2020年6月4日木曜日

自粛 / クイーカ / ブラジル

2020年はコロナの一年・・になりそうなほど、3月からあらゆるイベントやスポーツ大会などが全て中止されております。最大の出来事は東京オリンピックで一応、来年夏の延期とされているけどこのまま予選会など開かれなければどうなるか分かりませんね。大体、蔓延当初は従来のインフルエンザと同じく暖かくなればウィルスの活動が弱まり・・などと喧伝されていたけど、しかしアフリカや南米、特にブラジルでは未だ感染爆発中の死者3万人超え・・世界で最も多くの感染者を出しているのですヨ。ほんと、この未知のウィルス対策に世界は奔走しているのです。










さてさて・・それまでモダン・ジャズの極北ともいうべき複雑なコード・プログレッションとインプロヴァイズの探求を行ってきたスタイルから一転、スーツを脱ぎ捨てヒッピー風の極彩色を纏い、ベルを真下に向けて屈み込みワウペダルを踏む姿は未だ '電気ラッパ' の 'アイコン' ではないでしょうか。しかし、アレが果たしてデイビスにとって '正解' だったのか何だったのかは分からない。実際、あのスタイルへと変貌したことで従来のジャズ・クリティクはもちろん、当時、デイビスが寄せて行ったロック、R&Bからの反応もビミョーなものだったのですヨ。ここ日本でも1973年の来日公演に寄せてジャズ批評の御大、油井正一氏が 'スイングジャーナル' 誌でクソミソに貶していた。ワーワー・トランペット?ありゃ何だ?無理矢理ラッパをリズム楽器に捻じ曲げてる、ワウワウ・ミュートの名手であるバッバー・マイリーの足元にも及ばないなどと、若干、あさってな方向の批評ではありましたけど、まあ、言わんとしていることは分かるのです。極端な話、別にデイビスのラッパ要らなくね?って感想があっても何となく納得できちゃったりするのだ(苦笑)。







まだ、デイビスが最初のアプローチとして開陳した1971年発表の2枚組 'Live-Evil' の頃は要所要所でオープンホーンとワウペダルを使い分け、何となくそれまでのミュートに加えて新たな 'ダイナミズム' の道具として新味を加えようとする意図は感じられました。しかし1972年の問題作 'On The Corner' 以降、ほぼワウペダル一辺倒となり、トランペットはまさに咆哮と呼ぶに相応しいくらいの 'ノイズ生成器' へと変貌・・。それはいわゆるギター的アプローチというほどこなれてはおらず、また、完全に従来のトランペットの奏法から離れたものだっただけに多くのリスナーが困惑したのも無理はないのです。これは同時期、ランディ・ブレッカーやエディ・ヘンダーソン、イアン・カーらのワウワウを用いたアプローチなどと比べるとデイビスの '奇形ぶり' がよく分かるでしょうね。そんなリズム楽器としてのトランペットの '変形' について個人的に大きな影響を受けたんじゃないか?と思わせたのがブラジルの打楽器、クイーカとの関係なんです。デイビスのステージの後方でゴシゴシと擦りながらラッパに合わせて裏で 'フィルイン' してくるパーカッショニスト、アイルト・モレイラの姿は、そのままワウペダルを踏むデイビスのアプローチと完全に被ります。その録音の端緒としては、1970年5月4日にエルメート・パスコアール作の 'Little High People' でモレイラのクイーカやカズーと 'お喋り' する電気ラッパを披露しており、すでにこの時点で1975年の活動停止に至るラッパの 'ワウ奏法' を完成させていることにただただ驚くばかり。この管楽器とエフェクターのアプローチにおいて、ほんの少しその視点を他の楽器に移して見ると面白い刺激、発見がありまする。そんな 'アンプリファイ' における奏法の転換についてデイビスは慎重に、そして従来のジャズの語法とは違うアプローチで試みていたことをジョン・スウェッド著「So What - マイルス・デイビスの生涯」でこのように記しております。

"最初、エレクトリックで演奏するようになったとき、特に感じるものはなく、そのことはマイルスをがっかりさせた。コカインでハイになるのとは違っていた - むしろエレクトリックというのは徐々に体の中で大きくなっていくものだ、とマイルスは表現した。快感はある。しかしそれはゆっくりとした快感だった。やがて、必死になって音を聞こえさせようとしない方が長くプレイすることも可能だとマイルスは知った。そのためにはいくつかの調整が必要だ。あまり速く演奏してしまうと、パレットの上で絵の具が流れて混ざるように、音が混ざってしまう。そこでフレージングの考え方を一から見直すことにした。長くて二小節。メロディの合間からもっとリズムを聞こえさせたいと思っていたマイルスにとっては、実に理にかなった発想だった。"









Cuica

そんなデイビスのパーカッシヴな奏法を理解しようというワケではありませんが(笑)、ラッパとは別にクイーカなんぞを手にして暇なときに擦っておりまする。このクイーカというヤツはバケツや樽に山羊や水牛などの皮を張り(近年はプラスティック打面もあり)、その真ん中へおっ立てた竹ひごを濡れた布(ウェットティッシュなども最適)でゴシゴシ擦ると例の "クック、フゴフゴ・・" と鳴るブラジルの民俗楽器です。皮の打面をチューニングしながら指でミュートすることで音程を変えることも可能で、大きさで人気のあるのは大体8インチ、9.25インチ、10インチのもので大きいほど音量も大きくなります。バケツ側の素材は昔は樽を用いたこともありましたが、その他ブリキ、真鍮、アルミ、擦る手元の見える透明のアクリル樹脂などありますが、一般的なのはステンレスですね。そんなクイーカの音色といえば30代後半以降の世代ならNHK教育TV 'できるかな' に登場するキャラクター、ゴン太くんの鳴き声として記憶にインプットされているでしょう。最初の '音比べ' の動画では順にContemporaneaの9.25インチステンレス胴(プラスティック打面)、Lescomの9.25インチ真鍮胴(山羊革)、Art Celsiorの9.25インチブリキ胴(水牛革)で鳴らしておりますが、これだけでも結構な音質の違いが分かると思います。










123 Sound / MSP Pickups ①
123 Sound / MSP Pickups ②
Highleads Electric Cuica + New Cube Mic-W

わたしはブラジル産のArt Celsior製8インチのステンレス胴(山羊皮)を入手し、さらに日本で 'アンプリファイ' した打楽器専用のピックアップを製作するHighleadsへ連絡。通常はPearlの8インチに加工済み製品をラインナップしているのですが、工房主宰のともだしんごさんに特別にCube Micをわたしのクイーカの胴へ穴を開けてXLR端子(オス)を加工、装着して頂きました。また、同じく国産で123 Soundというところから強力な磁石を利用して挟み込むMSPピックアップでクイーカを 'アンプリファイ' させる人も現れます。何事も楽しんだもの勝ち、従来のアコースティック表現を超えていろいろと試してみるのが '正解' ですね。





TDC by Studio-You Mic Option
NeotenicSound AcoFlavor ①
NeotenicSound AcoFlavor ②

と言うことで、さっそくのクイーカによる 'アンプリファイ' 開始!。まずは、いわゆる ' エレアコ' のピックアップの持つクセ、機器間の 'インピーダンス・マッチング' がもたらす不均衡感に悩まされてきた者にとって、まさに喉から手が出るほど欲しかった機材AcoFlavor。そもそもは2018年にPiezoFitというプロトタイプからスタートしたこの企画、それをさらにLimitとFitという感度調整の機能で強化した専用機に仕上げたのだから素晴らしかった。わたしもイレギュラーながら(汗)本機のモニターとしてお手伝いをさせて頂き、当初送られてきたものはMaster、Fit共に10時以降回すと歪んでしまって(わたしの環境では)使えませんでした。何回かのやり取りの後、ようやく満足できるカタチに仕上がったのが今の製品版で、現在のセッティングはLimit 9時、Master 1時、Fit 11時の位置にしてあります。ちなみに本機はプリアンプではなく、奏者が演奏時に感じるレスポンスの '暴れ' をピックアップのクセ含めて補正してくれるもの、と思って頂けると分かりやすいでしょうね。









Hatena ? The Spice ①
Hatena ? The Spice ②
Hatena ? The Spice ③
Hatena ? Active Spice A.S. - 2012 ①
Hatena ? Active Spice A.S. - 2012 ②
Electro-Harmonix Bassballs - Twin Dynamic Envelope Filter
MG Music Charles Bukowsky Envelope Filter

そしてプリアンプにはActive Spiceをチョイス。この 'えふぇくたぁ工房' はNeotenicSoundの前にHatena?というブランドを展開、このActive Spiceという製品で一躍その名を築きました。本機は2004年頃に市場へ登場し、個人工房ゆえの少量生産とインターネット黎明期の '口コミ' でベーシストを中心に絶賛、その 'クリーンの音を作り込む' という他にないコンセプトで今に至る '国産ハンドメイド・エフェクター' の嚆矢となりました。より 'ギタープリ感' を強調した派生型のSpice Landを始め、2009年、2011年、2012年と限定カラー版(2011年版はチューナー出力増設済み)なども登場しながら現在でも中古市場を中心にその古びないコンセプトは健在。エレアコ用プリアンプの代用としても評価が高く、わたしの分野である管楽器の 'アンプリファイ' においても十分機能しますヨ。動画のThe Spiceは最終進化形で、そのパラメータも出力を調整する音量のVolumeの他はかなり異色なもの。音圧を調整するSencitivity、Gainは歪み量ではなく音の抜けや輪郭の調整、Colorはコンプ感とEQ感が連動し、ツマミを上げて行くほどそのコンプ感を解除すると共にトレブリーなトーンとなる。さらにブースト機能とEQ感を強調するようなSolo !、そしてTightスイッチはその名の通り締まったトーンとなり、On/Offスイッチはエフェクトの効果ではなくSolo !のOn/Offとのことで基本的にバッファー的接続となります。さあ、ここからはクイーカに合うエンヴェロープ・フィルターを物色しようということでこの一択、ロシア産のSovtek Bassballsに入力してやれば見事に棒を擦ると共に "ゲコ〜ッ" と喋りましたヨ!。同じく効きの良いフィルターとしてはブラジル産MG Music Charles Bukowsky Envelope Filterというラッパを吹いているオジサンが目印のものもあり、こちらはそのパラメータの感じからLovetone Meatballの影響あるエグさが良いですね。ギタリストがいろんな歪み系エフェクターを物色するように、ワウやフィルターなどあれこれ繋ぎ変えて試してみるといろんな発見がありまする。









MG Music Mono Vibe
MG Music That's Echo Folks with Pigstail
Rainger Fx Igor Mk.2 Pressure-Sensitive Controller

さらに 'アンビエンス' や 'フィードバック' の味付けとしてこちら、ブラジル産MG MusicのMono Vibeとアナログ・ディレイThats Echo Folks、左右に 'ステレオ' で広げることも可能なブラジル産多目的トレモロ、Audio Stomp Labs Wavesをチョイス。燻んだピンクに可愛い子豚のキャラに反して、その攻撃的エコーを備える仕様は分厚い鉄板を万力で捻じ曲げたり雑に穴開けてるのがブラジル風 'DIY' な感じ。特に本機の売りである 'Pigs Tail' は、そのルックス通りに 'ブタの尻尾' 的エクスプレッション・コントロールの変態ワザにあるのだけど・・残念ながらわたしのものは欠品(涙)。そこでRainger Fxの感圧パッドセンサー 'Igor' で代用しておりまする。







Onerr DGD-2 Digital Delay
Stomp Audio Labs Waves
Stomp Audio Labs - Boutique Guitar Pedals

10年ほど前に '安価なBoss' として輸入されていたブラジルのMicrotonix Electronicaによるブランド、Onerr。基本的なラインアップがほぼBossとそっくりなことからOEM?と疑いそうになりますが、ここでは高品質な24btデジタル・ディレイDGD-2も追加。モードは10ms〜1250msのタップテンポ付きデジタル・ディレイとHold機能の2つ。わたしはこのHold機能を簡易ループ・サンプラーとして使っております。そしてAudio Stomp Labs Wavesは、この11種からなる多彩な '揺れ' はもちろん、'?マーク' のプリセットでエレクトロニカ的効果によるLightfoot Labs Goat Keeperのような '変態ワザ' にも対応します。面白いのは気に入ったテンポをHold、そのままBypassスイッチがモメンタリーになってリアルタイムに操作出来ること。







MG Music Lunatique Amp
MG Music

こういったクイーカの 'エレアコ' 化は通常DIを介してPAからパワードモニターなどで鳴らすのが最適なのでしょうけど、個人的にはこのMG MusicがVox AC-15をモディファイで製作したと思しき真っ赤な 'Space Age' デザインの真空管アンプ、Lunatiqueで鳴らしてみたい!格好良い〜!。このブランドは以前、新潟の楽器店あぽろんが代理店となって扱っておりましたが、その不定期な入荷数で結局撤退・・。かなり面白いペダルやアンプなどを製作しているので再びどこかがやらないかなー?。









ちなみにブラジルにはこのクイーカの他にもユニークな打楽器がいろいろあり、例えばこちらは弦を弓で叩いたり擦ることで鳴らすパーカッションのビリンバウも有名です。この楽器の世界的名手といえば、エグベルト・ジスモンチやアート・リンゼイなどと共演したナナ・ヴァスコンセロス。すでに冥界へと旅立たれて行かれましたが、彼の擦過音はそのまま宇宙の彼方からこの地上にいまも降り注いでおりまする。1970年にブラジルのピアニスト、ルイス・エサがメキシコ滞在中に 'Sagrada Familia' というコミューン的色彩濃いグループを率いて制作した作品 'Onda Nova do Brasil' の1曲目 'Homen Da Sucursal / Barravento' では、変拍子バシバシの急速調なテンポに乗ってヴァスコンセロスのプレイが爆発します。そしてアート・リンゼイとの共作による1997年のドラムンベース 'Anything' では、ノイジーなギターとヴァスコンセロスのビリンバウが拮抗したリズムを展開します。ちなみに、アート・リンゼイを象徴するDan Electroの12弦ギターHawkで掻き鳴らすノイズがこのビリンバウから発案されたものなのは有名な話。この曲のレコーディングについてアートはこう述べております。

"まず最初に録ったリズムテイクを倍速に変えて聴いてみたんだ。するとジャングル・ビートみたいになった。ナナはそこにオーバーダブを乗せたいと言い出した。「ノーマル・スピードに戻すから待ってて」と言ったら、「そのままでいい」と言って、倍速の音に完璧に合わせて叩いたんだ。スタジオにいた人間は言葉1つ出なかった。彼は天才だね。(中略)ブラジルのシフィにはフレボという音楽があって、それにジャングルは似てるね。非常に速いスピードのスネア、大きく間をとったベース・ドラムが特徴なんだ。"









ああ、まるで宇宙遊泳をしているようなこの無重力感。アートが盟友ともいえるボサノヴァのギタリスト、ヴィニシウス・カントゥアリアと共作した 'Astronauts' やバーデン・パウエルに 'O Astronauta' という曲がありましたけど、まるで宇宙の果てへたゆたうように飛ばされながら一切の真空の中、耳元で囁かれている宇宙飛行士のような気分ってこんな感じなのかな。このボサノヴァの持つ '余白' とコードの魔力、首都ブラジリアを設計したオスカー・ニーマイヤーの放つ近未来的デザインと宇宙飛行士がボサノヴァで融合する・・分かるかなあ?この感覚。さて、2020年もすでに後208日。地球を周回する人工衛星は一周を1時間半で世界を巡る・・あっという間。そんな惑星の青さから今日もまた誰かがどこかの片隅で呟きます。世界の醜悪さと美しさと愛を口にして。









そういえばNHK教育番組 'できるかな' のゴン太くん以外で(笑)クイーカによるポップな楽曲と言えば何があるのでしょうか?マルコス・ヴァーリの 'Flamengo Ate Morrer' を始め、ブラジルのMPB辺りを漁ってみればいろいろ出てきますけど、意外なところではファンカデリック1979年のディスコ・チューン '(Not Just) Knee Deep' が絶妙なスパイスとしてクックフゴフゴ・・全編で効いておりまする。サイケ時代とは違う後期ファンカデリックのウォルター 'ジュニー' モリソンによるアレンジはポップで良いですね。また、1960年代後半のブラジルを熱くさせた 'トロピカリア' 革命の中でひとりブッ飛んだ方向を向いていた男、トム・ゼー。1960年代後半から70年代にかけて散発的にアルバムを発表してきましたが、むしろ彼のユニークさは 'トロピカリア' 再評価とシカゴ音響派などへの影響を経て、元トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーン・プロデュースによる1998年作品 'Com Defeito de Fabricacao' から2000年の作品 '真実ゲーム' (Jogos de Armar) の頃に盛り上がったイメージがあります。そしてブラジル流テクノポップと言うべきか、エグベルト・ジスモンチのヴォコーダー全開による異色エレクトロ・ポップ 'Coracao Da Cidade' を始め、その他、ミルトン・ナシメント、エルメート・パスコアールといったプログレッシヴなスタイルで世界に打って出た者たち。これぞ '未来世紀ブラジル' からやってくるポップの意匠なのだ。












過去と未来が混在する 'コスモポリタン' としてのブラジル。そういえば2004年頃、ブラジルの現代美術を紹介する催しとして 'Body Nostalgia' を見に行ったことを思い出します。タイトルはブラジル現代美術の出発点である女性作家リジア・クラークが自ら一連の作品に与えた名称 'Nostalgia do corpo' (身体の郷愁)から取られており、それはよくブラジルの雰囲気を説明するときに用いられる 'Saudade' という言葉をグッと深化させて、'Nostalgia' の語源がギリシア語の '帰郷(ノストス)' と '苦痛(アルジア)' の造語から派生したということと深く結び付いているということ。つまりブラジルという場所は、根元的に多くの '痛み' とその '記憶' から身体の新たな '出会い' を促しているのではないでしょうか。それはここで聴ける土着的なリズムと洗練されたハーモニーの '異種交配' において、ブラジルほどその自浄作用が機能している場を他に知らないからです。

2020年6月3日水曜日

'サマー・オブ・ラヴ' のチェット

1950年代初め、鮮烈なイメージで米国西海岸に現れたラッパ吹き、チェット・ベイカー。彼の破天荒な人生と晩年の姿を捉えたブルース・ウェーバー監督のドキュメント映画 'Let's Get Lost' や、そんな彼を題材に取り上げたイーサン・ホーク主演の映画 'ブルーに生まれついて' なども公開されましたけど、マイルス・デイビスとは違う意味でラッパ吹きの格好良さを体現した人ではないかと思います。



暗く紫煙漂うジャズクラブの片隅から物悲しいミュートで緊張を走らせるのがデイビスなら、突き抜ける青い海岸線をコンバーチブルで疾走しながら鼻歌を歌うようにラッパを吹くのがチェット、という感じ。こう書くと思わず '陰と陽' のイメージを付与してしまいそうになるのですが、共通するのはどちらも沈み込んだような 'ブルー' を湛えていること。血の通っていない '青白い' 感じで、体温低くひんやりとした 'Cool' でいることを美徳とする・・。これってルイ・アームストロング以降、ディジー・ガレスピーからクリフォード・ブラウン、フレディ・ハバードにまで受け継がれる '陽のラッパ吹き' の真逆を行くもので、このスタイルの創始者であるマイルス・デイビスはチェットにとってのアイドル的存在だったのは納得しますね。



さて、そんなチェットにとっての全盛期といえば 'ウェストコースト・ジャズ' の寵児として脚光を浴びた1950年代の 'Pacific Jazz' 時代と、クスリによって 'Cool' なルックスからテクニックの全てを失い、再びシーンへと復帰して耽美的なまでに 'ブルー' な絶望感を体現した1970年代半ばから80年代の '晩年' が、やはりこのチェット・ベイカーという人の '凄み' を描き出していると言えます。ではその間を取り持つべき1960年代は?。この時代、ジャズの世界を始めとした米国のエンターテインメントすべてが引っくり返る10年であり、チェットのイメージも絶頂から奈落の底へと落ちていった10年でもあります。それまでデイビスに憧れて愛用していたMartin Committeeをパリで盗まれ、知人から '借り物' として使い出したSelmerのK-Modifiedフリューゲルホーンがこの頃のイメージですね。ちなみに、そんなチェットが '堕落' していく姿を '暗示' しているワケじゃないけど(苦笑)、この頃のチェットのライヴ音源のテープを用いてミニマル・ミュージックにしてしまったテリー・ライリーのコラージュ作品ともいうべき '珍品' をどーぞ。







The Mariachi Brass - feat. Chet Baker

スターダムへと押し上げられていったもののジャズの時代的変化に付いていけず、1950年代後半には自分への賞賛がまだ残るヨーロッパへ活動の拠点を移すチェット。しかし、度重なる麻薬癖の不祥事により1960年代半ばに再び米国の地を踏むこととなります。この時期、ジャズに変わって若者を虜にしていたのがロックであり、チェットらのスタンダードを中心としたジャズは古臭いものへと成り果てておりました。そんな仕事の急減を見かねて手を差し伸べたのが、かつてチェットのスターダムを仕掛けた 'Pacific Jazz' の社長、リチャード・ボック。ただし、そんなボックのレーベルも大手Libertyの傘下で 'World Pacific' と名を変えて、ジャズよりラヴィ・シャンカールのインド音楽やイージー・リスニングを手がけるなどすっかり様変わりし、チェットはジャズの奏者ではなく、当時A&Mでヒットを飛ばしていたハープ・アルバート率いるティファナブラスの向こうを張ったマリアッチブラスの 'ソリスト' としての起用でした。また彼自身のソロ名義も 'Carmel Strings' との共演とされて、ハープシコードやドゥビドゥワ〜の女声コーラスをバックに甘いソロを吹かされます。チェットのキャリアとしては最も '不毛' な時期とされ、当面の収入は増えたもののジャズ的な価値は一切なしとされているのが現状です。







この当時、同じくウェストコースト・ジャズのスターであったアルト・サックス奏者バド・シャンクも同様の再雇用となり、ザ・ビートルズの 'マジカル・ミステリー・ツアー' や 'ミッシェル' などをやらされていたっけ・・。そんなバドが大きなヒットの恩恵を受けたのがママス&パパス1965年の '夢のカリフォルニア'。オリジナルでのソロに呼ばれて吹いたフルートがまさに 'フラワーの風' となり、そのまま東海岸の人々を 'ゴーウェスト' の旅へと誘うきっかけとなりました。その直後にチェットと組んで再度吹き込んだバド版 '夢のカリフォルニア'・・陽射し眩しい午後の昼下がりに聴いていたら気持ち良過ぎて眠ってしまいそうだ(笑)。



この後、チェットの麻薬癖はますます酷いものとなり、売人たちとの支払いによるトラブルからこの時期、彼にとって大事な前歯を暴行で負傷してしばらく生活保護を受けるまでに転落・・。彼はこれ以降のインタビューでこの事件をことさら最悪なものとして語り出すのですが、しかし、そもそも彼の前歯の1本はデビューの頃から欠けて無かったんですよね。どうやらチェットには憐れみを誘って同情を引く性向があり、この時のケガで仕事ができないということを理由に生活保護を申請して、不正受給でクスリを買っていたというのが真相のよう・・。









そんな失意のチェットが1970年、久しぶりに大手Verveで吹き込んだのがこの 'Blood, Chet and Tears'。なんとチェットにブラスロック・バンド、ブラッド・スウェット&ティアーズのカバーをやらせる!というものなのですが、おお、この時期の 'ダメダメぶり' という世評に対してかなりラッパ吹きとして復調しているのではないでしょうか!?というか、そもそも調子は崩していなかったのでは?1970年代以降の復活で入れ歯による奏法へとスウィッチしたのは、暴行よりむしろクスリのやり過ぎで歯がすべてダメになった、という風に解釈した方が腑に落ちますね。とりあえず本作は、ただジャズではないというだけで、むしろ、昨今の 'ソフトロック' 再評価の流れで見ればなかなかの佳作だと思います。なぜ今に至るまで再発しないのだろう?。ちなみにブラッド・スウェット&ティアーズの 'Spinning Wheel' 導入部、マイルス・デイビス 'Bitches Brew' ソロ一発目のフレイズに引用されていたことがお分かりでしょうか?。







この力強くもメロウな感じ。確かにボサノヴァなどに比べればチェットのイメージとはちょっとズレるかもしれないけれど、しかし、彼のソリストとしての '歌心' はどんなスタイルであろうとも全くスポイルしていないと思うんですよね。汲めども尽きぬ鼻歌のようなメロディ・・彼が終生クスリと共に手放さなかったものでもあります。そして、ジェリー・マリガンとの双頭カルテットで小洒落に 'ロマンティックじゃない' とクールに装いながら、ここではジャック・ペルツァー(終生チェットのヤク仲間)を相手にまるで昼下がりのカフェで一服するようにスラスラと歌うチェット。彼の自叙伝を読むととてもまともに付き合え切れる人物ではないことが暴露されておりますが、しかし、彼のラッパはいつでも甘い囁きと共に多くの人を魅了するのでした。











米国全土が髪と髭を伸ばし 'ドロップアウト' した1960年代後半。追われるように欧州から逃げ帰ってきたチェットがパシフィック時代の栄光に縋り 'バイショー' なポップスで小銭を稼ぎ、結局は麻薬の代金払えずに暴行されて生活保護者に転落、ガソリンスタンドで給油するバイトの身として燻り続けます。1969年の 'Albert's House' はまさに場末のストリップ・ショーの合間でステージに立ってたようなチープかつ侘しくも愛らしい一枚。この、まったく感情も無くプスプスと鳴りの悪いラッパで歌うチェット・・怖い。ギターのバーニー・ケッセルも参加しているのだけど・・若者がロックに熱狂する時代の真っ只中、喰えなかったんだろうなあ(悲)。ひっそりとした真夜中に小さな音で聴くことをオススメします。







イメージとしてはヴィンセント・ギャロ主演・監督の映画 'The Brown Bunny' でひた走るカリフォルニアの車窓とJackson C. Frankの挿入曲 'Milk And Honey' の荒んだ感じ。さて、そんな 'やっつけ仕事' をこなしながら赤土吹き荒ぶ街道沿いの給油所で突っ立つチェットを個人的に想像しちゃうのですが、この低迷期の心境を現したBGMとしてピッタリなのがテキサス・サイケデリックの雄、1967年のレッド・クレイオラ。荒涼としたテキサスの砂埃舞う中に現れるひなびたホテル、という設定が何ともサイケというか、チープなトレモロの効いたオルガンやハープシコードと共に、そのまま瞳孔開きっぱなしの乾いた覚醒感で迫ってくるおっかない感じ。何より怖いのはそんな神経症的ギリギリの妄想とメロウな歌心が同居していることで、まさに狂気の淵へと落ちていくチェットが受け取った地獄への '招待状' として共鳴しているのです。'Albert's House' や 'Blood, Chet and Tears' などと同時に鳴らすと歪んだ世界がネジれてきて背筋寒くなります。

2020年6月2日火曜日

ピート・コージーという男 (増補版)

1970年代の 'エレクトリック・マイルス' 活動時期、ひとり強烈な異彩を放っていたのがシカゴ出身のギタリスト、ピート・コージーでしょう。ある意味、この人の印象はこのわずか3年ほどの活動がすべてであり、そういう意味では非常に謎めいた存在でもありますね。あのジミ・ヘンドリクスがメジャーデビュー前に追っかけをしていたとか、晩年は、母親の元でほとんどニート的生活をしていたとか、別れた奥さんとの子供に対する養育権不履行で米国から出国できなかったとか、いろいろな憶測が飛び交っておりますが・・う〜ん。





コージーの活動として比較的よく知られているところでは、1968年にブルーズの巨匠、マディ・ウォーターズがヘンドリクス流サイケデリック・ロックにアプローチした 'Electric Mud' へフィル・アップチャーチと共に参加したことです。ある意味、この2人に 'ジミヘン役' をやらせていたとも言えますね。



マーティン・スコセッシ製作総指揮によるブルーズ・ムーヴィー 'Godfathers and Sons' は、そんなシカゴの名門レーベル 'Chess' の栄枯盛衰と現在のヒップ・ホップへと続くストリートの空気をぶつけた異色作。ヒップ・ホップ側からはコモンとパブリック・エネミーのチャックDが参加しますが、白眉は1968年の 'Electric Mud' 再会セッション。すっかり真っ白くなった髪とヒゲをたくわえて 'グル' な雰囲気のピート・コージーも渋い存在感を醸し出します。ちなみに 'Electric Mud' と同時期、マディ・ウォーターズのみならずハウリン・ウルフもCadetでサイケデリックなギターをフィーチュアした一枚 'This is Howlin' Wolf's New Album' を製作。そちらにもコージーはレーベルの 'お雇いギタリスト' として参加しておりました。

さて、コージー&アップチャーチのコンビは 'Chess' のみならずシカゴのジャズ系レーベル 'Argo / Cadet' にも関わり、1970年代にフュージョン界のスターとなるサックス奏者、ジョン・クレマーのデビュー作 'Blowin' Gold' にも参加します。1969年らしくクレマーも全編で 'アンプリファイ' したサックスによるグルービーなブーガルー、ジミ・ヘンドリクスの名演でお馴染み 'Third Stone from The Sun' を披露。また本作にはモーリス・ジェニングスなるドラマーも参加、そう、後のアース・ウィンド&ファイアのモーリス・ホワイトその人なのです。コージーとはこの後のザ・ファラオズでも一緒に連むこととなりますが、そのルーツ的グループなのが、サン・ラ&アーケストラの一員であったフィリップ・コーランが率いて1967年に自主制作した 'Philip Cohran & The Artistic Heritage Ensemble' です。






Philip Cohran & The Artistic Heritage Ensemble
The Awakening / The Pharaohs

彼らは 'アンプリファイ' した電気カリンバなどを用いて、時に前衛的なパフォーマンスを行うサン・ラ&アーケストラに対し、よりブルーズやR&Bなどの大衆的なゲットーの感覚でもって地元シカゴを根城に活動します。そこでアンダーグラウンドに活動していたピート・コージーが、1973年にマイルス・デイビスのグループへ加入するきっかけについて当時の 'スイングジャーナル' 誌のインタビューでこう述べております。

"あれは4月の土曜の午後だった。仕事もないし、オレはベッドで横になっていたんだ。そこに仲間のムトゥーメから電話があって、突然「どうだい、マイルス・デイビスがギターでソロの弾ける男はいないかって探しているんだがやるかい」っていうんだ。オレはベッドから落っこちそうになってしまったよ。もちろん、嬉しい話だからOKしたさ。オレはシカゴのAACM(創造的音楽のための地位向上協会)のメンバーなんだ。ほら、これが会員証だよ。シカゴでの活動かい?うん、オレは 'フェローズ' (注・ザ・ファラオズのことだと思われる)って12人編成のバンド(インタビュアーの注・私は1969年にこのバンドをシカゴで聴いたことがあり、それはサン・ラの影響を感じさせるバンドであった)を率いている。以前 'フェローズ' は、フィリップ・コーランがリーダーだったし、今でも彼とは仲間同士だけど、フィリップが独立したんでオレが引き継いだってわけだ。最近、レコードを出したんだけどなあ(注・1971年の 'The Awakening' のことだと思われる)。日本には入っていないだろうな。そのほか、オレは今でもそうだけどテナー・サックスのジーン・アモンズのレギュラー・メンバーなんだ。だから、マイルスのバンドが休みになれば、オレはまたシカゴに戻るつもりだよ。生まれかい?うん、オレはシカゴ生まれのアリゾナ育ち。1943年10月9日に生まれ、12歳のときにアリゾナに移住。10年間、そこにいたんだが1965年にシカゴへ戻って、そのままジャズの世界に入ったんだ。今の心境かい?うん、とてもラッキーだと感じているのさ。"

そんなピート・コージーに対するデイビスの思いも相当 '買っていた' ことが、以下の1975年来日時のインタビューからも分かります。

"ピート・コージーは大変に長い経験を積んだミュージシャンだ。亡くなったジミ・ヘンドリクスなんかは、昔はよくこのピートの後を追っかけていたんだ。彼の音楽的才能 - 音を選んだり、何をするかを考え出す才能 - はまぎれもなく素晴らしいものだ。オレはピートの才能を信じ切っている。だから、オレは彼が何かをしようと考え、何をするべきかを選択するとき疑問をはさまない。つまり、完全な自由を与えているわけだ。東京での2日目のコンサートの終わりでやったのはエレクトロニック・ミュージックだ。シュトゥックハウゼンがやっているようなものと同じだよ。"

そしてもうひとつは近年のもの、ワシントンDC在住の音楽ジャーナリスト、トム・テレルが2007年に行ったインタビュー記事からどーぞ。

"わたしはいつもマイルスを崇拝していた。わたしはマイルスを一番ヒップな道しるべのようなものだと思っていた。マイルスの新作が出る度にいつも、いつも必ず新しい方向性があった(笑)。わたしがプレイしたいと思った男はジョン・コルトレーンだ。彼のスプリチュアルなレベルの高さ、そうしたもの、全てを感じていたからだ。わたしはマイルスのスピリチュアル・レベルや、彼に関するその他のことがどれほどのものかはわからない。彼がクールとヒップの本質だということ以上のことはわからない。"

- なぜマイルスはあなたにバンドに入るよう連絡してきたと思いますか?

"そうだな、いくつかの出来事が重なったためだと思う。わたしはあの頃ジーン・アモンズとやっていた。マイルスがちょうど事故をやった年に(ニューヨークのウェストサイド・ハイウェイでランボルギーニを橋台に衝突させた事故)、ニューヨークでプレイしていた。事故の前の夜、わたしはアン・アーバー・ジャズ&ブルーズ・フェスティヴァルに行った。フレディ・キングがプレイして、その後にマイルスがプレイした。わたしはマイケル・ヘンダーソンに1、2年前に会っていた。フェニックス出身の友達のドラマーがモータウンでマイケルとプレイしていた。彼がわたし達を紹介してくれた。まあ、いずれにせよ、とてもおかしくてね。マイルスが車から降りてきたとき、彼のトランペット・ケースが開いてしまって、彼のホーンが地面に落ちそうになった。わたしはフットボール・プレイヤーのように、それを地面すれすれで拾い上げたんだ。で、彼に言ったんだよ。「おい、あんたの大事なものを落とすなよ!」。彼はわたしを見て、それをすぐに掴んで、ニヤッと笑ってウインクした。それからホーンをケースにしまい、ステージに上がり一撃をかました!バンドは本当に凄かった!10人か11人編成のバンドだった。レジーがギター、バラクリシュナがエレクトリック・シタール、バダル・ロイがタブラ、セドリック。ローソンがキーボード、サックスが確かカルロス・ガーネット、ムトゥーメがパーカッション、ベースのマイケル、アル・フォスターのドラムス、そしてマイルスがバンドを仕切っていた。"

"アン・アーバーの翌日、わたしたちのグループがマイケルの楽屋に集まった。レジー、ムトゥーメ、マイケル、それから通りの向かいのフルート奏者がいた。そこで皆でジャム・セッションをした。それから秋になって、わたしはジーン・アモンズのグループに参加し、最初のギグがハーレムであった。次のギグは2週間後にニューヨークのキー・クラブだった。わたしはムトゥーメに電話して「君がわたしのことを覚えているかどうかわからないけど」と言うと、彼は「もちろん、君のことは覚えているよ!」と言ってしばらく話をし、彼をキー・クラブに招待したんだ。そこで彼はわたしの本当のプレイを聴いたわけだ。彼から次に連絡があったのが、翌年の4月だったと思う。土曜の夜だった。モハメッド・アリがケン・ノートンに顎を砕かれ負けた夜だ(この試合は1973年3月31日土曜日に行われた)。その日シカゴで電話をもらった。電話はカナダからだった。ムトゥーメとバンドのマネージャーが電話で、わたしに彼らのバンドに参加できないかと誘ってきた。わたしは言った。「いやあ、とても嬉しいよ。でも今のバンドでハッピーなんだ。このグループを辞めようとは思っていないんだ。こうしよう。何人かわたしのところで勉強している連中がいる。ひとり選んで君の元に行かせよう」。すると彼は言ったんだ。「いやいや、彼は君に来て欲しいんだ」。そこまで言われたら断れないだろう?(笑)。次の夜、彼らとアルバータ州カルガリーで落ち合う手はずを整えてくれた。わたしは朝早くのフライトに乗るはずだったが、支払いに手間取ってそれに乗り損ねた。そこで次の場所、オレゴン州ポートランドで彼らを捕まえることにした。月曜だった。そして火曜の夜にギグをやってた。"

- そのバンドでリハーサルをする時間はありましたか?

"ハハハ!その話を知らないのか?OK、マイルスのホテル・ルームで、彼はその前の夜のパフォーマンスのテープをかけ始める。それをわたしは何小節か聴いて彼に尋ねる。「このキーは何ですか?」。彼は「Eフラットだ」と答える。わかった、次の曲に行こう。すると彼はわたしを睨む、わかるだろ(笑)。それを何度も何度も繰り返すんだ。そして、4分の5拍子の曲が出てくるとわたしは言う。「あなたは(4分の)5拍子の曲をやってるんですね」。彼はわたしを見てニヤリとする。部屋で座ってずっとそれをやるんだ。"

- ということは、マイルスはなぜあなたをバンドに入れたかったかその理由は言ってないんですね?

"そんな必要はなかったね。わたしがバンドにいる間、全部の期間で2、3回音楽的方向性を示しただけだ。最初のことは、その夜プレイするために準備しているときだった。わたしはテーブルをセットし、ペダルをドラムスの横にセットしようとしていた。わたしはいつもドラムスとベースのそばでプレイするのが好きだったからね。すると彼はわたしに前へ出るように言った。彼はわたしをステージの一番前に出したがった。あと2つのことは、まず、もっと黒人っぽく見えるようにしたがった(笑)。それから音楽的方向性でもう一点彼が言ったことは、自然に予期せぬものを出せ、ということだった。だからわたしはそうした。それから何年か後、彼はわたしにリハーサルをして欲しくないと言った。なぜなら、わたしが次に何をプレイするかわかってしまうからだ。彼にはギターでちょっとしたアイデアがあることが後でわかった。彼は自宅にジミ・ヘンドリクスを住まわせていたんだ。ジミが亡くなる前ね。彼はギターの力が音楽をある高いレベルに持ち上げることができるとわかっていた。彼はそれまでバンドにいたギタリストとではそれができなかった。わたしが思うに、ムトゥーメ、マイケル、レジーといった連中がわたしのことを高く評価して、そのことをマイルスに話してたんだろうね。"

- 振り返ってみて、あなたはこのバンドに何をもたらしたと思いますか?

"彼が求めていたことは明らかだ。バンドを拡張したいということだった。わたしのプレイの経験からミュージシャンは、他のミュージシャンに周辺のミュージシャンを、またそのミュージシャンの内側に影響を与え、より高いレベルに引き上げることができるものだ。そしてマイルスは間違いなくそんな人種のひとりだ。彼はいつも同じような資質を持ったミュージシャンを探していた。ジョン・コルトレーン、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、そうした名前と並ぶ連中なら誰でも、それぞれの繊細さによってそれぞれをより高みに持っていける。彼はわたしの中にもその資質を見出したんだと思う。だからバンドは前進、進化したんだろう。バンドの進化を見るとき、1973年の最初のプレイとプレイを止めた1975年の演奏を見れば明らかだ。彼の作品は百万光年の差があるよ。"

- 最後の質問です。あなたにとってマイルス・デイビスとは?

"おおっ、どこから始めようか?どれほど素晴らしい人間か。何と素晴らしい教師か。彼は自身の周りにどのような要素を置けばいいか誰よりもよくわかっていた。本当だ。彼は知性、育ちという点で完璧な男だった。知的な両親、家族、そして経験。経験は美徳だ。マイルスはあらゆることを経験していた。彼の周りにいれば、そして知性を持っていれば、必ず何かを学べるだろう。バンド演奏以外の時間で過ごした時間は、時の流れとともにただ素晴らしく報われるひと時だった。"








Morris Mando Mania
Forgotten Heros: Pete Cosey

現在ではブートレグなどで比較的良好な画質の '放送用動画' がお手軽にYoutubeでチェックすることが出来るのですが、なかなかピート・コージーの '足元' をはっきりと写してくれるものはありません。使用するギターはFenderのStratocasterやTerecaster、ピグスビーアーム付きのGibson Les Pallなど一般的ではありますが、1973年のオーストリアはウィーン公演の動画を見るとVoxのPhantom Ⅻという12弦ギターによるビザールなセレクトが泣かせます。また、この時期のコージーのトレードマーク的存在なのがこちら、日本のモリダイラ楽器のブランドMorrisが少量製作した透明アクリルのピックガード付き木目調のセミアコ、Morris Mando Mania。現在ではEastwood Guitarsという工房からピート・コージーのイメージに当て込んで '復刻' していたようです。



Yamaha PE-200A
Yamaha PE-200A + TS-110
Yamaha PE-200A + TS-100

その巨漢を上回る後ろに控えたスタックアンプは同年の東京公演以降、Yamahaのエンドースによって用意されたPE-200AとTS110の組み合わせ。これはコージーやレジー・ルーカス始め管楽器群のデイビスやデイヴ・リーブマン、ソニー・フォーチュンに至るまで皆このクリーンなアンプでの音作りに終始します。さて、そんなコージーの機材で最も見えにくいのがテーブルの上と下に置かれているエフェクターでして、基本的にコージーの歪みはアンプではなくエフェクターによって音作りされているようです。ちなみにこのPE-200Aは、一般的なBass、Middle、Trebleの3バンドEQとスプリング・リヴァーブのほか、内蔵のトレモロとエンヴェロープ・フィルター!をそれぞれ切り替えてエクスプレッション・ペダルでコントロール出来るというユニークな仕様。








"初演を待つ東京・新宿厚生年金ホールの舞台では、午後、一番にやってきたロード・マネージャーのクリス・マーフィーが、バンドのサウンド・システムをひとつひとつたん念にチェックしている。なにしろ、7人のミュージシャンたちが演奏に使用するペダル類のアンプへの接続だけでもひと仕事だ。マイルスがトランペットに接続しているペダルは、オハイオ州トレドにあるパワー・インダストリーズ社製の「De Armond」とキング製「Vox-Wah」というワーワー・ペダルの2種。マイルスは今回、マーティンの新しいトランペット(ブルーのメタリック塗装がほどこしてある)を持参したが、マウスピースはGiarnelli Specialと刻印のある古いもの。これは、マイルスが12才(!)のときから使ってきた愛器。このマウス・ピースに無造作にガムテープでピックアップ・マイクがくっつけてあった。ヤマハ・オルガンには、パワー・ペダルとCry Bofyというペダルがついている。ソニー・フォーチュンが使っているペダルは「De Armond」。レジー・ルーカスはモーレイ社製の「Sho-Bud」というペダル。ムトゥーメは「Univox」というリズムボックスにMu-Tron Ⅲという変調器を接続している。ピート・コージーはマエストロ社製のFuzz-Tron、それにPhase 90という変調器、さらにSynthiというアタッシュ・ケースの形をした小型シンセサイザーを用い、テーブルの下に3台のペダルを用意している。ベースのマイケル・ヘンダーソンはマエストロ社製のPhase Shifterを用いている。"

まあ、ジャズ専門誌なのでいくつか表記の怪しいものもあるのですが(苦笑)、上の記述は当時の 'スイングジャーナル' 誌による1975年の来日公演からのもの。ここでの関心事であるピート・コージーのセッティングはMaestro Fuzz Tone、MXR Phase 90、ワウペダル含めた3台のペダルを足下に置いているのですが、'Fuzztron' などと表記が混交しているもののMusitronicsのエンヴェロープ・フィルター、Mu-Tron Ⅲも置いてあるのは確実ですね。シカゴ出身のコージーがMaestro製品を製作していたC.M.I. (Chicago Musical Instruments)ということから選ぶのは自然のことですが、ここで問題はFuzz ToneでもFZ-1BとFZ-1Sのどちらだったのか?ということ。しかし、なんと1975年のステージ写真を捉えた一枚から後述するEMS Synthi Aと並びFZ-1Aを愛用していたとは!。ま、これも単三電池2本使用のFZ-1と9V電池使用のFZ-1Aのどちらなのか?という疑問はあるのですが(汗)、とりあえずFZ-1Aということにしておきましょうか(笑)。そしてリンク先の 'Forgotten Heros: Pete Cosey' によれば、Jordan ElectronicsのBoss Toneというアタッチメント的なファズも使用していたとのこと。Phase 90は現在でもフェイザーの名機として定番のMXR製であり、時期的にはいわゆるスクリプト・ロゴの軽いBud筐体の入った初期のものだと思います。当時のステージ写真を見るとPhase 90は足元ではなく机の上に置いて手でOn/Offして使用していたようですね。












Musitronics Mu-Tron Ⅲ
Vox Clyde McCoy Wah Wah Pedal
Morley Tel-Ray Pedals (Pre-1983)
Halifax Fuzz Wah Z2
Halifax Fuzz Wah Z
Hofner Fuzz Wah Z

さあ、ここまでくると肝心のワウペダルが気になりますが、エンヴェロープ・フィルターの名機であるMu-Tron Ⅲ以外では'Forgotten Heros: Pete Cosey' の記事によればコージーのワウについてこう記されております。

"He Sat behind the table and put his effects - two wahs (a Morley for warm tones, a Halifax for solos, and Sometimes a Vox Clyde McCoy)"

なるほど、コージーは足元に2つのワウを置いていたようで、一つがMorleyの暖かなトーンを持つワウ、そしてワウペダルの名機、Vox Clyde McCoyをたまにスイッチして使っていたそうですけど、彼のリードトーンを司るのがドイツのHalifaxからのマニアックなファズワウ・ペダルだったとは!上記の 'スイングジャーナル' 誌から抜粋したステージ写真で確かにそのHalifaxのペダルを踏んでおりますね。このHalifaxはOEMとして 'Hofner' ブランドでも製造していたようですが、これは同じドイツ産Schallerのファズワウ・ペダル同様プラスティック製筐体なのかな?。何よりファズのスイッチが筐体横にそのまま '横向き' で付いている乱暴さが面白い。





さて、全盛期の巨大なアフロヘアーとその巨漢ぶりに比べれば、晩年の彼は若干 '縮んだ' ように見えます。とにかく 'エレクトリック・マイルス' 期のプレイの印象が強く、エレクトリック・ギターはもちろん、各種パーカッション、そして1975年の来日時には執拗なデイビスの指示にキレてしまったアル・フォスターに変わりドラムを叩くなど、そのマルチ・プレイヤーぶりもアピールしました。 しかし、ピート・コージーの最もユニークなアイテムとして、1975年の来日時に持ち込んだアタッシュケース型のポータブル・シンセサイザーがあります。





1971年に英国のEMSが開発したSynthi A。まだまだモノフォニックのアナログ・シンセ黎明期、記憶媒体のない本機をSonyのカセット・レコーダー 'Densuke' と共に用いることで、実に前衛的な 'ライヴ・エレクトロニクス' の効果を生み出しておりました。1975年の 'スイングジャーナル' 誌でもこう取り上げられております。

"果たせるかな、マイルスの日本公演に関しては「さすがにスゴい!」から「ウム、どうもあの電化サウンドはわからん」まで賛否両論、巷のファンのうるさいこと。いや、今回のマイルス公演に関しては、評論家の間でも意見はどうやら真っ二つに割れた感じ。ところで今回、マイルス・デイビス七重奏団が日本公演で駆使したアンプ、スピーカー、各楽器の総重量はなんと12トン(前回公演時はわずかに4トン!)。主催者側の読売新聞社が楽器類の運搬に一番苦労したというのも頷ける話だ。その巨大な音響装置から今回送り出されたエレクトリック・サウンドの中でファン、関係者をギョッとさせたのが、ギターのピート・コージーが秘密兵器として持参した 'Synthi' と呼ばれるポータブル・シンセサイザーの威力。ピートはロンドン製だと語っていたが、アタッシュケースほどのこの 'Synthi' は、オルガン的サウンドからフルートやサックスなど各種楽器に近い音を出すほか、ステージ両サイドの花道に設置された計8個の巨大なスピーカーから出る音を、左右チャンネルの使い分けで位相を移動させることができ、聴き手を右往左往させたのも実はこの 'Synthi' の威力だったわけ。ちなみにピートは、ワウワウ3台、変調器(注・フェイザーのMXR Phase 90のこと)、ファズトーン(注・Maestro Fuzz Toneのこと)などを隠し持ってギターと共にそれらを駆使していたわけである。"


そして、このシンセサイザーについては世界で誰よりも知り尽くしている男、ブライアン・イーノのお言葉を拝聴しなければなりません。'アンビエント' を提唱し、常に音響設計とその作用、インターフェイスについてポップ・ミュージックの分野で研究してきた者の着眼点は音楽を聴く上での良い刺激をもたらしてくれます。しかしEMSの簡便なアプローチを賞賛しながら、一方では超難度なFM音源を持つ日本の名機、Yamaha DX-7のオペレートにも精通しているのがイーノらしい(笑)。

- 今でもEMSを使っていますか?

E - 使っている。これにしかできないことがあるんでね。よくやるのは曲の中でダダダダダといったパルスを発生させたいとき、マイクを使って楽器の音をこのリング・モジュレーターに入れるんだ。それから・・(ジョイスティックを操作しながら)こうやって話すこともできるんだよ。

- プロデュースやセッションをする際にはいつもEMSを持ち込んでいるのでしょうか?

E - (「YES」とシンセで答えている)

- 最後までそれだと困るのですが・・。

E - (まだやっている)・・(笑)。でも本当に重宝な機械だよ。フィルターもリング・モジュレーターも素晴らしく、他の楽器を入れるのに役立つ。

- 大抵エフェクターとして使うのですか?

E - これはノイズを発生させるための機械、あるいは新しい音楽のための楽器なんだ。これをキーボードのように弾こうと思わない方がいい。でも、これまではできなかったものすごくエキサイティングで新しいことがたくさんできる。

- どこが他のシンセサイザーと違うのでしょう?

E - ほかのシンセサイザーでは失われてしまった設計原理が生きているからだ。原理は3つある。第1の原理は、これがノンリニアであるということ。現代のシンセサイザーは、すべて既に内蔵されたロジックがあって、大抵はオシレータ→フィルター→エンヴェロープといった順序になっている。だが、EMSだとオシレータからフィルターへ行って、フィルターがLFOをコントロールし、LFOがエンヴェロープをコントロールし、エンヴェロープがオシレータをコントロールするといったことができるんだ。とても複雑なループを作ることができるので、複雑な音を出すことができるんだよ。現実の世界というのもまさにそうやって音が生み出されている。決まった順序によってのみ物事が起こるわけではなく、とても複雑なフィードバックや相互作用があるんだ。

第2の原理はやっていることが目に見えるということ。シンセサイザーのデザインを台無しにしてしまったのは日本人だ。素晴らしいシンセサイザーは作ったが、インターフェイスの面ではまるで悪夢だよ。ボタンを押しながら15回もスクロールしてやっと求めるパラメータに行きつくなんてね。それに比べるとEMSは使いやすい。パフォーマンスをしている最中にもいろんなことができるから、即座に違った感じの音楽が出来上がるんだ。ボディ・ランゲージが音楽に影響を及ぼすんだよ。ボディ・ランゲージがあまりないと、窮屈で細かくて正確で退屈な音楽しか生まれないし、豊かだとクレイジーな音楽が生まれるんだ。

第3の原理は、これにはスピーカーを含めてすべてが組み込まれているので他のものを接続する必要がないということ。私がいかに早くこれをセットアップしたか見ただろう?もしもこれが現代のシンセサイザーだったら、まずケーブルを探して、オーディオセットの裏側に回って配線しないといけない。あれこれグチャグチャやってるうちに、恐らく私は出て行ってしまうだろうね。私はもう歳だから気が短いんだよ。







こちらはピート・コージーによるEMS。実際この '右往左往ぶり' は、1996年にリマスタリングされた 'Agharta' 完全版の二枚目最後のところ(オリジナル版では割愛されていた部分)で存分に堪能することができます。また1974年の 'Get Up With It' に収録された 'Maiysha' では、ギターを本機の外部入力から通し、Synthi内臓のLFOとスプリング・リヴァーブをかけた奇妙なトレモロの効果を聴くことができますね。そして 'エレクトリック・マイルス' と言えばコージーとレジー・ルーカスによる '2ギター' の鉄壁な絡み合い。かなりブルージーに攻めるコージーにも驚きますが、ファンク・カッティングにおいてはイマイチ聴き取りにくかったレジー・ルーカスを堪能出来る1973年11月7日の旧ユーゴスラヴィア、ベオグラード公演の音源をどーぞ。









ここでもうひとり。ほとんど '飛び入り' の如くステージに上がりマイルス・デイビス・グループの '公開オーディション' を受けて1年弱、バンド・アンサンブルの拡大に貢献?した若干18歳のフレンチ・ブラジリアン、ドミニク・ゴモン。その彼の記録である1974年3月30日、ニューヨークはクラシックの殿堂 'カーネギー・ホール' でのライヴを収めた 'Dark Magus' は、ゴモンとピート・コージー、レジー・ルーカスの '3ギター' によるほとんど獰猛なピラニアが獲物に喰らい付くようなカオス状態に終始しているのですが、その他、ブートレグでは5月28日のブラジル、サンパウロ公演のものが比較的良好な音源で聴くことが可能。こうやってゴモン単体での音源、動画などを見ると結構タイトかつファンキーなギタリストであることが分かります。ファンカデリックから80年代のマイルス・デイビス・グループを経験したドウェイン 'ブラックバード' マクナイトと似た匂いも感じるなあ。裏を返せばピート・コージーのようなフリーキーの要素は薄いのだけど、多分、デイビスの意図はコージーに足りなかった '妖艶さ' を体得すべくゴモンを 'カンフル剤' として起用したんじゃないかな、と思うのです。もちろん、その効果は翌年の 'アガパン' を聴けば納得して頂けるのではないでしょうか。



そして '本家' と言うべきかご存知ジミ・ヘンドリクス。彼の 'インプロヴァイザー' としての側面を捉えた一枚、'Message from Nine To The Universe' を聴く。コレ、元々は1980年にRepriseからアラン・ダグラスのプロデュースでリリースされたもので、その後、本盤は '未CD化' ということもあり永らくマニア垂涎の一枚と珍重されてきたものでした。それが2007年に突然、Reciamationなるレーベルにより5曲のボーナストラックを追加して初CD化。ようやく市場に流通したと思いきや、ジミ・ヘンドリクスの遺族たちが音源の権利に対する管理を強くしたことで、またもやこの 'ブートまがい' は公式盤から廃盤の憂き目に遭い、現在に至っております。ちなみにこの 'Nine To The Universe' は、あの 'Woodstock' のステージのオープニングを飾るいかにもヒッピー世代に向けた 'Anthem' と呼ぶに相応しい一曲です。本盤の参加クレジットは以下の通りなのですが、これも1980年の初リリース時に比べて決して正確なものではないそうです・・。

Jimi Hendrix - Guitar / Vocal
Billy Cox - Bass
Dave Holland - Bass (Tracks 2,4,6,7)
Buddy Miles - Drums (Tracks 1,2,8,9,10)
Mitch Mitchell - Drums (Tracks 3,4,5,6,7)
Jim McCarty - Guitar (Track 5)
Larry Young - Organ (Tracks 3,4)
Larry Lee - Guitar (Track 10)
Juma Sultan - Percussion (Track 10)

ここには1969年に解散した 'Experience' 以降、ヘンドリクスが組織したコミューン的意識の強いジャム・セッション・バンド 'Gypsy & The Rainbows' から 'Band of Gypsys' に至るまで、特にアラン・ダグラスがプロデュースしていた時期の音源が中心となっております。本盤だけの特徴として、ダグラスの 'ツテ' で揃えられたジャズ・ミュージシャンたちとの出会いがあり、当時、マイルス・デイビスの 'Bitches Brew' に参加したデイヴ・ホランド、ラリー・ヤング、ジュマ・サルタン('Bitches Brew' 参加時の名はJim Riley)らがヘンドリクスのサウンドに新たな響きをもたらすという面白い展開。ちなみに同時期、どこかの 'クラブギグ' ではあのラーサーン・ローランド・カークやサム・リヴァースともジャムったそうで・・ああ、どこかの誰かが客席でオープン・リール・デッキなどを回していなかったかとため息が出るなあ。







本盤にはジム・マッカーシーとのジャム 'Jimi / Jimmy Jam' も収められておりますが、やはり気になるのはこの時期、同じく 'デイビス組' で名を馳せた英国人ギタリスト、ジョン・マクラフリンとのジャム・セッションも行っていたこと。そのヘンドリクスとマクラフリンのジャム・セッションが上記のブートレグ音源。うん、特別何かを作り上げようという意思もなく、とにかく畑の違うギタリストふたりが相乗効果的にジャムっているだけ、ではあるのですが、もし、この時期にヘンドリクスを引っ張り上げるような凄腕プロデューサーがいたのならば、その後の彼のキャリアはもっとずっと違うものになっていたかもしれません。アラン・ダグラスはヘンドリクスに違う世界の人たちとのコネクションは繋げたかもしれませんが、結局はただ、スタジオでジャムっているものを記録したテープをうず高く積み上げるだけで終わってしまいました。しかし、これは彼の責任ではなく、やはりギタリストとしてのスタンスを抜け出せなかったヘンドリクスの限界と、彼をスターダムに乗せて大金を稼いだ 'ロック・ビジネス' (を操ったマネージャーのマイク・ジェフリー、レコード会社など)の軋轢から自由になれなかったことに起因していると思われます。特に 'Experience' の成功体験を持つジェフリーにとって、ヘンドリクスがジャズを軸とした実験的スタンス、よりファンク/R&B色を強めることに向かうことは良しとせず、このGypsy & The RainbowsやBand of Gypsysは精々ヘンドリクスへの一時的 '休暇'、または以前のレコード会社と残っていた契約義務を果たすための妥協的産物でした。もちろん、この '休暇' からヘンドリクスが何がしかの成果を掴めれば良かったのですが、やはり、単なるジャムに終始してしまったところに1968年の傑作 'Electric Ladyland' 以降、彼が音楽面である壁にぶつかっていたことは間違いない。





そしてオリジナル盤 'Nine To The Universe' のラストを飾るのは鋭角的なリフとエフェクターの変化で攻め立てていく 'Drone Blues'。また一方、当時の 'ファンク革命' と触発されることにも積極的で、こちらもアラン・ダグラスのプロデュースでバディ・マイルス、ヒップ・ホップのルーツ的グループとして名高い 'ストリートの詩人' The Last Poetsのジャラールが 'Lightnin' Rod' の変名で制作した謎のシングル 'Dorriella du Fontaine'。ヘンドリクスはギターとベースのオーバーダブで参加。





ちなみにピート・コージーに象徴される 'ヘンドリクス・フォロワー' なギタリストといえば、同時期デトロイトを根城にブラックな 'ファンクロック' を基調として一大帝国を築いたPファンクが挙げられます。1950年代後半、床屋の理髪師をしながらドゥーワップR&Bのコーラス・グループ、ザ・パーラメンツを結成しメジャーを目指していた男、ジョージ・クリントン。そんな鳴かず飛ばずの苦しい彼らも1960年代後半には、まったく新しい '革命' に触れてそれまでの古臭いスタイルから脱却を図ります。特に強烈な '二大インフルエンス' となったのがジミ・ヘンドリクスとスライ&ザ・ファミリー・ストーン。黒人が当時の狭いR&Bの枠を抜け出して、ロックという新たな 'アンプリファイ' の世界の中でLSDの幻覚に塗れたのだから、これはジョージにとって完全にぶっ飛んだ経験だったのでしょう。さっそくコーラス・グループをアシストするバックバンドを組織するのですが、ここにきて以前からの契約問題が彼らの足を縛ります。ちょうど1967年に '(I Wanna) Testify' が全米R&Bチャート3位のヒットを飛ばしたこともあり、彼らを雇うレーベル側がその権利関係にうるさく口出してきたのです。そこでジョージは一計を案じ、まず彼らのバックバンドだけを別レーベルと契約してデビューさせることを画策します。





その中身はザ・パーラメンツ+バックバンドということで、彼らはそれまでの名前を捨て、新たにファンカデリックと名乗りました。まさに時代はジェイムズ・ブラウンやスライ・ストーンらファンク革命と、ヘンドリクスに代表されるサイケデリック・ロックを掛け合わせた造語として、このPファンクという集団のコンセプトを見事に定義します。ジョージはまた、前レーベルとの契約切れを待ってコーラス・グループ+バックバンド(要するにファンデリックと一緒)として新たに別レーベルと契約、パーラメントとしても再出発します。ちなみに彼らの 'クスリの分量' は半端ではなかったようで、スタジオは常に煙でモクモク、何かしら一発 'キメた' 状態で大量の楽曲を制作していたことは、上の動画にあるデビューアルバムを聴いて頂ければお分かり頂けるかと思います。彼らがユニークかつ新しい価値観を持った黒人たちなのは、ジミ・ヘンドリクスやスライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジェイムズ・ブラウンを聴きながら、同時にサイケデリック・ロックのヴァニラ・ファッジや、同じデトロイトで強烈なメッセージと共にアナーキーなパンク・ロックの元祖となったMC 5らと共にステージへ上がっていたことです。このグループからそんな新たな感覚を持ったギタリストとしてエディ・ヘイゼル、まだ10代にして 'キッド・ファンカデリック' の天才児として参加したマイケル・ハンプトン、ドウェイン 'ブラックバード' マクナイトは1980年代のマイルス・デイビス・グループにも参加しました。ちなみにキース・ジャレット在籍時のマイルス・デイビス・グループにおいて、脱退したジャック・ディジョネットの代わりにいわゆる 'ファンク畑' から次期ドラマーをデイビスが物色していたことがあります。数ある候補の中でほんの少しだけ 'シットイン' させてみたのがファンカデリックのドラマー、レイモン 'ティキ' フルウッド。結局、ジャレットの気分を削ぎたく?なかったのか(笑)、この頃は未だジャズの素養から抜けきれずハービー・ハンコックのグループにいた 'ウンドゥク' ことレオン・チャンクラーを起用しましたが、ここからPファンク人脈と繋がっていたら別の意味で面白かったかも。







そしてピート・コージーが影響されたもうひとつの部分、シカゴのAACMに象徴されるフリージャズの部分についても触れなければなりません。マイルス・デイビスのグループに参加した初期には、そんなフリージャズ の '怪人ギタリスト'としてソニー・シャーロックをかなり意識していたと思われます。彼をピックアップしたハービー・マン1969年の 'Memphis Underground' はまさにジャズ・ロック時代を象徴する大ヒット作であり、当時のグループのメンバー、スティーヴ・マーカス、ロイ・エアーズ、ソニー・シャーロックらはその片棒を担いでおりました。当時の 'ジャズ・ロック' 世代の人気者であったチャールズ・ロイドを意識したであろうマーカスは、マンのプロデュースでソロ作をAtlanticの傍系レーベルVortexから立て続けにリリースします。そこにはジャズ・ロックを象徴するギタリストとして 'Memphis Underground' にも参加したラリー・コリエルが参加、ギリギリガリガリとハードなギターを搔き鳴らしました。ロイ・エアーズも1968年にマンのプロデュースでAtlanticから 'Stoned Soul Picnic' をリリース。そのローラ・ニーロ作のカバーでは 'Memphis Underground' のプロトタイプともいうべきマン流ジャズ・ロックを展開、全体的にフォーキーなサイケデリック的色彩溢れるものとなりました。そして、当時のマンのグループでひとり気炎を吐く異色の怪人ギタリスト、ソニー・シャーロックがマンの持つポップ加減に強烈な毒気を盛り込みます。そんな独特な個性はマイルス・デイビスにも気に入られて1970年の 'Jack Johnson' のレコーディングにも呼ばれます。その後ツアーのメンバーとして招集されるもシャーロック自身は冗談と思ったのか空港に姿を表さずお流れに・・(笑)。すでに妻リンダとの 'Black Woman' やフランスのBYGで制作した 'Monkey Pockey Boo' でフリー・ジャズの極北を提示したふたりですが、マンのグループでは実に危ういバランスでポップとサイケデリック、モダン・ジャズの境界をグラグラと脅かす姿がたまらなかった。もちろん、その '寸止め' 感覚がかえってこの個性を際立たせているのであって、この夫妻にすべてを任せてしまったら全てが絶叫の嵐・・音量注意!。さらにもうひとり、オーネット・コールマンから 'ハーモロディクス' の薫陶を受けた変態ギタリスト、ジェイムズ 'ブラッド' ウルマーも推薦しときましょうか。そもそもコールマンが 'Prime Time' 結成に際して最初に声を掛けたのがコージーの '相方' であったレジー・ルーカス。結局はルーカスが同郷のジャマラディーン・タクーマを推薦することで加入することは無かったのですが、しかし、コールマンがバーン・ニックス&チャールズ・エラービーの '2ギター' を見つけられなければ、コージー&ルーカスの '2ギター' は 'Prime Time' として再出発していたかもしれませんねえ。





さて、突然にシーンの真ん中に放り込まれてその巨体と圧倒的なプレイで見る者を刺激して去って行ってしまった男、ピート・コージー。そんな自身のキャリアの最盛期である 'エレクトリック・マイルス' 期に対する総括として、彼はジョン・スウェッド著 'マイルス・デイビスの生涯' でこう述べております。

"それは人生そのものの音楽だった。つまり浄化であり、蘇生であり、堕落だった。とてつもなく知的でありながら、野卑でもあった。俺たちはある種の世界を作り出し、リスナーにいろんな経験をしてもらい客席との思考交換を目指したよ。"

こんなギタリスト、もう二度と出て来ない・・。

2020年6月1日月曜日

オン・ザ・コーナー

1972年の ‘On The Corner’ から出発しよう。この錯綜するポリリズムの喧噪をどう表現すればよいのだろうか?まるで、カーステを唐突に触って耳に飛び込んできたような衝撃、助走のないグルーヴの混沌は、しばし身体を預けるためのチューニングに時間を要するだろう。その長いイントロダクションの間、主役’ は勿体つけたように引きつったリズムの影に隠れながら、むしろ積極的に打楽器としての役割で混じり合おうとしている。



早速、自叙伝から本人による ‘取り扱い説明書’ を開いてみる。

オレが「オン・ザ・コーナー」でやった音楽は、どこにも分類して押し込むことができないものだ。なんて呼んでいいのかわからなくて、ファンクと思っていた連中がほとんどだったけどな。あれは、ポール・バックマスター、スライ・ストーン、ジェイムズ・ブラウン、それにシュトゥックハウゼンのコンセプトと、オーネットの音楽から吸収したある種のコンセプト、そいつをまとめ上げたものなんだ。あの音楽の基本は、空間の扱い方にあって、ベース・ラインのバンプと核になっているリズムに対する、音楽的なアイデアの自由な関連づけがポイントだった。オレは、バックマスターのリズムと空間の扱い方が気に入っていた。シュトゥックハウゼンが好きになったのも、同じ理由だった。これが、「オン・ザ・コーナー」に持ち込もうとしたコンセプトだった。それは、新しいベース・ラインに合わせて、足でリズムが取れるような音楽だ。"


この音楽は、当初から多くの ‘記号’ を纏いながら、あらゆる ‘ジャンル’ という括弧からこぼれ落ちるような存在として自立している。インドの民俗楽器、ファンクの黒いストリート感覚とジェイムズ・ブラウン、スライ・ストーン、オーネット・コールマン、ヒップ・ホップのルーツ的グループと呼ばれるザ・ラスト・ポエッツ、そして、ポール・バックマスターを通じてもたらされたカールハインツ・シュトゥックハウゼンとヨハン・シュトゥラウス・バッハら錚々たる ‘振れ幅’ は、この ‘謎解き’ に用意された地図であると同時に、深い迷宮へと誘う ‘だまし絵’ の役割を果たす。マイルス・デイビスなど知らない黒人のガキどもへ届けとばかりに送り出されながら、しかし、ほとんど聴衆不在となった ‘黄色いジャケット’ の意匠。このアルバムの ‘共犯者’ として選ばれたバックマスターでさえ、まるで躊躇うように近づくことができない。ただ、焚きつけるような ‘アフォリズム’ を宙に放っただけだ。

それでもこの、一切自立しているような ‘黄色いジャケット の周りにあらゆる点と線を結び付ける ‘地図’ を描き出すことは可能だ。なぜなら、このアルバムは40年以上経った現在においても強烈にその匂いを放ち、多くの ‘越境者’ を虜にする魅力を纏っている。

すでに、このアルバムに付随するダブ、ヒップ・ホップ、ドラムンベースといった ‘ジャンル’ の先駆者としての位置づけで語ることも陳腐化し、’On The Corner’ を巡る語彙とバックグラウンドは拡大したが、それは ‘言説化’ されなかったタームがテクノロジーの進化と共に鮮明となったにすぎない。もちろん、デイビス本人も現在のストリートの潮流を見越して ‘先取り’ したわけではないだろう。しかし面白いのは、現在のストリートを占拠しているダブやヒップ・ホップの手法が、この1972年の ‘On The Corner’ と並行して勃興していることである。’On The Corner’ 秘術的なミックスを手がけたテオ・マセロの頭の中にあったのは、むしろ、ピエール・シェフェール以降のミュージック・コンクレートなどのカットアップやテープ編集の手法であった。それらは現代音楽における緻密なコンテクストと編集作業によって進められるものだが、キングストンの限られた環境においてリディムのリサイクルからミックスの ‘換骨奪胎’ に挑むダブや、ニューヨークのストリートに二台のターンテーブルを引っ張り出し、剽窃と誤用’ によりレコードの意味を変えたブレイクビーツの手法と比べても、そのバックグラウンドは異なれ、驚くほど近似的なアプローチを取っている。また、ミュージック・コンクレートやシュトゥックハウゼンのライヴ・エレクトロニクスによる密室的な作業に比べ、ダブやヒップ・ホップの手法は、貧しい環境と編集による再生産の解釈がそのまま、音楽市場の商業主義に対する ‘批評的行為’ として機能したことに意味があった。それは孤立無援であった ‘On The Corner’ の惨敗に対し、ダブはレゲエのマーケットを超えて生み出される副産物の ‘リミックス’ として発展し、ヒップ・ホップのブレイクビーツにおける ‘再生産’ は、1980年代以降のサンプラーやシーケンサーなどのテクノロジーと共に ‘ループ’ という概念へと変化したことからも明らかだ。このような黒人の身体感覚と限定的なテクノロジーによるダブ、ヒップ・ホップの萌芽、スタジオの密室的な実験精神から生み出される ‘On The Corner’ の手法は、現在の袋小路なポップ・ミュージックの突端にそびえ立つ ‘前衛’ そのものとして未だ有効である。





また、’On The Corner’ のグルーヴとの ‘相似性’ として、これらと並行するように展開していたアフリカのフェラ・クティを始めとする ‘アフロ産ファンク’ との共通項がある。’On The Corner’ 惨敗の要因のひとつが、当時の米国の潮流であるファンクとの ‘連帯感’ の無さだ。アフリカン・アメリカンでありながら、ジェイムズ・ブラウンやスライ・ストーンを聴いて出来上がったのが ‘On The Corner’ というアルバムであるところに、マイルス・デイビスの深い闇がある。これは、同じように孤立しながら独自の手法を深化させ、後に ‘ハーモロディクス’ という概念へと統合させたオーネット・コールマンと被さる。彼らはまさに ‘異邦人としての米国’ を体現した存在であり、ブルーズやファンキーというレッテルと共にこの問題の根は深い。我々が現在認識している黒人音楽のグルーヴと呼んでいるものの大半は米国産だが、当然、米国の黒人に対してジャマイカの黒人とナイジェリアの黒人ではリズムの取り方が違う。アフロビートと呼ばれるグルーヴの元にジェイムズ・ブラウンのファンクとの関係があるが、ある意味でそれは ‘誤用’ による多様性の現れである。レゲエのルーツであるスカやロック・ステディが、そもそもはカリブ海を隔ててラジオから流れてくるR&B ‘ジャマイカ流’ 解釈として始まったのも同様だ。





’On The Corner’  ‘誤用’ は未だフォロワーを持たない自立した存在だけに、アフロ’ という感覚的なニュアンスに対する ‘反語’ として、これら特異なグルーヴを並べてみることには意味があるだろう。すでに1975年、ドイツの評論家兼音楽家であるマンフレット・ミラーは ’Stereo’ 誌のレビューで 「サウンドストリーム(音の潮流)及び、断片的なソロに代わって、リード・シンガー役を努める合唱隊の礎として、幾重にも織られたリズム・ライン(ドラム合奏)がある、西アフリカの儀式舞の原理に基づいた音楽」 であると、’On The Corner’ について卓見した内容を述べている。おおよそファンキーな連帯感や、'ブラックパワー' 的アフロという観念的な印象からも遠いように聴こえるいびつな ‘On The Corner’ を前に、そのリズム構造とアフロの感覚に着目しているのはさすがだ。

‘On The Corner’ 最大のアフォリズムとして、現在までほとんど触れられていないのがドイツの現代音楽作曲家、カールハインツ・シュトゥックハウゼンの影響である。このアルバム以降、ことあるごとにデイビスは自らの音楽の源泉としてその名前を口にするが、このふたりの関係を結び付ける言説は未だ登場していない。むしろ、スライ・ミーツ・シュトゥックハウゼン’ というスローガンだけが一人歩きして、それがクールだという素振りに終始している。



1966年、東京の内幸町にあったNHK電子音楽スタジオを訪れたシュトゥックハウゼンが、そこの電子機器を用いて '作曲・初演' した作品 'Telemusik'。シュトゥックハウゼンによれば、本作は '多チャンネルの特殊な再生方法による音響空間の造型' と '演奏という、不確定な要素を電子音楽に持ち込むことによるある種の人間性復活' にあるとしている。タイトルの 'Telemusik' の 'Tele' は、telephone、televisionの 'tele' であり、時間的、空間的、精神的、内容的にも '隔たり' または '違い' を意味する。本作の再生にあたり、5台のスピーカーを結ぶ直線の中心に向ける(それぞれの方向は中心の1点には結ばれない)。そして、再生時にはシュトゥックハウゼン自身が5台のスピーカーの中心で、5チャンネル・ミキシング回路を操作し、聴衆はスピーカーの内側で中心に向かって位置する。大掛かりな3群オーケストラによるアコースティックでの音響合成と空間音楽を目指す 'Gruppen' のエレクトロニクス版ともいうべき本作だが、その制作手法のひとつに、日本を始めとした世界各地で録音された音の断片をコラージュ的に用いている。それは、奈良のお水取りや雅楽、薬師寺、高野山、アマゾン、南サハラ、スペインの片田舎、ハンガリー、バリ島、ヴェトナムの山奥、あるいは中国からの音素材を基にしているという。このような手法についてシュトゥックハウゼンはこう述べている。

"電子音楽を作るとき、これらの音をすべて一緒にして、それぞれを同じ次元で考えようとする。つまりそこで時間、歴史(伝統)、空間という3つの異なった要素を一緒にすることができる。わたしの作った作品はユートピアへの志向であり、予想であって、そこには時間も空間も存在しない。"

ちなみにこの 'Telemusik' は、バックマスターが差し出したシュトゥックハウゼンのレコードのうち、'Gruppen' と共にあった一枚 'Mixtur' (Grammophon 137 012)とのカップリングによるA面に収録されていたものだ。まさに '混合' と題されたこの 'Mixtur' こそライヴ・エレクトロニクスの端緒とされる作品で、オーケストラ編成から 'モメント' と呼ばれる20のブロックとして取り出したものをフィルター処理やリング・モジュレーターで変調、音響合成するものである。果たして、'On The Corner' におけるA面を占める1曲 'On The Corner (2:58)〜New York Girl (1:32)〜Thinkin' One Thing and Doin' Another (6:45)〜Vote for Miles (8:45)' の連続する主題の転換と、同一曲のベーシック・トラックを用いながら '断片' として切り分けていく 'Black Satin' と 'One and One'、そしてこれらの主題が混ぜ合わされていく 'Helen Butte / Mr. Freedom X' という 'ふたつ' の対照的な様式に 'モメント' は影響を与えているのか、その興味は尽きない。また、アルバムのコンセプトなどにも多くのサジェッションを与えたと言われているバックマスターは、アイデアの源泉としてデイビスにこんな '哲学' をぶちまけている。

要するに、抽象性をおおいに取り入れ、一種の ‘宇宙的パルス’ を生み出すことだった。マイルスには「物事というのは、オンかオフか、そのどちらか一方だ。現実とはオンとオフの連続によって成り立っているんだ。」というようなことを話した。なんともクレイジーなアイデアだがね。私が言いたかったのは、音というのはその前後、もしくは隣に静寂さを伴っていなければ、何の意味も持たないということさ。静寂が音楽を作り、音楽の一部だということを言いたかったんだ。シュトゥックハウゼンもかつてこう言っていた。「おまえに聞こえる音の隣にある音を出せ」と。そこで私もマイルスに「オンかオフの宇宙的パルスを持つストリート・ミュージック」というようなことを言ったわけさ。マイルスはそのアイデアを気に入り、アルバムのタイトルだけでなく、表ジャケットには「オン」、裏ジャケットには「オフ」という言葉を使ったよ。

1960年代、ビートニクらカウンター・カルチャーの世代からフラワー・ムーヴメントに至る影響まで、インド哲学や東洋思想などが過度に持て囃され、それまでのキリスト教的価値観に対する大きな疑問符が突きつけられた。知識人の中からも、哲学とフロイト精神分析における権威であったジャック・ラカンや、現代音楽におけるジョン・ケージが鈴木大拙を通じて理解する禅の思想、そしてシュトゥックハウゼンもまた、理論を超えた誇大妄想的な宗教的言説に塗れていく頃でもあり、バックマスターの発言にはそんな時代の雰囲気が大きく作用している。また、デイビスのシュトゥックハウゼンへの理解が、あくまでバックマスターというフィルターを通して見ていたことにも留意したい。



そんな ‘On The Corner’ に強い影響を及ぼしたシュトゥックハウゼンだが、その逆に、シュトゥックハウゼンへはどのように波及したのだろうか。この1975年の小品は 直観音楽’ と称して、従来のセリーや図形楽譜からのコンテクストを脱し、即興演奏をさらに ‘直観’ なる哲学に基づいたコレクティヴ・インプロヴィゼーションにより イメージの具象’ へ挑んだものである。1970年の大阪万国博の帰りに立ち寄ったスリランカでの体験を元に書いた ‘Ceylon’ と、1975年の ‘Bird of Passage’ B面に配されているが、その ‘Bird of Passage’ の方に、息子のマルクスが ‘On The Corner’ に触発されたような ‘アンプリファイ’ によるトランペットで参加している。クラシックと現代音楽を専攻し、父親の難しいスコアも吹きこなすマルクスだが、一方でジャズにも強い関心を持ち、当時、自らのジャズ・ロックのグループで活動していた。また、本盤ではカールハインツ自らも民俗楽器のKandy Drumやフルートを持って演奏に参加しており、ワウペダルの効いたトランペットと無調によるエレクトロニクスが錯綜する中、まるでデイビスとシュトゥックハウゼンの ‘擬似共演’ を聴いているようでもある。






‘On The Corner’ は、その不可解な構成を伴ったアルバムであることに反し、制作の元となっている素材やアイデアなどについては広く流布する希有な一枚でもある。前述したように錚々たる名前が彼の自叙伝を飾り、それでも出来上がった内容に関して誰も批評することができないことに、デイビスはある種の快感と苦痛を伴っていたはずだ。快感とは、批評家を混乱させることであり、苦痛とは、これがどこのマーケットにも届かなかったという無理解である。しかし、シュトゥックハウゼンを単なる戦略的なタームで煙に巻いたものとして見るべきなのか。デイビスはご丁寧にも、まるで ‘On The Corner’ 解読の ‘処方箋’ の如く ‘Gruppen’  ‘Telemusik’ ’Mixtur’ のレコードを繰り返し聴いて ‘On The Corner’ を制作したことを述べているのである。そこにはデイビスの ‘On The Corner’ 創作の前後として、最も近しい関係であったスライ・ストーンの ‘暴動’ から ‘Fresh’ の創作期間が対を成す。頻繁にスライのスタジオに顔を出し、彼の制作過程も目の当たりにした上で、そこに差し出されたシュトゥックハウゼンのレコードを繋げたところに ’On The Corner’ 接近の鍵が隠されている。薬物とスターの軋轢により自我が崩れ始め、延々として制作の進行しないスライを訪ねる1970年の精力的なデイビスと、自動車事故の後遺症から再び薬物に溺れ始め、片や健康を取り戻しつつあるスライのスタジオに度々顔を出す1973年の病み始めたデイビス。この交差する関係性が ‘On The Corner’ に落とす影響は甚大だ。作品というひとつの枠組みの中にあらゆるパースペクティヴを内包するデイビスの音楽の特徴にあって、’On The Corner’ はその枠組み自体をファンクから現代音楽、インドの民俗楽器などがエレクトロニクスを通じてまき散らしたまま、あちこちで放棄されている。むしろ、その散りばめられたピースを積極的に聴き手自身で組み立てることを奨励しているようにさえ聴こえるのだ。ちなみにここで無機質にテンポを刻むリズム・ボックスは、スライが失った 'ザ・ファミリー・ストーン' に代わりスライ流 '冷たいファンク' の出発点となり、これは、そのままデイビス自身も1973年の来日公演を機にバンドへ導入、ムトゥーメの担当する新たな打楽器のひとつとなった。


シュトゥックハウゼンを持ち込んだ ‘張本人’ であるポール・バックマスターは、デイビスにとって ‘On The Corner’ のコンセプトを手順よく進めて行く上での ‘設計者’ であり、多くの偶発的な要素を呼び込む ‘触発的存在’ であった。シュトゥックハウゼンのレコードを聴き、いくつかのアイデアの交換を元に設計図をバックマスターが書き上げ、そこから実際の現場で取捨選択していく ‘指揮者’ としてのデイビス。さらに、そのラフなスケッチ的セッションを元にデイビスの指示した ‘完成図’ に従い、テオ・マセロがテープを編集する。これが ‘On The Corner’ 制作プロセスのすべてである。’In A Sirent Way’  ‘Bitches Brew’ のカバーに小さく書かれた ‘マイルス・デイビス監督による音楽’ という ‘注意書き’ は、むしろこの ‘On The Corner’ においてこそ徹底していると言っていいだろう。もちろん、テクスト先行の現代音楽を教条的に受け取り ‘On The Corner’ へ結び付けてしまう愚行を犯す恐れはあるが、しかし、単なる ‘マイルス・デイビス流ファンク’ とするだけでは片手落ちなほど、アイデアの源泉としてのシュトゥックハウゼンの影響は濃いと見るべきだ。ちなみにバックマスターは、レコーディング・セッションのアイデアをデイビスに求められて、デイビス近年の作品に提示されて、またシュトゥックハウゼンの作品にも顕著な不規則テンポ(アウト・オブ・タイムのパッセージ)を活用したらどうなるか見てみたい、と答えている。厳密なシュトゥックハウゼンのテクストに従っていなくとも、混乱するアイデアの状況を前に、デイビスにとってシュトゥックハウゼンの ‘ガイド’ は制作を進めていく上での大きな指針となった。

以下は、バックマスターが詳述する ‘セッション’ の中身。

あらかじめ記譜しておいたのは、ベース・フィギュアとドラムのリズムと、あとはそれに合わせてタブラとコンガと、キーボードのフレーズが1、2個。実際、まるまる一曲譜面にしておいても、いざスタジオに入ってみると、キーボードはそれらのフレーズに一応触れはしても、しまいにはすっかり変えてしまう。最初は大体正確に弾いているんだけれども、そのうちだんだんシュトゥックハウゼン流に変形してしまうんだ。少しずつ元のフレーズがわからなくなって最後にはまったく別のものになっていくわけだ。転調する場所も書いておいたのに、リハーサルしないから、転調もされない。僕は譜面のコピーをとって、ミュージシャン達に配ったし、マイルスがそう言うから、ベースのパートやドラムのパートを彼らに歌って聴かせたり、キーボードのフレーズをチェックしたりしていたんだ。ところが、それもろくろく済まないうちに、マイルスが「オーケー、それで充分だ!」と言って、指を鳴らしてテンポをとり出した。そうして始まって、「オーケー、それまで。聴き返してみよう」とマイルスが言うまで30分も延々と続いたかな。もしも、もっとリズムがはねて欲しい、もしくはだらっとして欲しいと思った時は、肩をすくめるあの独特の仕草で表現するのさ。曲をおしまいに持っていくのもやっぱり動作、手のジェスチャーでね。





ポール・バックマスターがデイビスと知り合い、そこで自らのデモテープを聴かせてお墨付きをもらったのは1969年であった。この年、バックマスターはキーボードのティム・マイクロフトと共にSounds Niceの名義で、いわゆるレコード会社の ‘企画もの’ 的イージー・リスニングなロック・アルバム ‘Love At First Sight’ において早くも野心的な試みを探求する。また、ブライアン・ジョーンズ追悼の意でトリを務めたザ・ローリング・ストーンズや、鮮烈なデビューを果たすキング・クリムゾンらと共に 'チェンバー・ロック' でプログレの新機軸を打ち出したサード・イヤー・バンドの一員として、ハイドパークのフリー・コンサートに出演するバックマスター。これ以後、デイビスの ’In A Silent Way’  ‘Bitches Brew’ の革命的な ‘転向’ はバックマスターの血肉となり、1972年の ‘On The Corner’ に至る長い準備期間となった。1970年に制作され翌年リリースされたアルバム ‘Chitinous’ は、バックマスターが指揮を取り、ブリティッシュ・ジャズ・ロックの錚々たるメンツを集めた壮大なオーケストラ作品である。弦楽とジャズ・ロックのエレクトリックな響き、インドのタブラなどが融合し、そこかしこに当時のデイビスからの影響がある。そして1972年の5月にニュー・ヨークの自宅に呼ばれ、その後一ヶ月近くをデイビスと共同生活を送るバックマスターは、毎朝、チェロを取り出してバッハの無伴奏チェロ組曲第一番のプレリュードを弾いていたという。そして、バックマスターが旅行鞄の中に割れないようにして持ってきたシュトゥックハウゼンのレコードは、すぐさまデイビス邸のBGMとなり、それを貪るように聴き続ける中から ‘継続的プロセスとして音楽を捉えるという考え方’ のテーゼを獲得する。デイビスが ‘Chitinous’ を耳にしていたかどうか定かではないが、本アルバムがまるで ‘On The Corner’ への長いイントロダクションとして響くのは偶然であろうか。デイビス邸では、デイビスがピアノ、バックマスターはチェロで応答しながら ’On The Corner’ のスケッチとなるべき最初のアイデアを交換していく。

僕が、マイルスが使ったコードやらスケールやらを基にフレーズを弾くと、マイルスはよく「待った!それだ!それ書いといてくれ!」と言った。僕は急いで書き留めた。

実際のセッションでは、バックマスター自らもチェロにBarcus-berryピックアップを取り付けてワウペダルを踏むかたちの ‘アンプリファイド・チェロ’ で、積極的に ‘On The Corner’ における打楽器の一部として溶け込んでいる。バックマスターが用意していったスケッチの大半は、現場でほとんど変形させられ跡形も無くなってしまったというが、’Chitinous’ はそんな ‘On The Corner’ のスケッチの ‘青写真’ として重要な考察を与えてくれる。



また、このような傾向からデイビスがプレリュードに関心を示していたことは明らかで、基本的にリズムとテクスチャー、色彩、そしてストラクチャーから成り立ち、メロディのない音楽に惹かれていたこと。そしてデイビス自身がバッハを通じて、オーネット・コールマンの言う 'ハーモロディクス' の根幹である "グループ内の全楽器は同時にソロを取る自由がある" という趣旨の理解へと至ったことを認めている。



ファンクと現代音楽を、まるで秤にかけたかのようなバランスで釣り合いを取っている ‘On The Corner’ の隙間を埋めるように作用しているのが、インドの民俗楽器であるシタールとタブラの響きである。インドの ‘民俗音楽’ ではなく ‘民俗楽器、つまり、ジャズにおいてインドの古典音楽が持つ即興演奏の ‘構造’ にアプローチしたジョー・ハリオットやドン・エリスとは違い、あくまでエスニックなカラーとしての ‘インド’ という点では、1960年代後半のザ・ビートルズを始めとしたサイケデリック・ロックに追従している。実際、デイビスが196911月から19702月まで断続的に行ったセッションは、まさにデイビス流のサイケデリックなドローンの実験に費やされた最初の試みである。ビハリ・シャルマ、カリル・バラクリシュナらが奏でるシタール、タンプーラ、タブラを、デイビスなりの遅れてきた ‘サージェント・ペパーズの衝撃’ と捉えてもそう不思議ではない。ある意味では ‘時代のサウンド’ だったわけだが、1972年の ‘On The Corner’ ではそれらとまったく別のアプローチで、積極的にリズムのパーツとして ‘分解’ したように作用している。コリン・ウォルコットのシタールはほとんどスパイス程度の役割に後退しているのに対し、高音のタブラと低音のバーヤの2つのハンド・ドラムからなるタブラは錯綜するポリリズムの ‘基礎ビート’ として、この見失いそうなリズムの頭を示すメトロノームの役割を果たす。ムトゥーメのコンガやスリット・ドラムス、ドン・アライアスの雑多なパーカッションもミックスのバランス上、タブラより ‘低い位置’ に抑えられているだけに、タブラのよく通る乾いた直線的ラインが耳を捉える。実際、デイビスのセッション開始のキューは常にタブラから始められ、そこにひとつずつ楽器が折り重なっていくものであった。





インドとデイビスを繋ぐ興味深いもののひとつとして、19702月にリリースされた一枚の7インチ・シングルがある。それはちょうど ‘In A Silent Way’  ‘Bitches Brew’ の間隙をすり抜けながら、ほんの少しだけ、デイビス言うところの ‘半歩先を行った’ 姿をみせる短い ‘断片’ を披露した。’Bitches Brew’ のレコーディング後、再開されたセッションにやってきたのはインドやブラジルの民俗楽器を持って現れた怪しい風体の姿。スタジオ内にカーペットを敷き、まるで露天商の如く楽器を並べて座っている姿を見て、デイビスいわくリビング・ルームのようだと言わしめたが、1969年の11月に始まったこのレコーディングは、断続的に翌年2月まで行われ、その中の一部を編集したものが上述のシングル盤 ‘The Little Blue Frog c/w Great Expectations’ となった。すでに ‘In A Silent Way’ の衝撃が落ち着き、早くも二枚組の大作である ‘Bitches Brew’ のアナウンスが行われようか、という時期に、これら二作品よりも後にレコーディングされたものが ‘ひっそりと’ ディスコグラフィーを飾ったのだから、それまでのデイビスにとっては前例がないことである。当時、このシングル盤がどれほど評判となり、またヒットチャートを賑わせたのかは分からない。そもそもシングル盤とは、ラジオ局やバーのジュークボックスなどで ‘宣伝’ するための商品であり、いわゆる ‘売れ線’ としてタイアップを呼び込むものでもある。ところがこのシングル盤、むしろ、当時のデイビスが展開していたエレクトリック・サウンドをさらに抽象化したような混沌に満ち溢れているのだ。この二曲は、’Great Expectations’ 1974年のアンソロジー的作品 ‘Big Fun’ で、’The Little Blue Frog’ 1998年の ‘The Complete Bitches Brew Sessions’ というボックスセットで、それぞれ ‘完全版’ の姿を公開している。しかし、ここでその演奏を検証することは無意味だろう。むしろ強調したいのは、その無駄に長い演奏からテオ・マセロが2分弱の編集をして ’断片 とする混沌の姿と、’On The Corner’  ‘プリ・プロダクション’ で描かれる ‘青写真’ を結び付けることにある。実際、この二曲の ’完全版’ でみせる姿のほとんどが明確な着地点もなく、ひたすら繰り返すことの冗長に終始しているのは一聴して明らかだ。以下は、そのときのレコーディングに参加したハービー・ハンコックの証言である。

確か僕達は、あれはいったい何だったんだと、頭をかきかきスタジオから出て来たんだったよ。おもしろかったことはおもしろかった。しかし、僕達にも良いのか悪いのか、さっぱり見当がつかないんだ。とにかく変わってた。

実際、この奇妙なレコーディング・セッションの様子はそのまま19726月の ‘On The Corner’ 制作においても発揮されている。スコアを持って現れたバックマスターはもちろん、明確な全体図も示されず急遽参加したデイヴ・リーブマン、バダル・ロイらの ‘困惑ぶり’ は、デイビスが本作品で求めていた ‘プロセス’ の重要な要素となる。しかし、その不明瞭な地図が指し示している ‘行き先’ はテオ・マセロによる二重の ‘隠蔽工作’ により、さらに意味不明な ‘断片’ の完成図として受け取ることの困惑へと変わる。それは、このバダル・ロイとデイヴ・リーブマンらの発言に集約されるだろう。

バダル・ロイ
正直にいえば、わたしはレコードができたときに一回聴いただけだった。そしてレコードが終わった瞬間、忘れることにした。どうしても好きになれなかったんだ。CDの時代になって、ある日、息子が学校から帰ってくるなり、興奮して叫んだ。「父さん、すごいじゃないか!『オン・ザ・コーナー』で演奏しているじゃないか!」。息子は『オン・ザ・コーナー』を再発見したんだ。それがきっかけになって、わたしは『オン・ザ・コーナー』を何度か聴いてみた。そしてわたしも好きになった。

デイヴ・リーブマン
当時、わたしはこの作品をまったく理解できなかったし、ただ  であるとしか思えなかったよ。コンセプトや音楽的な方向性がわからなくて、しかも彼のバンドに入って最初の6ヶ月くらいは、雑然としてたんだけど、徐々に彼がやろうとしていることを理解し始めたんだよ。でもはっきり言うと、20年、30年経って、やっと当時のマイルスのコンセプトがわかった気がするんだ。きっちりとまとまっていなかったことが逆に魅力的で、当時としては、とても斬新な音楽スタイルだったと思う。そして ‘On The Corner’ の影響で、1970年代以降のジャズは、様々なジャンルの音楽が最も融合した時代となったのさ。そして、それはマイルスが成し遂げた音楽への大きな貢献の一つだったんだよ。

話を戻せば、このシングル盤では当然 完全版’ とはミックスのバランスが変わり、ドラムスよりもベース・ラインがビートの中心に据えられている。各楽器の錯綜する細かなパーカッシヴ的アプローチは、早くも ‘On The Corner’ の予兆を感じさせるが、むしろ、長いジャムセッションの一部を切り出した ‘断片’ の唐突さに、演奏の中心点をずらしながら、聴き手に積極的なチューニングを求めてくる ‘On The Corner’ のコンセプトの萌芽をみる。ちなみに197211月リリースの ’On The Corner’ からは、アルバム一曲目のメドレーから ‘Vote for Miles’ と ’Black Satin’ をタイトル変更した ‘Molester’ の二曲がシングルカットされている。




このようなテオ・マセロの編集におけるテクノロジーの積極的な活用は、他のプリ・プロダクションにおけるエレクトロニクスの 'ギミック' でも存分に発揮されている。CBSの技術部門が製作したElectric SwitcherInstant Playbackと呼ばれる機器は、アルバム全体を左右に激しく ‘錯綜’ するパンニングの定位として、この ‘On The Corner’ の不条理な世界を強調する。すでにCBSの技術部門は、’Bitches Brew’ における印象的なエコーを放つトランペットの響きを生み出すため ‘Teo 1’ と呼ばれる機器を製作している。1998年、CBSが大々的にマイルス・デイビスのカタログを手直した際にデジタル・リマスタリングとリミックスを担当したマーク・ワイルダーの言によればそれは、テープ・ループ1本に録音ヘッド1つと再生ヘッドが最低4つは備えられたテープ・エコーであるという。この後、196911月の ‘Great Expectations’ ではさらにトランペットへの加工は大胆となり、翌年3月にレコーディングされ、1974年の ‘Big Fun’ で公開された ‘Go Ahead John’ に至って、そのまま ’On The Corner’ に先駆けたようなテクノロジーとミックスの最初の成果を発揮する。それは ’Jack Johnson’ 譲りのロック・ビートをバックに、いわゆるパンニングというよりかはスイッチャーを交互に切り替えながらデイビスの持つ ‘二面性’ のイメージを強調した。このような 'ギミック' はさらに錯綜する ’On The Corner’ において、ステレオを最大限に活かしたアルバム全体に横溢するデイビスの分裂したイメージへと拡大する。また、あまりにも不条理で雑然としたミックスと捉えられがちな 'On The Corner' ではあるが、ほとんどデイビスのトランペットが聴こえないことに抗議したリスナーに対し、マセロは 'Bitches Brew' が24分43秒、'Live-Evil' が26分40秒、'Black Beauty' が33分39秒、そして 'On The Corner' が26分38秒ものソロを取っていると具体的に割り出して反論しており、これだけでもいかにテープを周到かつ緻密に編集していたかが伺える。ちなみに、テオ・マセロのプロデューサーとしての資質の根底にはモダン・ジャズと並び現代音楽への素養があり、1967年にはチャールズ・アイヴズら複数の作曲家と無調、微分音をテーマとした作品 'New Music in Quarter-Tones'  'One-Three Quarters' 自ら作曲、指揮している。

そんなテオ・マセロの偏執的な 'ポスト・プロダクション' は、そのまま’On The Corner’ の奇形的 ‘変奏’ と捉えられる一曲 ‘Rated X’ に到達する。’On The Corner’ 以降における編集作業を施したものとしては最もプログレッシヴで、また、デイビスがシュトゥックハウゼンの影響下において完成させた極北といえる。そもそもは1972年の9月にレコーディングされたベーシックトラックを元にエンジニアとしてのマセロが、その他のレコーディング・セッションから取られたデイビスの弾くオルガンをオーヴァーダブして、完全にスタジオの編集室の中でテープを切り貼りし、ミキシングコンソールによる音響的操作によって完成させたミュージック・コンクレートとなっている。以下、マセロによる制作の ‘レシピ’ を開いてみよう。

マイルスのオルガントラックは、実は別の曲のものだった。もともと “レイテッドX” とはまったく無関係だったんだ。バンドの音が一斉になくなる箇所があるよね?それでもオルガンは鳴り続ける。あれはループだ。その12小節後、再びバンドが戻ってくる。あのトラックは編集室で作ったものだったのさ。

‘Rated X’ は、1972年のコンサートバンドにおけるオープニングのレパートリーとして用意された曲であり、これは19728月にスタジオでリハーサルしたものが ’Chieftain’ と誤記されて ‘The Complete On The Corner Sessions’ に収録されている。一方、徹底的に編集の施されたこちらの ‘Rated X’ は、そもそものベーシックトラック含めどのような意図によるセッションだったのか、未だ明かされていないものへの興味は尽きない。また、この二曲ともに変則的なクロスリズムを持つバックビートは、1990年代に現れたUKのダンス・ミュージック、ドラムンベースを先取りしたものとして捉えられてもいる。ほとんどテープ編集とミキングコンソールによる音響的操作の ‘ダブ的’ 手法及び、ブレイクビーツの先駆的な 'ループ' を軸に制作された ‘Rated X’ のラディカルさは、'On The Corner' においてリズムの断片にまで解体されたデイビスのトランペットは完全に消え去っている。それはクラスター的オルガンの響きがミュートスイッチによる ‘On / Off’ として、ダイナミズムとグルーヴの波が遠心的な距離で拮抗する緊張感の持続においてのみ、ひたすら不穏な状態から逃れることを拒否しているようでもある。端的にこの徹底した編集作業の産物は、そのまま山のように積み上げられる ‘アウトテイク’ のオープンリールこそ、ほんの瞬間を捉えることを前提とした ‘アーカイブス’ の構築物であることを示す。つまり、創造の過程は客観的な聴取の作業を要請するための ‘宝の山’ に挑むことであり、それは、徹底した編集主義を貫く当時のデイビスの意図を強調するマセロの以下の発言からも読み取れるだろう。

録音の機械というのは、セッションの最中止まることはない。止まるのは、録音したプレイバックを聴き返す時だけだ。彼がスタジオに入った瞬間、機械を回し始める。スタジオの中で起こることはすべて録音され、残されるのはスタジオ内のすべての音を閉じこめた素晴らしい音のコレクションだ。一音足りとも失われていない。私が彼を手がけるようになって、彼はおそらく世界でただひとり、すべて(の音)がそっくりそのまま損なわれていないアーティストだろう。普通はマスターリールを作るものだが、それは3トラック、4トラックの開発とともにやめた。もうそういうやり方ではなく、自分が欲しいものだけを取り出し、コピーする。そのあとオリジナルは手つかずのまま、保管室に戻されるんだ。

そして 私のやったことが気に入らない者は、20年後、やり直せばいい” とテオ・マセロは言葉を結んでいるが、それは、この時代のデイビスの創造性において最もラディカルな試みであった ’On The Corner’ の核心を突くものでもある。







一方で ‘ブラック’ の視点からみると、R&Bとシタールは特別不思議な関係というわけではなかった。大ヒットしたザ・デルフォニクスの ‘Didn't I (Blow Your Mind This Time)’ やザ・スタイリスティクスの'Your Are Everything' を始め、すでにMFSBによるフィラデルフィア・ソウルのプロダクションにおいて、シタールを隠し味的に用いるのは当然となっており、また、デイビスも ‘On The Corner’ のアイデアをムゥトーメに話した際、MFSBの中心人物トム・ベルのアイデアをヒントにして練っていると話しながら、19701月にレコーディングした ‘Guinnevia’ のテープを参考として寄越したという。もちろん、ここには ‘On The Corner’ 制作の直前まで進行していたシングル ‘Red China Blues’ セッションの仕事が絡んでくる。当時、アイザック・ヘイズの ‘Shaft’ やカーティス・メイフィールドの ‘Superfly’ のヒットをきっかけに、いわゆる ‘ブラックスプロイテーション’ 映画の興隆があった。黒人を主人公にしたアクション映画は、それまでの黒人たちが置かれていた状況を一変させ、以後、雨後の筍のように同様の映画が乱発された。デイビスも、そういった作品を得意とするウェイド・マーカスをアレンジャーに呼び ’Red China Blues’ というシングル盤を制作したが、結局リリースされたのは1974年である。’On The Corner’ の結果を鑑みたとき、この曲 ‘Red China Blues’ はストレートに同胞たちに受ける要素を持っていた。むしろ、それはデイビスらしくないとさえいえる ‘仕事ぶり’ なのだが、ここから ‘On The Corner’ への ‘転回’ について考察してみる価値はあるだろう。同時期、デイビス同様にファンクへと接近し、スカイハイ・プロダクションを迎え制作された '真っ黒い' ドナルド・バードの ‘Blackbyrd’ やハービー・ハンコックによる ‘Headhunters’ が、従来のジャズの枠を超えてR&Bの層に受け入れられていたことと ’On The Corner’ への ‘転回 から ‘惨敗’ の流れは、そのままジャズの制作システムと聴衆が大きく変化したことを如実に物語っている。以下、CBS制作の ‘On The Corner’ PR用広告に添えられていたキャッチコピー。


「マイルス・デイビスと共にストリートを歩き、舗道の人たちの言葉に耳を傾けよう、それは ‘その地区’ に暮らす人たちの喜び、苦しみ、美しさが凝縮された音楽。耳を澄ましてみよう、世界で最も美しい場所のひとつに」

このようなメッセージとは裏腹に、1970年代以降の同胞が求める ‘連帯感’ は、混沌とした制作のプロセスをパッケジする ‘On The Corner’ よりフォミュラ化する音の持つパッケジの洗練さであった。そこには、一枚岩のように誇っていた ‘ブラック’ による共同体への希求は過去のものとされ、あらゆる '階層' へと振り分け、直されていく ‘フュジョン’ に象された人たちの容としてむことができる。すでにストリトから遠く離れた ‘スタ’ としてのデイビスが創造する ‘混沌’ の世界は、コー・マッコイが描くグラフィティトの ‘でもって近づこうとすればするほど、巨大なアフロヘアと共に洗練された身のこなしで、白人に兼ねなく街を闊することを求める ‘ブラック’ とは相容れなかったのである。それは、すでに人が米国社にとって理解され難い ‘ノイズ の存在ではなくなったことの証明でもあった。

‘On The Corner’ のレコディングセッションを考える上で、いわゆる ‘マイルスデイビススク’ の有能な卒業生たちやジャズ畑からの加と、まったく偶的に呼ばれて加したミュジシャンたちとの混合した関係がある。その スクル卒業生 であるジョンマクラフリン、ハー・ハンコックとチックコリア、ベニー・モウピン、ジャックディジョネット、そしてジャズ畑の ‘新人’ であるデイヴブマンやカルロスネット、ロニー・リストンスミス、アルフォスタ、ビリー・トらに、引きき前年のコンサトバンドからマイケルヘンダソン、ドンアライアス、ムトゥーメが参加して、デイビスの意図するグルーヴを支える役割を果たしている。ここに新たなメンバーである、インドの民俗楽器を操るバダル・ロイ、コリン・ウォルコットと、それまでとは畑違いのジャンルからデイヴィッド・クリーマーやハロルド・ウィリアムズを加えて、さらに、デイビスと共に制作側に立つ人間ながら演奏者としても参加するポール・バックマスター、テオ・マセロらが ’On The Corner’ のクレジットを飾っている。その他、ハロルド・ウィリアムズの紹介により、以降のコンサートバンドから加入するレジー・ルーカスも参加していたのではないか、とも言われているが、残念ながら確認のほどは取れていない。このような事態となったのは、スケジュルの都合がつくメンツを連れてくるようにと ‘口コミ’ り、参加する演奏者が各々連れてきた結果であった。もしくはレコーディング・セッションですべて完成させようとせず、テオ・マセロの緻密な編集作業を念頭に置きデイビス自ら狙っていたものとも考えられる。実際、これらのクレジットはさながら ‘覆面バンド’ の如くアルバムでは伏せられていたのだから。この 'On The Corner' におけるクレジットの '隠蔽' については 'スイングジャーナル' 誌1973年7月号のインタビューでこう答えている。

"レコードをじっくり聴いてもらいたかったからだよ。白人の批評家ときたら、名前を見ただけで、黒人ミュージシャンの悪口を言うからね。彼らには、我々がどう感じているかなんてことは、これっぽっちもわかっちゃいないんだ。そんな連中には、オレのレコードについて何かを書くなんて許せないよ。だから名前を外したんだ。誰がやってるのか分からなければ、何も言えなくなるんじゃないか。コメントなんてしてもらいたくない。"

この中から真っ先にデイビスのお眼鏡に叶ったのが、デイヴ・リーブマンとロニー・リストン・スミスのふたりだ。すでに、アルバム制作後の長期ツアーを見越して自らのコンサートバンドへの参加を打診したというが、スケジュールの都合でリーヴマンは翌年の1月、リストン・スミスは3月にそれぞれ遅い加入を果たすこととなった。そして、ディジョネットに加えて参加したビリー・ハートとアル・フォスターらふたりのドラマーから、フォスターもまたデイビスの熱烈なラヴコールを受けたひとりである。リーヴマン同様、出演するクラブに通い詰めて口説き落とされたのだ。ちなみにフォスターは、3日間に渡って設けられた 'On The Corner' レコーディングのうち、6月12日のセッションでディジョネットに代わって参加し、ビリー・ハートとのツイン・ドラムスで'Ife' と 'Jabali' の二曲を叩いている。では当時のアル・フォスターの証言を聞いてみよう。

"(デイビスに口説き落とされてから)2ヶ月ほどたった6月のある日、マイルスから電話があって「何日の8時にCBSコロンビアのスタジオに来るように」っていうんです。結局、このときのレコーディング('オン・ザ・コーナー' のセッション)が、ボクのマイルスとの最初の仕事になったんだけど、録音に入るまでは、ボクにはどんな音楽をやるのか見当がつかなかったんです。もちろん、マイルスがきいたボクのプレイはジャズでしたから、ジャズをやるんだろう – ぐらいに考えていたんですが、なにしろどんなメンバーとやるのかなんてこともわからなかったんです。そしたら、演奏は、意外にもロック的なものだったんです。もちろん、ロック的っていったって、じっさいはロックじゃないんですよ。なんていうのかあ、ただ「音楽」としかいえないんだけど、つまり、マイルスだけにしかできない音楽なんだな。なにしろ、リズムがファンタスティックなんだ。録音するときにマイルスがボクの耳元でリズムを口笛で簡単に吹くんです。このリズミックなアイデアってのは、いまバンドでやってるのも全部そうだけど、このリズムはマイルスが頭の中で考えだしたものなんです。「オン・ザ・コーナー」の録音があってから、ボクはドラマーのビリー・ハートなんかと一緒に一度、マイルスの家でリハーサルもやったんだけど、マイルスからロックのドラマー、バディ・マイルスをきけっていわれた。それにジャック・ディジョネットもきくようにってね。そのほか、ビリー・コブハム、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのグレッグ・エリコとかいうドラマーもいいからきけっていわれたな。"






しかし、このツインドラムスの編成によるファンクのアプロチは示唆的である。すでにターニング・ポイントとなった ’Bitches Brew’ においてディジョネットとレニー・ホワイトの編成を試みていたが、ここでの編成に大きな影響をえているのは、同時代のジェイムズブラウンのバンドであるザJBズを支えたふたりのドラマ、クライドスタブルフィルドと ’ジャボ’ ことジョンスタクスであろう。つまりディジョネット以降、デイビスにとってファンクをキープするドラマーの選択は重要な問題であった。度々、穴埋め的に参加していたビリー・コブハムはもちろん、1971年のツアーメンバーであった ウンドゥク’ ことレオンチャンクラ、そして従来のジャズ畑からの選考にこだわらず、ジミヘンドリクスのバンドオブジプシズからバディマイルス、ファンカデリックの ‘ティキ’ ことレイモンフルウッドらにもをかけていた。おに入りはスライ&ザファミリー・ストンのグレッグエリコだが、一足早くウェザー・リポトのツアメンバに加入した後であった。またエリコの後釜として、アルバム ‘Fresh’ 加するアンディニュクの叩き出す ‘In Time’ をデイビスが貪るようにいていたことも特筆したい。そして、‘On The Corner’ 直前まで進行していた ’Red China Blues’ セッションに加する ‘プリティ’ ことバディは、まさに ‘ファンクマスタ’ ともいうべきグルヴを叩き出すドラマとして有名であったが、果たしてデイビスはをかけたのであろうか。結局は、ファンクと最も遠いアルフォスタを長きに渡り起用することを考えれば、典型的なパディのいグルヴと、これ以降のコンサトバンドで展開するフォスタ ‘扱い方’ の違いにデイビス流の特異なファンクのアプロチが見えてくる。それは、この ‘On The Corner’ 全体を貫いている ‘分散化’ されたリズムのパーツとして、個々の律動から全体を統合するアンサンブルへと到達するプロセスに関心を示すものとして現われている。ファンク’ もまた、デイビスにとっては目指すべきものではなく ’解体’ されるべきものであった。

ジャズのクリティクが持つマルクス主義的進歩史観は、マイルス・デイビスに大きなモダン・ジャズの椅子を用意してきた。転向’ したとされる ‘In A Silent Way’  ‘Bitches Brew’ のときでさえ、務めてジャズの著述家たちは、彼の行動にモダン・ジャズの明日を占う ‘マイルストーン’ の一投があると納得させてきた。しかし ‘On The Corner’ は、その ‘原理主義’ に対するアンチテーゼとして強烈に響く。批評に必要なパーソネルも編集の痕跡も隠蔽して、ふざけた漫画の ‘黄色いジャケット’ で舌を出してみせる。それは、マイルス・デイビスがどこからやってきて、どこへ向かうのかという ‘進歩史観’ の歩みを止めた瞬間でもある。また、不必要に黒人としての連帯感を求めたアルバムでもない。彼は、同胞の大半がいつも同じレコードを聴いて頭を固定させ、おなじみのものと戯れている姿に失望する。ブルーズ’ にしがみつき、ファンキー’ であることや ‘ブラザー’ であることを ‘演じている’ 黒人たちに向かって、より高度なアートフォームを提示して啓蒙することが自分の役目だとまで述べるのは、急速に変化する時代と格闘しなければならなくなったデイビス自身を象徴している。これは1970年代以降、大手を振って街を歩けるようになった黒人たちと アウトサイダー’ としてのブルーズやR&B、ジャズなどの黒人アートにかかわる根幹的な問題提起として読めるだろう。’On The Corner’ が用意する難解なパズルは、前近代的なエンターテインメントとしてのジャズの終焉と、巨大なロック・ビジネスを通じて ‘ジャンル’ という鋳型に流し込まれる狭間で、改めて自らの ‘居場所’ を確保し、強力な ‘磁場’ のように影響力を放つマイルス・デイビスの姿を提示する。そこには常に ‘’ が孕んでいるのだ。


最後に、上でも少し触れたが、スイングジャーナル’ 19737月号のインタビューで、デイビスが ‘On The Corner’ のセールス惨敗を見越したと思しきコメントがあるので抜粋したい。このインタビューは同年6月の来日公演を前に、51日のサンタモニカはシビック・オーディトリアムの楽屋で行ったインタビュー。バンドはインドの楽器群含め総勢10名に膨らんでいたターニング・ポイントの時期である。ちなみにデイビス自身は‘On The Corner’ への困惑を理解できなかったようで、ある晩、ありきたりなジャズ・ロック・グループのライヴを聴きながら、なぜ、大衆はこんなクソみたいなバンドを好きなのにオレの音楽が分からないんだ?と悪態を付きながら独り言の如く、たぶん、オレの音楽が一度にたくさんの方角から出てくるからなんだろうな、と '自己分析' している。また、デイビス自身が行ってきた '変貌' に対してその時代ごとの変化、特に自動車の衝突音などが、昔は金属の鋭い響きだったものが今はプラスティックの鈍い響きへと変わったことなど、常に鋭敏な感覚で嗅ぎ取っていることにも留意したい。

-       さっきあなたは、聴衆のことを気にしないといったが、それでは、あなたは音楽を何のために演奏しているのか。聴衆のことをどう思っているのか。

聴衆について、オレがいつも考えているのは、人々をより高い水準に導きたいということだ。彼らは、いつも同じレコードを聴いて頭を固定させてしまう。しかし、いまは1973年なんだ。テレビでやっている音楽だって、60年代から少しも進歩していない。彼らを導かないといけないと思う。

そして、この先トランペットで何かやれそうな可能性はあるのか、という質問を受けてデイビスは・・

いつも自分のやっていることが、いま世界で起こっていることに遅れているかピッタリしているかどうかという風に考えるんだ。自動車の衝突音、街の音、それに合わせたりぶつけたり、ただ同じことの繰り返しは出来ないな。だいたい、洪水みたいに出てくるレコードを聴いたって、どのレコードもリズムは皆同じじゃないか。皆メロディばかりに気を取られていて、リズムはさっぱりダメなんだ。我々はメロディのためのリズム(Rhythms for Melody)を演奏しているんだ。

参考文献
完本 マイルス・デイビス自叙伝
マイルス・デイビス / クインシー・トゥループ著 中山康樹訳 (JICC出版局)
マイルス・デイビス物語
イアン・カー著 小山さち子訳 (スイングジャーナル社)
マイルス・デイビスの生涯
ジョン・スウェッド著 丸山京子訳 (シンコーミュージック・エンタテイメント)
●スイングジャーナル1973年7月号 (スイングジャーナル社)
●音の始原を求めて - 塩谷宏の仕事 - ライナーノーツ: 佐藤茂 (元NHKチーフ・エンジニア)
●SAX & BRASS magazine 2013年秋号 Vol.28 (リットーミュージック) 
●エレクトリック・マイルス 1972 - 1975 〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相
中山康樹著 (ワニブックス【PLUS】新書)