデイビスが貪るようにいていたことも特筆したい。そして、‘On The Corner’ 直前まで進行していた ’Red China Blues’ セッションに加するプリティことバディは、まさにファンクマスタともいうべきグルヴを叩き出すドラマとして有名であったが、果たしてデイビスはをかけたのであろうか。結局は、ファンクと最も遠いアルフォスタを長きに渡り起用することを考えれば、典型的なパディのいグルヴと、これ以降のコンサトバンドで展開するフォスタ扱い方の違いにデイビス流の特異なファンクのアプロチが見えてくる。それは、この ‘On The Corner’ 全体を貫いている分散化されたリズムのパーツとして、個々の律動から全体を統合するアンサンブルへと到達するプロセスに関心を示すものとして現われている。ファンクもまた、デイビスにとっては目指すべきものではなく解体されるべきものであった。

ジャズのクリティクが持つマルクス主義的進歩史観は、マイルス・デイビスに大きなモダン・ジャズの椅子を用意してきた。転向したとされる ‘In A Silent Way’ ‘Bitches Brew’ のときでさえ、務めてジャズの著述家たちは、彼の行動にモダン・ジャズの明日を占うマイルストーンの一投があると納得させてきた。しかし ‘On The Corner’ は、その原理主義に対するアンチテーゼとして強烈に響く。批評に必要なパーソネルも編集の痕跡も隠蔽して、ふざけた漫画の黄色いジャケットで舌を出してみせる。それは、マイルス・デイビスがどこからやってきて、どこへ向かうのかという進歩史観の歩みを止めた瞬間でもある。また、不必要に黒人としての連帯感を求めたアルバムでもない。彼は、同胞の大半がいつも同じレコードを聴いて頭を固定させ、おなじみのものと戯れている姿に失望する。ブルーズにしがみつき、ファンキーであることやブラザーであることを演じている黒人たちに向かって、より高度なアートフォームを提示して啓蒙することが自分の役目だとまで述べるのは、急速に変化する時代と格闘しなければならなくなったデイビス自身を象徴している。これは1970年代以降、大手を振って街を歩けるようになった黒人たちと アウトサイダーとしてのブルーズやR&B、ジャズなどの黒人アートにかかわる根幹的な問題提起として読めるだろう。’On The Corner’ が用意する難解なパズルは、前近代的なエンターテイメントとしてのジャズの終焉と、巨大なロック・ビジネスを通じてジャンルという鋳型に流し込まれる狭間で、改めて自らの居場所を確保する、強力な磁場のように影響力を放つマイルス・デイビスの姿を提示する。そこには常にが孕んでいるのだ。

最後に、上でも少し触れたが、スイングジャーナル19737月号のインタビューで、デイビスが ‘On The Corner’ のセールス惨敗を見越したと思しきコメントがあるので抜粋したい。このインタビューは同年6月の来日公演を前に、51日のサンタモニカはシビック・オーディトリアムの楽屋で行ったインタビュー。バンドはインドの楽器群含め総勢10名に膨らんでいたターニング・ポイントの時期である。

-       さっきあなたは、聴衆のことを気にしないといったが、それでは、あなたは音楽を何のために演奏しているのか。聴衆のことをどう思っているのか。

聴衆について、オレがいつも考えているのは、人々をより高い水準に導きたいということだ。彼らは、いつも同じレコードを聴いて頭を固定させてしまう。しかし、いまは1973年なんだ。テレビでやっている音楽だって、60年代から少しも進歩していない。彼らを導かないといけないと思う。

そして、この先トランペットで何かやれそうな可能性はあるのか、という質問を受けてデイビスは・・

いつも自分のやっていることが、いま世界で起こっていることに遅れているかピッタリしているかどうかという風に考えるんだ。自動車の衝突音、街の音、それに合わせたりぶつけたり、ただ同じことの繰り返しは出来ないな。だいたい、洪水みたいに出てくるレコードを聴いたって、どのレコードもリズムは皆同じじゃないか。皆メロディばかりに気を取られていて、リズムはさっぱりダメなんだ。我々はメロディのためのリズム(Rhythms for Melody)を演奏しているんだ。





19731月のニューヨークはヴィレッジ・イースト、前年6月の ‘On The Corner’ レコーディング以来、初めてデイヴ・リーブマンの参加したライヴ。まだ、タブラのバダル・ロイとエレクトリック・シタールのカリル・バラクリシュナ在籍中の混沌とした時期である。撮影と編集は当時ニューヨーク在住であったカメラマンの井口鉄平氏。



参考文献
完本 マイルス・デイビス自叙伝
マイルス・デイビス / クインシー・トゥループ著 中山康樹訳 (JICC出版局)
マイルス・デイビス物語
イアン・カー著 小山さち子訳 (シンコーミュージック・エンタテイメント)
マイルス・デイビスの生涯
ジョン・スウェッド著 丸山京子訳 (シンコーミュージック・エンタテイメント)
SAX & BRASS magazine 2013年秋号 Vol.28 (リットーミュージック)
エレクトリック・マイルス 1972 - 1975 〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相
中山康樹著 (ワニブックス【PLUS】新書)


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