2016年9月5日月曜日

補論: 消尽するもの

1972年の ‘On The Corner’ は、デイビスがアルバムというフォーマットにおいて試みた編集作業を軸とする最後のものである。以降、1975年の活動停止に至るまで一枚のアルバムとして完成させることを目論んだものはなく、1974年の ‘Big Fun’ 1975年の来日記念盤ともいうべき ‘Get Up With It’ は、なかなかスタジオで集中的に制作を開始しないデイビスにCBSが業を煮やし、過去に制作した未発表のテープや、その当時にリハーサルのかたちでレコーディングしていたものをコンパイルしたアンソロジー的作品集である。もちろん、デイビス自身アルバムの構想が無かったわけではなく、1973年の7月と9月にレコーディングされた素材を元に下準備は行っていた。



今度のカリプソが新しい方向を決定づけるだろう。アルバム一枚で一曲となる。

この1974年のダウンビート誌によるインタビューの発言は、実際、9月にレコーディングされたものを片面30分強の編集を施した ‘Calypso Frelimo’ として ’Get Up With It’ に収録される。また、7月にレコーディングされたものは7インチ・シングルとしてA/B面の2分弱に編集し、7311月に ‘Big Fun / Holly-wuud’ としてリリースされた。 結局、デイビスが精力的に完成させたものはこれだけであり、後は、イレギュラー的にデューク・エリントンに捧ぐというトリビュート的意味合いを持たせた ‘He Loved Him Madly’ を制作したほかはひとつもなかった。その背景にはデイビス自身の健康面の悪化による集中力の低下と、1972年から出発したコンサートバンドをライヴという現場で鍛え上げるという方向へシフトしたからだと思われる。実際、1973年の7月と9月にレコーディングされたものはほぼライヴ用のリハーサル・テイクに等しく、アルバム制作を念頭に置いた ‘On The Corner’ のような特異性はみられない。‘Get Up With It’ には ’Maiysha’ ‘Mtume’ といった、1975年のコンサートバンドで展開するレパートリーも含まれているが、この点でも従来の編集主義からライヴバンドとしてのダイナミズムをそのまま聴いてもらいたい、というデイビスの意図を強く感じる。ただし ‘Maiysha’ に至っては、それまでのリズム主導型なリフをモチーフにした展開から、よりメロディアスな方向へシフトしようとするデイビスの新たな予兆を感じさせる。これを、デイビス言うところのインスタント・コンポジションによるオリジナルなスタイルの確立とみるか、1975年の活動停止に至る音楽表現の限界と捉えるかは意見の分かれるところだろう。

ちなみにこの時期、イレギュラー的に記録され、デイビス活動停止期間中の1977年に日本でのみリリースされた作品 'Dark Magus' がある。クラシックの殿堂フィルハーモニー・ホールという不釣り合いな場所で奏でられる病的なまでのこの '音響' は、ある意味、デイビス言うところの 'インスタント・コンポジション' の極北とビ・バップ伝統のソリストを吟味する場への転換、そしてテオ・マセロの '再構築' により表出される過剰な暴力の発露となった。グループ脱退直前のデイヴ・リーブマンとコルトレーン・スクールのひとり、エイゾー・ローレンス、若干18歳の若きフレンチ・ブラジリアン、ドミニク・ガモーのヘンドリクス・マナーなギターがピート・コージー、レジー・ルーカスらとぶつかり合って '公開オーディション' と化すそれは、マセロの混沌としたミックス、編集操作によりその不条理な空間を増幅させる。ここ近年、長らくお蔵とされてきたデイビスの編集されたライヴ音源 'Miles Davis At Fillmore' や 'Live-Evel' がそれぞれ無編集版のボックスセットとして公開されているが、この 'Dark Magus' だけは、誰もがその全貌を知りたいと思いながら開けてはいけない 'パンドラの箱' のような気持ちでいるのではないだろうか。

さて、この ‘Get Up With It’ にはもうひとつ、’On The Corner’ の奇形的変奏と捉えられる一曲 ‘Rated X’ がある。’On The Corner’ 以降における編集作業を施したものとしては最もプログレッシヴで、また、デイビスがシュトゥックハウゼンの影響下において完成させた極北といえる。そもそもは1972年の9月にレコーディングされたベーシックトラックを元にプロデューサーのテオ・マセロが、その他のレコーディング・セッションから取られたデイビスの弾くオルガンをオーヴァーダブして、完全にスタジオの編集室の中でテープを切り貼りし、ミキシングコンソールによる音響的操作によって完成させたミュージック・コンクレートとなっている。以下、テオ・マセロによる制作のレシピを開いてみよう。

マイルスのオルガントラックは、実は別の曲のものだった。もともとレイテッドX” とはまったく無関係だったんだ。バンドの音が一斉になくなる箇所があるよね?それでもオルガンは鳴り続ける。あれはループだ。その12小節後、再びバンドが戻ってくる。あのトラックは編集室で作ったものだったのさ

この ‘Rated X’ という曲は、1972年のコンサートバンドにおけるオープニングのレパートリーとして用意された曲で、これは1972年の8月にスタジオでリハーサルしたものが ’Chieftain’ と誤記されて ‘The Complete On The Corner Sessions’ に収録されている。このようなデイビスのやり方は、1969年以降のコンサートバンドにおけるオープニングのレパートリー ‘Directions’ が、1968年に一度スタジオでリハーサルされているのと同じである。一方で、この編集の施された ‘Rated X’ が、そもそものベーシックトラック含めどのような意図によるセッションだったのか、未だ明かされていないものへの興味は尽きない。また、この二曲ともに変則的なクロスリズムを持つバックビートは、1990年代に現れたUKのダンス・ミュージック、ドラムンベースを先取りしたものとして捉えられてもいる。1999年のビル・ラズウェル・プロデュースによるマイルス・デイビスのリミックス集 ‘Panthalassa: The Remixes’ では、ドラムンベースのクリエイター、ドク・スコットの手により ‘Rated X’ をそのまんまアップデートするかのような類似性を発揮した。それはともかく、ほとんどテープ編集とミキングコンソールによる音響的操作のダブ的手法及び、ブレイクビーツの先駆的な 'ループ' を軸に制作された ‘Rated X’ のラディカルさは、’On The Corner’ においてリズムの断片にまで解体されたデイビスのトランペットは完全に消え去っている。それはクラスター的なオルガンの響きがミュートスイッチによる ‘On / Off’ として、ダイナミズムとグルーヴの波が遠心的な距離で拮抗する緊張感の持続においてのみ、ひたすら不穏な状態から逃れることを拒否しているようでもある。端的にこの徹底した編集作業の産物は、そのまま山のように積み上げられるアウトテイクのオープンリールこそ、ほんの瞬間を捉えることを前提とした ‘アーカイブスの構築物であることを示す。つまり、創造の過程は客観的な聴取の作業を要請するための宝の山’ に挑むことであり、それは、徹底した編集主義を貫く当時のデイビスの意図を強調するテオ・マセロの以下の発言からも読み取れるだろう。

録音の機械というのは、セッションの最中止まることはない。止まるのは、録音したプレイバックを聴き返す時だけだ。彼がスタジオに入った瞬間、機械を回し始める。スタジオの中で起こることはすべて録音され、残されるのはスタジオ内のすべての音を閉じこめた素晴らしい音のコレクションだ。一音足りとも失われていない。私が彼を手がけるようになって、彼はおそらく世界でただひとり、すべて(の音)がそっくりそのまま損なわれていないアーティストだろう。普通はマスターリールを作るものだが、それは3トラック、4トラックの開発とともにやめた。もうそういうやり方ではなく、自分が欲しいものだけを取り出し、コピーする。そのあとオリジナルは手つかずのまま、保管室に戻されるんだ。

そして 私のやったことが気に入らない者は、20年後、やり直せばいいとテオ・マセロは言葉を結んでいるが、それは、この時代のデイビスの創造性において最もラディカルな試みであった ’On The Corner’ の核心を突くものでもある。

1972年の11月にリリースされる ‘On The Corner’ を前に、デイビスはそのプロモーションの一環としてコンサートバンドによるツアーを敢行する。メンバーは、基本的に ‘On The Corner’ のレコーディング時からのピックアップで構成されていたが、新たにレジー・ルーカス、カリル・バラクリシュナ、セドリック・ロウソンという畑違いのメンツが加わり、いよいよデイビスのサウンドから脱ジャズ色が濃厚となる。公式には、1972929日にニュー・ヨークのフィルハーモニー・ホールで実況録音された ‘Miles Davis in Concert’ がリリースされたが、CBSは他に同年101日のパロ・アルト、スタンフォード大学野外ホールでの実況録音を、また、アトランティック・レコードがミシガン州アン・アーバーで開かれた野外ジャズ・フェスティヴァルに出演した910日の実況録音を、そして、914日にボストンのジャズ・クラブポールズ・モールへ出演したものを地元のラジオ局で放送用に記録したものがそれぞれ残されているが、公式リリースとしては現在まで陽の目を見ずにお蔵のままとなっている。結局、このときのツアーは10月半ばにデイビスがハイウェイでの自動車事故を起こしたことで中断され、その後の ‘On The Corner’ の売り上げに響いたとされている。しかし、冷静になってこのときの音源を聴いてみれば、あまりきちんとしたリハーサルの時間も取られず、ほぼ見切り発車的にスタートし、また従来のジャズ畑で構成された手練の奏者たちに比べ、明らかにファンクと即興演奏に不慣れな者たちの戸惑いに終始していることが分かる。実際、この物足りなさは翌年の1月にカルロス・ガーネットからデイヴ・リーブマンへ、3月にセドリック・ロウソンからロニー・リストン・スミスへ、そして4月には、リード・ギターとしてピート・コージーを加えるという荒療治で乗り切ろうとするデイビスの姿からも読み取れる。ただし、すでにこの時期において、このまま1975年の活動停止に至るまでの方向性を示す種は蒔かれていた。19734月の時点で10人にまで膨れ上がったコンサートバンドは、これまた満足に聴取できる音源が残されていないのは残念なのだが、錯綜するサウンドの渋滞を前にルーカスとコージーのツインギターを軸にして、思い切ったリズムの断捨離の見通しをデイビスに与えることとなる。それは、19726月の ‘On The Corner’ レコーディング以降、デイビスの音楽的探求に対するひとつの解答が未分化のまま提出されたことを示す。この10人からなる大所帯の編成は、197345日シアトル、412日グリーンズボロ、413日ワシントン、51日サンタモニカ、そして最終日の52日ロス・アンジェルスでの計5回の公演が確認されている。ちなみに51日のサンタモニカはシヴィック・オーディトリアムでの公演の模様は、当時「ミッドナイト・スペシャル」という番組で放送されているという。また、最終日の52日ロス・アンジェルスでの模様は、日本の「スイングジャーナル」誌によりデイビス本人のインタビューと共に取材され、(前年10月の自動車事故による後遺症のためか)スツールに腰掛けて演奏するデイビスの様子を見ることができる。

ここからデイビスは、エレクトリック・シタール、タブラ、キーボードを排したセプテット編成による新たな改革へと突き進む英断を下す。1973616日の札幌からスタートした日本ツアーは翌月3日まで続き、まだまだ未整理ながらもツインギターを基軸としたソリッドなアンサンブルを初めてお披露目した。デイビス自らYamahaのコンボ・オルガンYC-45Dを弾いて指揮者として君臨する姿は、完成されたアンサンブルをなぞるものより、未だ未分化な状態で錯綜するリズムをコントロールして、デイビス言うところのインスタント・コンポジションのプロセスを体験するところにある。興味深いのは ‘On The Corner’ でビートの基軸を示すツインドラムスの関係性がギターに移行した代わりに、アル・フォスターのドラムスはほぼデイビスのコントロール下に置かれ、いわばシーケンサー的な反復に終始するところだ。ファンクのシンコペーションにおけるビートの自律性より、デイビスが気に入ったというシンバル・ビートをアンサンブルの背景として、各々のリズムが隙間を埋めていくという志向はファンクの細分化のみならず、どこか1969年の 'In A Silent Way' で試みた手法を別の角度から '変奏' したようにも映るのだがどうだろうか。



20枚組からなるボックスセットでの ‘The Complete Miles Davis At Montreux 1973 - 1991’ から、197378日、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演した第二部の模様を聴いてみる。キース・ジャレットを擁した1971年のコンサートバンド以来、1年以上の間を置いて久しぶりにヨーロッパの聴衆の前へ立ったマイルス・デイビスは、明らかに別人の如く変貌していた。それは、音楽面で ’Bitches Brew’ のとき以上の変化と困惑をもたらしたと言える。すでに前月、日本からスタートしたこのツアーは、それまでのデイビスのグループにはいなかった人選を徹底し、さらにジャズの痕跡を消し去ったものだと捉えられた。当時の模様をジャズ評論家のレナード・フェザーは記しているが、デイビス一行は猛烈なブーイングと共に迎え入れられたという。

ジャズ史上有数のイノヴェイターとして25年ものあいだ高く評価されてきたマイルス・デイビスは、なぜ音楽の混沌とした淵に身を投じてしまったのだろう。私にはまったく理解しがたい。いまや彼は、緊密にかつ知的に構成されたアドリブ・ラインを全部捨て去ってしまった。普通のモード形式でもないし、コード展開に音楽基盤を置くわけでもなく、三つの音がはじき飛ばされたかと思うと休止、二つの音符があって休止、今度はワウ・ペダルを忙しく踏み込みながら数音しぼり出す。そうするうちにロックのヘヴィーなカオスが20分近く聴衆を包み込み、また、やおらマイルスはオルガンに向かい、無意味な音を聴衆に叩きつけた。このときついに、(フェスティヴァル期間中の)その週最初の野次が飛び出した。それでもマイルスとその共謀者たちが3部に分かれた退屈な練習曲を40分間演奏しつづけたとき、聴衆は口々に不満の声を上げ、まばらな拍手を消去した。(中略)後半のステージはテンポも少し遅くなり、リズムも前半ほどアグレッシヴではなくなっていた。そのせいか、あるいはアイドルを冷ややかに迎えたことを恥じたためか、もはや聴衆の拒絶反応は姿を消し、ステージの終わりにはかなりの拍手が沸き起こった。

このときの模様は現在、第二部を収めた放送用映像がYoutubeにアップされているので簡単に視聴することができる。フェザーの言う通り、スローダウンした ‘Ife’ から始まるバンドは少ない音数の中でファンクの構造を剥き出しにしながら、未だ定まらないツインギターのコンビネーションを前に、個々の反復から全体のアンサンブルへと到達する ‘On The Corner’ の方法論を開陳することに余念がない。そう、まだまだフォスターに無理なファンクをやらせようとするデイビスの試行錯誤が垣間見えるのだ。しかしこの年の後半から始まるヨーロッパ・ツアーでは強力な統率力の元、まったく違う地平へとバンドは疾走することとなる。







デイビスによるエレクトロニクスとジャズ・ロック、ファンクを軸とした即興演奏のアプローチはすでにこの時期、より洗練された手法として大衆化され、後のクロスオーバーやフュージョン、一部のプログレッシヴ・ロックの連中に影響を与えていた。同じジャズ・トランペット奏者としてフレディ・ハバードやエディ・ヘンダーソン、フュージョン・ブームを牽引していくランディ・ブレッカーを始め、ヨーロッパではイアン・カーのニュークリアス、後にデイビスと 'Aura' を制作するパレ・ミッケルボルグらも混沌としたデイビスの手法の中から表層的な '意匠' を身にまとっていく。そこにはデイビスが意図する '分散化' したリズムのアンサンブルがもたらす原初的な 'プロセス' は整理、単純化され、より個々のソロを軸としたテクニックへと埋没していくことを示した。一方のデイビスは、錯綜するリズムの渦へとそのトランペットもろとも擦り切れるように消尽していく。



果たしてデイビスはすべてをやり切ったのだろうか、それともあらゆるアイデアのひとつを使い切ったに過ぎないのだろうか・・。わたしには修羅の如き完全燃焼したかに見える ‘Agharta’ ‘Pangaea’ を到達点とするより、何度でも立ち上がってくる ‘On The Corner’ がもたらした変奏のように響く。そこにはデイビスが選び取らなかった音楽の余白がぽっかりと口を開けて待ち構えており、永遠に到達することのない曼荼羅のごとく無限が広がっているように聴こえるのだ。



参考文献
完本 マイルス・デイビス自叙伝
マイルス・デイビス / クインシー・トゥループ著 中山康樹訳 (JICC出版局)
マイルス・デイビス物語
イアン・カー著 小山さち子訳 (スイングジャーナル社)
マイルス・デイビスの生涯
ジョン・スウェッド著 丸山京子訳 (シンコーミュージック・エンタテイメント)
エレクトリック・マイルス 1972 – 1975 〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相  中山康樹著 (ワニブックス【PLUS】新書)



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