●AMMmusic 1966 (Matchless
1966)
ケルンの音楽大学に留学してクラシックと現代音楽を専攻し、カールハインツ・シュトゥックハウゼンに師事しながら、ジャズメンたちとAMMという即興グループを組織し、以後は、師であるシュトゥックハウゼンを批判して ‘毛沢東主義’ に傾倒しながら ’人民のための音楽’ と称した素朴なフォークソングを書き、積極的に政治活動を行ったコーネリアス・カーデューも、まさにそんな時代の生き方をしたひとりでしょう。
さあ、やってきました!’サックスのヘラクレス’ の異名を持つドイツ・フリーの重鎮、ペーター・ブロッツマンとコンドーさんによる ‘Die Like A Dog Quartet’ 45分33秒一本勝負。しかしコンドーさん若いなあ。ブロッツマンは8:20〜の高音域のフリークトーンに対して下から不気味に歌うマルチフォニックス奏法にゾクゾクします!コンドーさんは珍しくベル側のマイクにSD Systems LCM77を用いておりますね。ロックにおける ‘衝動’ というのが、大音量でコードをかき鳴らした時のディストーションによる轟音の歪みや、記憶の彼方に飛んでいくフィードバックのノイズだったりするのですが、フリー・ジャズの ‘快感’ というのも実は ‘同様の’ カタルシスから共有されています。しかし、ここに紹介するグループ、スポンティニアス・ミュージック・アンサンブル(SME)はちょっとその趣が異なるものです。まず、典型的なフリー・ジャズのカタルシスを避け、静的な不協和音で、個々の緩急よりも ‘グループ’ としてある一定の枠をはみ出さないよう気をつけている。それは、コンセプトの下地に現代音楽からのモチーフを活用しながら抽象的な響きを紡ぐ姿勢にも現れています。ここでは、即興演奏は ‘手クセ’ 的なものとして批判的に扱われ、デュオを最小単位に、あらゆる楽器の組み合わせによる ‘アンサンブル’ が現代音楽のテクストに相当する ‘しばり’ として、限られたスペースを不確定的に積み上げた音響として構築するのです。
●Challenge / Spontaneous Music Ensemble (Emanem 1966)
●Withdrawal / Spontaneous Music Ensemble (Emanem 1967)
●Karyobin / Spontaneous Music Ensemble (Island 1968)
●Karyobin / Spontaneous Music Ensemble (Island 1968)
SMEの ‘Challenge’ と ‘Withdrawal’ は、1966年から1967年にイギリスでフリー・ジャズに触発された先鋭たち、ジョン・スティーブンス、エヴァン・パーカー、デレク・ベイリー、ケニー・ウィーラーを中心としたグループの ‘実験’ の記録です。彼らの試みは、1968年の ‘Karyobin’ でひとつの成果を示すのですが、この ‘冷たいアンサンブル’ は当時主流の米国のフリー・ジャズからは出てこないもの。オーネット・コールマン的な4ビートの変則的スタイルによる ‘Challenge’ から、実験映画のサウンドトラックに使われ、完全にドローンの音響的構築へ向かう
‘Withdrawal’ で昇華し、いよいよ ’Karyobin’ へと到達する。現在、SMEのアルバムは ‘Emanem’ というレーベルからCD化されており、細々ではありますが未発表曲なども発掘しており、(たぶん)あの時代の
‘前衛’ 世代が頑張って製作しているのかと思うと胸が熱くなります。どこにいるのか分からないリスナーを前に、ほとんど ‘ボランティア’ のような心境であり、また、その一途に頑固な気質こそ '前衛' そのものではないでしょうか。
このフリージャズにおいて金管楽器、特にラッパの '日陰者' 的不遇な扱い方は目を覆いたくなります。オーネット・コールマンとドン・チェリー、兄のアルバート・アイラーと弟ドナルド・アイラー、弟のウェイン・ショーターと兄アラン・ショーター、レスター・ブウイはアート・アンサンブル・オブ・シカゴの一員としてその個性を発揮しました。う〜ん、このなんとも言えない日陰的に地味なサポートぶり・・。これは楽器の構造上、明らかにサックスより3本のピストンと '替えのきかない' 唇を発音体とするラッパの限界であり、それこそコンドーさんのようにエレクトロニクスの力を借りて違う発想からアプローチするしかないのです。もしくは、'静寂' の中から微細な騒音を掻き集めるアクセル・ドーナーの 'ケージ的な' 手法に活路を見出すか・・(循環呼吸でTVの '砂嵐' のような効果を出しておりますね!)。
管楽器の特殊奏法は、さらにフリージャズにおいて1本よりは2本、というように '多楽器主義' であらゆる響きを獲得する方向に走り、沖至さんのラッパとフリューゲルホーン、まだ 'アンプリファイ' する前のコンドーさんのラッパとユーフォニアムによる '2本吹き' 奏法に活路を見出したりもしましたが、やはりこの分野ではラーサン・ローランド・カークの右に出る者はいないでしょう。ここでは 'アナキズム' の大家、ジョン・ケージとの奇妙なコラボレーションが面白い。
う〜ん、なにやら頭デッカチな空気も漂い始めてまいりましたが、この '突然変異体' な大男、ソニー・シャーロックを聴けばそんな思いも吹っ飛びます。妻リンダとの激烈な演奏を記録した 'Black Woman' (Voltex)や 'Monkey Pockey Boo' (BYG)を大音量で浴びようものなら間違いなく警察に通報されるレベルですが、こうやって '動く' 彼らを眺めると、意外に理知的なスタイルと共に分かりやすいものだったことが理解できるでしょう。シャーロックはコルトレーンのスタイルをギターで、リンダはトレモロ的な絶叫で器楽的にアプローチと、前衛まっただ中な良き時代の風景です。
SMEの ‘Withdrawal’ のジャケットや ‘Challenge’ のジャケット内にある演奏風景を写したフォトを見ていると、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ、‘ブリティッシュ・インヴェンション’ と呼ばれるジェフ・ベックやエリック・クラプトンらロックが生まれた ‘ガレージの衝動’ の一方で、まるで哲学書や現代音楽のレコードを片手に、狭いガレージの倉庫に集まってフリー・ジャズの ‘実験’ に熱を上げていた若者たちがいたことを想像します。そして、いかに1960年代が熱い時代であったのかを思い知らされるのですが、そんな時代の ‘骨董品’ は、熱狂的な ‘政治の季節’ を乗り越え、何度でもダウンロードし、書き換えられるデータとしての音楽の時代にどう響いているのでしょうか。
すでに ‘個性’ であるとか ‘主張’ などという ‘自分探し’ を徒労と感じ、おびただしい情報の中から ‘受動的’ に摂取するだけの若者にとって、このエゴイスティックなまでの ‘騒音’ の塊は、ただただ ‘ウザい’ ものに響くだけでしょう。しかし、ここには圧倒的な力によって場を占拠し、エゴがそのまま ‘個’ の存在として認知するしかない強力な ‘磁場’ を放っています。常に、崖っぷちであらゆる ‘フリー’ を選択する瞬間だけがここにはあるのだ。そういう意味では今、最も時代に ‘欠けている’ 音楽であるとだけは間違いなくいえるでしょうね。
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