2016年4月1日金曜日

革命無罪 造反有理

 歳と共にめっきり聴かなくなってしまった音楽というのがあり、フリー・ジャズと呼ばれるものもまさにそういった類いのひとつです。全盛期ともいうべき1960年代からセクト化して混迷と共に袋小路へ至る1970年代まで、そのアナーキーな感染力は世界中で猛威を奮いました。米国のESP-Diskに触発され、ドイツのFMP、オランダのICP、フランスのBYG、イギリスのIncusといったレーベルが組織されましたが、欧米では常に、このような音楽は政治活動と共に強固な支持基盤を得ており、それらは連帯をもって、ある種の社会文化的な革命を目論んでいたと思います。結局は、音楽が啓蒙により何かの代弁者として機能していた時点ですでに相当数のリスナーがいなくなり、社会とほとんど切り離された存在として古びてしまう。まあ、こういったバックグラウンドはともかく、まず音楽自体に、ある種の選民意識のようなものがこの手のジャンルには当初から付随していたのは否めないでしょうね。俗に1960年代を政治の季節と呼ぶように、この10年に青春を捧げた者たちは親を始めとした前世代の価値観の否定、破壊から新しいものを生み出そうという弁証法的な衝動と、ワケのわからないものほど新しいという進歩史観でもって前衛に高い地位を与えました。モダン・ジャズにあった様式は解体され、即興という名のノイズ、一期一会によるハプニングの場こそ創造と参加の運動体であるというのが1960年代の共通認識だったのです。フリー・ジャズはロックや現代音楽などと共闘して、前近代からのプロフェッショナルにおける権威の否定が、そのまま、アマチュアリズムの衝動と社会参加を呼び込むコミューン的共同体となることを夢想します。

AMMmusic 1966 (Matchless 1966)



ケルンの音楽大学に留学してクラシックと現代音楽を専攻し、カールハインツ・シュトゥックハウゼンに師事しながら、ジャズメンたちとAMMという即興グループを組織し、以後は、師であるシュトゥックハウゼンを批判して 毛沢東主義’ に傾倒しながら 人民のための音楽’ と称した素朴なフォークソングを書き、積極的に政治活動を行ったコーネリアス・カーデューも、まさにそんな時代の生き方をしたひとりでしょう。

こう書いていくだけでも、いかに音楽の中身よりも外側について述べなければならないかが分かりますが、ともかく即興演奏というものを行為という場にまで解体しているだけに、例えば管楽器の軋むようなノイズ、共鳴する微細なさわりに至るまでが聴取の範囲として拡大されています。AMMのような即興と聴取の行為そのものを提示するグループは、フィードバックするアンプリファイやトランジスタ・ラジオなどの偶発的な異物にまで即興演奏の範囲を広げるのです。この為、ただでさえ喧しい騒音をある程度の音量に上げて聴かなければその良さ、面白さが伝わりません。しかも、そのほとんどが ‘60分一本勝負的長尺な展開だけに、ある意味で苦行のような態度で挑まなければならない。また、正直レコードやCDではよく分からないものでも、ライヴで体験するとすんなり身体に入ってくるというのも特徴なだけに、積極的に聴取を要請する意識が求められます。要するに心身ともに疲れ、結構肩が凝る音楽なのだ。



さあ、やってきました!サックスのヘラクレスの異名を持つドイツ・フリーの重鎮、ペーター・ブロッツマンとコンドーさんによる ‘Die Like A Dog Quartet’ 4533秒一本勝負。しかしコンドーさん若いなあ。ブロッツマンは8:20〜の高音域のフリークトーンに対して下から不気味に歌うマルチフォニックス奏法にゾクゾクします!コンドーさんは珍しくベル側のマイクにSD Systems LCM77を用いておりますね。ロックにおける衝動というのが、大音量でコードをかき鳴らした時のディストーションによる轟音の歪みや、記憶の彼方に飛んでいくフィードバックのノイズだったりするのですが、フリー・ジャズの快感というのも実は同様のカタルシスから共有されています。しかし、ここに紹介するグループ、スポンティニアス・ミュージック・アンサンブル(SME)はちょっとその趣が異なるものです。まず、典型的なフリー・ジャズのカタルシスを避け、静的な不協和音で、個々の緩急よりもグループとしてある一定の枠をはみ出さないよう気をつけている。それは、コンセプトの下地に現代音楽からのモチーフを活用しながら抽象的な響きを紡ぐ姿勢にも現れています。ここでは、即興演奏は手クセ的なものとして批判的に扱われ、デュオを最小単位に、あらゆる楽器の組み合わせによるアンサンブルが現代音楽のテクストに相当するしばりとして、限られたスペースを不確定的に積み上げた音響として構築するのです。

Challenge / Spontaneous Music Ensemble (Emanem 1966)
Withdrawal / Spontaneous Music Ensemble (Emanem 1967)
Karyobin / Spontaneous Music Ensemble (Island 1968)





SME ‘Challenge’ ‘Withdrawal’ は、1966年から1967年にイギリスでフリー・ジャズに触発された先鋭たち、ジョン・スティーブンス、エヴァン・パーカー、デレク・ベイリー、ケニー・ウィーラーを中心としたグループの実験の記録です。彼らの試みは、1968年の ‘Karyobin’ でひとつの成果を示すのですが、この冷たいアンサンブルは当時主流の米国のフリー・ジャズからは出てこないもの。オーネット・コールマン的な4ビートの変則的スタイルによる ‘Challenge’ から、実験映画のサウンドトラックに使われ、完全にドローンの音響的構築へ向かう ‘Withdrawal’ で昇華し、いよいよ ’Karyobin’ へと到達する。現在、SMEのアルバムは ‘Emanem’ というレーベルからCD化されており、細々ではありますが未発表曲なども発掘しており、(たぶん)あの時代の 前衛世代が頑張って製作しているのかと思うと胸が熱くなります。どこにいるのか分からないリスナーを前に、ほとんどボランティアのような心境であり、また、その一途に頑固な気質こそ '前衛' そのものではないでしょうか。



このフリージャズにおいて金管楽器、特にラッパの '日陰者' 的不遇な扱い方は目を覆いたくなります。オーネット・コールマンとドン・チェリー、兄のアルバート・アイラーと弟ドナルド・アイラー、弟のウェイン・ショーターと兄アラン・ショーター、レスター・ブウイはアート・アンサンブル・オブ・シカゴの一員としてその個性を発揮しました。う〜ん、このなんとも言えない日陰的に地味なサポートぶり・・。これは楽器の構造上、明らかにサックスより3本のピストンと '替えのきかない' 唇を発音体とするラッパの限界であり、それこそコンドーさんのようにエレクトロニクスの力を借りて違う発想からアプローチするしかないのです。もしくは、'静寂' の中から微細な騒音を掻き集めるアクセル・ドーナーの 'ケージ的な' 手法に活路を見出すか・・(循環呼吸でTVの '砂嵐' のような効果を出しておりますね!)。



管楽器の特殊奏法は、さらにフリージャズにおいて1本よりは2本、というように '多楽器主義' であらゆる響きを獲得する方向に走り、沖至さんのラッパとフリューゲルホーン、まだ 'アンプリファイ' する前のコンドーさんのラッパとユーフォニアムによる '2本吹き' 奏法に活路を見出したりもしましたが、やはりこの分野ではラーサン・ローランド・カークの右に出る者はいないでしょう。ここでは 'アナキズム' の大家、ジョン・ケージとの奇妙なコラボレーションが面白い。



う〜ん、なにやら頭デッカチな空気も漂い始めてまいりましたが、この '突然変異体' な大男、ソニー・シャーロックを聴けばそんな思いも吹っ飛びます。妻リンダとの激烈な演奏を記録した 'Black Woman' (Voltex)や 'Monkey Pockey Boo' (BYG)を大音量で浴びようものなら間違いなく警察に通報されるレベルですが、こうやって '動く' 彼らを眺めると、意外に理知的なスタイルと共に分かりやすいものだったことが理解できるでしょう。シャーロックはコルトレーンのスタイルをギターで、リンダはトレモロ的な絶叫で器楽的にアプローチと、前衛まっただ中な良き時代の風景です。

SMEの ‘Withdrawal’ のジャケットや ‘Challenge’ のジャケット内にある演奏風景を写したフォトを見ていると、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ、ブリティッシュ・インヴェンションと呼ばれるジェフ・ベックやエリック・クラプトンらロックが生まれたガレージの衝動の一方で、まるで哲学書や現代音楽のレコードを片手に、狭いガレージの倉庫に集まってフリー・ジャズの実験に熱を上げていた若者たちがいたことを想像します。そして、いかに1960年代が熱い時代であったのかを思い知らされるのですが、そんな時代の骨董品は、熱狂的な政治の季節を乗り越え、何度でもダウンロードし、書き換えられるデータとしての音楽の時代にどう響いているのでしょうか。



すでに個性であるとか主張などという自分探しを徒労と感じ、おびただしい情報の中から受動的に摂取するだけの若者にとって、このエゴイスティックなまでの騒音の塊は、ただただウザいものに響くだけでしょう。しかし、ここには圧倒的な力によって場を占拠し、エゴがそのままの存在として認知するしかない強力な磁場を放っています。常に、崖っぷちであらゆるフリーを選択する瞬間だけがここにはあるのだ。そういう意味では今、最も時代に欠けている音楽であるとだけは間違いなくいえるでしょうね。


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